08.ペーパームーン新聞社
今宵も満月の夜が巡る。夜空に浮かぶ金色の月が、煌々と町を照らしている。
「この町にはまだ狼がいる」張り紙を信じ込む者も疑う者も、早々に門扉を閉ざした。「狩り」より後にこの町にやってきた者も、どこも店じまいしているのがわかると諦めてねぐらに帰っていった。海の底に沈んだかのように、青珊瑚町は静まり返っている。
海猫のスプーン亭も例外ではなく、日も沈まないうちから店じまいをしていた。酒場で葡萄酒を飲み交わしているハッサンと女将のほかは、ほとんどが自室に引きこもっている。人狼が家にまで上がり込んでくることはなかったが、多くの町民は染みついた恐怖と憂いから、部屋にまで閉じこもることが常だった。
ニーナは自室のベッドで眠りについていた。体は一回り大きくなり、手足がベッドからはみ出している。寝息を立てるたび、大きな顎から鋭利な牙が覗く。全身を覆う純白の体毛が、月の光を浴びて夜闇に浮かび上がっている。机の上には、眠り薬の瓶と水差しが置きっぱなしになっていた。
魔女の薬の効果は覿面だ。ニーナは夢を見ることもなく深く眠る。人々が息を殺す青珊瑚町の夜は、この世のどの町よりも静かに更けていく。
***
「人間は、両親が子どもを育てるのですね」
子連れの親子の姿を振り返りながらニーナが言った。隣を歩いていたパコが、ぎょっとして帽子のつばを上げる。
「う、うん。人間っていうか、ほとんどの動物がそうだと思うけど。ニーナちゃんのところは違うの?」
周囲を警戒しながらパコが声を潜める。
「白狼は群れの皆で子育てをします。両親が特別ということはないのです」
「へえ、そういうものなんだ」
ニーナとパコは買い出しのために市場にやって来ていた。露店にはオレンジやレモンや葡萄などの瑞々しい果実から、トマトやビーツなどの新鮮な野菜、塩漬け肉やチーズなどの保存食まで幅広く並んでいる。商魂たくましい店主たちが、我こそはと客引きの声を上げていた。
「こんにちは、これくださいな。あっ、少し髪の毛切りました? よくお似合いですよ」
「あらパコちゃん、いらっしゃい。気がついてもらえて嬉しいわぁ、うちの旦那なんか少しも気づきやしないんだから」
「そりゃもったいない。すぐにわかりましたとも。ぐっと雰囲気が変わりましたから」
「もう、上手なんだから。おまけしちゃうよ!」
パコが市場の女性たちに話しかけるたび、籠の中にさまざまな「おまけ」が積まれていく。そのたびにパコは一人一人に投げキッスを送った。その姿を見ながらニーナも投げキッスの練習をはじめたが、申し訳なさそうなパコに「君はやらなくても大丈夫」と止められた。
買い物の仕方は、以前勧められるがまま売り物のプラムを丸齧りしようとした際に教わった。買い物籠に詰められるだけの果実を放り込み、代金を支払う。潮風に背中を押されながら、ニーナとパコは帰路に着いた。
「あのね、ニーナちゃん。僕も君と似たようなものなんだ」
ニーナより一回り大きな籠を抱え直して、パコが話を再開した。
「母さんが隣町の宿屋で住み込みで働いていて、僕もそこで育ったんだ。女所帯の宿屋でね、母さんが忙しいときは姐さんたちが代わりばんこ面倒を見てくれたよ。酸いも甘いも噛み分けた姐さんたちに、魚のわたの取り除き方から女性への接し方まで、めっぽう厳しく叩き込まれてさ。僕が今のような色男に大成したのも、あの頃の苦労の賜物ってわけ」
泣きぼくろを湛えたパコの目尻に、カラスの足跡が刻まれる。人の心の機微に疎いニーナにも、彼が懐かしい思い出を噛み締めているのがわかった。
「皆、今頃どうしてるかなあ。ま、元気でないところを想像する方が難しい人たちだけどね」
「山城の皆も達者であることを望みます」
「うん、そうだね。君の故郷の人たちも、元気だと……あ!」
パコがはたと振り返る。
「そうだ、君の爺やさんのことだけれど。探す方法があるかもしれない」
***
「さすが十六夜さん、筆が早くていらっしゃる」
十六夜から受け取った原稿に、クロエは目を通していく。年の頃は三十前後。男性物のチェックのラウンジスーツを身につけた彼女は、きつく纏め上げた茶髪の後れ毛を掻き上げながら苦笑した。
「私は素敵だと思いますがね。近頃の読者は現実主義のきらいがあって、夢物語ばかり読んでくれないのです」
原稿のページを繰りながら、クロエは切長の碧眼を厳しくする。
「もう少し科学に基づいた物語か、あるいは歴史小説のような重厚な作品にも挑戦してみては?」
「うう、ううむ」
頭を抱える十六夜に肩をすくめて、クロエはコーヒーを啜った。
海猫のスプーン亭の食堂の隅で、十六夜とクロエは差し向かいで話し込んでいた。ペーパームーン新聞社の記者であるクロエは、週に一度、十六夜から原稿を受け取るためにこの店に訪れる。彼女は新聞掲載のための編集や校閲、日程管理などを一手に引き受けて、十六夜の執筆活動を支えていた。
「十六夜君、やっぱりここは英雄譚で決まりっすよ。男は誰だって勇者に憧れるもんですから!」
クロエの横からネズリーが口を挟む。年は二十歳そこそこ。灰色の髪を短く刈り込んだ彼は、同じ灰色の瞳を爛々と光らせ、鍛えた身体を前のめりにさせる。
ネズリーはつい先日まで、記者見習いとしてクロエの補佐を務めていた。しかし先の狼騒動の際に書いた記事が好評を博し、これをきっかけに「紙の月新聞」の記者として正式にペンを執るようになっていた。
「あらら、そんなこと言って。英雄譚が男性だけの楽しみだなんて時代錯誤じゃない。私たちは記者なのだから時流に敏感でいないと」
クロエがくだけた口調で窘めると、ネズリーは粗野に頭を掻いた。
「あはは、面目ない。ともかく十六夜君、ここはひとつ血湧き肉躍る冒険活劇をぜひに!」
「ネズミ殿まで……いやしかし、私はこんな時勢だからこそ、心和むような夢物語をと考えます」
「じゃあ、狼退治の物語はどうっすか? 今度自分は『狩り』で起こったことの真相を調査しようと思ってるんすよ」
「『狩り』の真相?」
十六夜が目を丸くすると、ネズリーは身を乗り出した。
「ある日何の前触れもなく、町を苦しめていた狼たちが忽然と姿を消した。しかしながらいったいぜんたい何があったのか、実のところ誰にも分からない。町の人間が徒党を組んで闇討ちをしたというのが通説になってるけど、じゃあ狩人の正体は誰なのか? しかも奇妙なことにその日は満月だった。理性を失った凶暴な狼を、人の身で討伐したってことになる。いったいどんな手を使って?」
ネズリーはけれん味たっぷりに熱弁する。
彼の言う通り、大衆はいまだにあの日の真実を知らない。町の人間が結託して人狼を掃討したという噂が出たのは、満月の夜であるのにもかかわらず、ぞろぞろと連れ立って歩く集団を見たという証言があるからだ。しかし彼らは名乗り出ない。もし正体が知れれば何らかの裁きを受けることは免れないからであろう。議会にしても、町の英雄を罰して庶民感情を逆撫ですることは避けたいのか、下手人を突き止めようとする動きはなかった。
「僕は新聞記者として、社会の公器として、いっさいがっさいを明らかにしたいんすよ。再び狼の脅威が予見される今、あの雲を掴むような話の真相に肉薄する好機だとは思いませんか!」
「ネズミ殿は、町の英雄を告発しようというのですか?」
「とんでもない! 僕は真実を知りたいだけっすよ。大衆だって、本当のことを知りたがっているはず」
ネズリーは興奮覚めやらない。十六夜とて「狩り」の夜に何があったのか、気にならないと言えば嘘になる。何しろ気がついたときには全てが終わっていたのだから。
「全く大物なんだから、ネズリー君は。まあ、近頃この町は平和そのものですからね。誰それが素っ裸で往来を闊歩したとか、酔っ払いが列車の上に登ったとか、どこぞのご婦人がかかりつけの医者と駆け落ちをしたとか、そんな話題ばかりでは読者は退屈してしまう。今、大衆がもっとも注目しているのは間違いなく狼のことでしょう」
クロエはコーヒーカップのふちを指先でなぞった。
「話が逸れましたね。十六夜さん、新作のことは検討してくださると助かります」
「ううむ、わかりました。善処しましょう」
唸り声を上げながら、十六夜は渋々頷いた。
食堂の入口からベルの音が鳴り響く。
「ただいま戻りましたーっと。クロエさん、ネズミさん、いらっしゃい」
果実でいっぱいの籠を抱えて、パコが帰ってくる。その後をニーナが続く。
「こんにちは、お邪魔してます」
「邪魔だなんてとんでもない。クロエさんがいると身が引き締まりますからね。叶うならずっといてほしいくらいです。なあ、センセイ」
「俺の客人を口説くな。ちょうどよかった、ニーナ殿。紹介する、こちらペーパームーン新聞社のクロエ女史と、その右腕のネズリー殿だ。お二方、こちら新人のニーナ殿です」
十六夜が二人を紹介すると、クロエは優雅に一礼する。
「初めまして。十六夜さんの編集担当をしているクロエと申します」
パコに荷物を預けて、ニーナは二人に歩み寄った。
「よろしく」
クロエと握手を交わしたニーナがネズリーに目をやると、彼はりんごのように顔を真っ赤にして後ずさった。
「はっ、はじめまして! 自分はネズリーというものでして、その、あの、お、お美しい」
見たこともないようなネズリーの狼狽ぶりに、十六夜とクロエが顔を見合わせる。
「ネズリー君、どうしちゃったの?」
「ネズミ殿、お加減でも悪いのですか」
「いやいや、鈍感すぎるでしょ二人とも。男の純情を察してあげてよ」
調理場から顔を出して、パコが呆れたように肩をすくめた。ニーナはネズリーを見つめて金色の目を瞬かせる。
「ネズリー、ネズミ。どちらなのですか」
「ネズミでいいっすよ! 皆さんからそう呼ばれてますんで。ニーナさん」
小刻みに震えるネズリーの手を、ニーナが鷲掴みにする。
「ではネズミ。クロエ。あなた方に頼みがあります」
「は、はいっ。何なりと!」
「人を探してほしいのです」
ニーナの真剣な眼差しに、ネズリーとクロエは腰を据えた。