09.海賊襲来
紙の月新聞に尋ね人の広告を出すというのはパコの提案だった。当然ただでとはいかないが、ニーナの給金が貯まるまでパコが広告料を立て替えてくれるらしい。
正面に腰掛けたニーナを直視できないネズリーが、さかんに目を泳がせている。
「その人の名前を教えていただけますか?」
クロエが手帳にペン先を当てがいながらニーナに尋ねる。
「知りません」
「えっ?」
「なんと! 君は自分の使用人の名前を知らんかったのか?」
十六夜が驚きの声を上げると、ニーナは何食わぬ顔で小首を傾げた。
「ええ。爺は爺ですから。何も困ることはありませんでした」
「では、名前以外のことを教えてください。年頃とか、背格好とか」
「名前以外のこと」
ニーナは思いつく限りの爺の特徴を挙げた。年齢、背丈、髪の色、目の色、鼻の形など。しかし列挙された情報を全て合わせても、個人を特定するのは困難であった。
「参りましたね。これだけで探すのは難しそうです」
クロエは顎に手をあてて考え込む。ニーナはそわそわしているネズリーの手帳を指差した。
「貸しなさい」
「は、はい?」
おずおずと差し出された手帳とペンを手に取って、ニーナはすらすらと爺の似顔絵を描いた。その絵があまりに精巧であったので、一同は目を見張った。
「おおっ、素晴らしい画力ではないか」
「じゃあこの絵を掲載して、目撃情報を募るといいっすね。いやあ、ニーナさんはすごいなあ!」
「絵は得意です」
山城には娯楽らしい娯楽がなかったため、よく地面や壁に絵を描いて遊んでいたのだ。ニーナの絵を見るたびに、爺は「お嬢さまは画家の才能がございますな」と褒めてくれたものだ。
「へえ、この人が噂の爺やさんか。優しそうな人じゃない。見つかるといいね」
覗き込んで笑いかけてくるパコに、ニーナはこくりと頷いてみせた。
広告の内容を話し合って煮詰めていると、再び入口のベルが鳴った。息急き切って転がり込んできたのは、バスクシャツ姿の年若い船乗りだった。
「た、大変です! 船長が、船長が」
「……! 父の身に何かあったのですか?」
十六夜が腰を浮かせる。船乗りは泣き出しそうになりながら「船長が海賊に捕まっちまいましたあ!」と叫んだ。
***
「父上……今助けに参ります」
自分も行くと言って聞かない女将をやっとの思いで宥めすかして、十六夜は玄関を出た。着物の袖を縛り上げる襷を締め直し、木刀を腰に差す。店の扉に「臨時休業」の札をかけたところで、中からハッサンとパコが飛び出してきた。
「一人じゃ行かせねぇぜ、坊ちゃん!」
「……料理長」
鉄のフライパンと鍋蓋で武装したハッサンが豪快に笑う。
「警察に任せた方がいいと思うけどな。海賊相手に喧嘩売るなんて正気の沙汰じゃない」
努めて冷静にパコが二人を窘める。実際クロエとネズリーに頼んで警察を呼びにいってもらっているところなのだ。素人の分際でのこのこ敵陣に乗り込んでいくより、然るべき機関に任せる方が賢明だ。しかし、こうしている今も父親の身が危険に晒されているかもしれないと思うと、十六夜は居ても立ってもいられないのだった。
「怖いのなら来なくていいんだぞ」
十六夜はパコの両手に握りしめられたモップを見て、思わず口許を緩める。
「そんなわけにいくか。喧嘩の弱さじゃ右に出る奴がいないあんたが行くって言ってんのに」
パコが眉間に力を入れる。飄々とした彼らしからぬ表情に、十六夜の胸は熱くなった。
「ありがとう。お前はいい男だ」
「わかってるじゃないか。さ、ちんたらやってないで、さっさと行くぞ」
拳を突き合わせる二人を庇うように、ハッサンが前に出る。
「よおし、海賊だか何だか知らないが、ぎったんぎったんの素揚げにしてやるからなァ!」
港に向かって走っていくパコとハッサンの後を、十六夜が緊張の面持ちで歩いていく。ニーナは半開きの扉の中からその姿を見送った。扉に提げられた札を見て首を傾げる。
「臨時休業?」
ニーナはきょろきょろ辺りを見回しながら、三人の後をついていった。
***
港に入ってくる船の種類は客船、漁船、貨物船の三つに大別される。そのうち十六夜の父が乗り込んでいるのは貨物船であった。彼は海運会社に勤めており、主に海外との貿易に従事している。もともと今日明日には長い航海を終えて帰港する予定だった。
騒然とした青珊瑚の港には、三つのうちのどれでもない蒸気船が停泊していた。船首にはしどけなく肌を晒した女の彫刻が施されている。側面には物々しい大砲が備えつけられており、潮風に翻る黒い旗には、薔薇と錨の意匠が縫い取られていた。十六夜の父が乗っている貨物船は、その真横に停められているようだ。
「ううむ、この旗は……」
桟橋から十六夜が訝しげに船を見上げる。港の船乗りたちはそれなりに右往左往していたが、とても略奪者が上がり込んだと思われるような慌てぶりとはいえなかった。
十六夜は首を捻ってパコを見た。パコもまた「思っていたのと違う」という風に首を振る。こうなると、宿に飛び込んできた若い船乗りが早合点をしただけなのかも知れなかった。
「いやに落ち着いてやがるな。こりゃいったい、何がどうなってんだ?」
ハッサンが顎髭を撫でつけながら疑問を口にする。
「料理長。この旗は、いわゆる海賊とは……」
「何をしているのですか」
「え? うわあ! ニ、ニーナちゃん、どうしてここに?」
パコが驚きの声をあげて、全員が振り返る。潮風に白い髪を遊ばせながら、ニーナがきょとんとして立っていた。
「臨時休業とは何ですか。私は何をすればいいのですか」
「ニーナ殿! ここは危険だ、宿に早く戻りなさい」
「何故?」
「えっと、十六夜の親父さんが海賊に捕まってるかもしれなくて」
「海賊とは何ですか」
「そ、それは帰ったら説明するからさ……」
押し問答をしていると、甲板から縄梯子が降ろされた。見慣れない黒地のブレザーに身を包んだ男たちが、続々と梯子を降りてくる。
その後に続いて降りてきたのは、十六夜と同じ黒髪の男だった。下向きに結えた総髪にマリンキャップを被り、苦み走った顔で周囲を睥睨する。日に焼けた首は樹齢を重ねた大木のように太く、体つきは巌のようだ。白色のフロックコートに群青のタイを締める姿は、ただならぬ威厳を放っていた。
「父上!」
「おーい、御頭!」
十六夜とハッサンが近づこうとすると、続けざまにひらりと人影が舞い降りた。褐色の肌をした細身の男だ。プラチナブロンドを三つ編みに束ね、先に降りてきた男たちと同じ黒いブレザーを肩から羽織っている。大きくはだけたシャツの胸もとから、薔薇の刺青が覗く。瞳は燃えるような赤銅色。半月刀を佩いて悠然と歩くさまは、異国の王侯貴族のようでもあった。
彼はいかにも馴れ馴れしいようすで、黒髪の男に何事か耳打ちをする。黒髪の男は十六夜たちに向き直り、厳しく引き結ばれた唇を開いた。
「すまん、息子よ。父は海賊に捕まってしまった」