07.大事な紙切れ
ニーナが食堂に顔を出したのは実に一日ぶりだった。夕食時の混雑は過ぎたようだが、それでも席の半分ほどは埋まっている。
「嬢ちゃーん、遅かったな! 早速で悪いが、こいつを頼む!」
調理場の奥からハッサンが身を乗り出して、ニーナにトレイを差し出してくる。トレイの上には、香ばしく焼きあがったパンと付け合わせの野菜が盛られていた。ハッサンも、パコも、他の料理番たちも、いつもと変わらないようすで各々の役割に精を出している。
ニーナは戸惑いながらも頷いて、料理を配膳した。注文の品を受け取った老婦人が「ありがとね」と破顔した。
カリンのいない店の中は、ひどく広く感じられた。カリンは誰よりもてきぱき動いて、誰からも頼りにされていた。カリンの抜けた穴を補おうと、皆が一生懸命になっている。
「ニーナちゃん、大丈夫?」
「……十六夜は」
パコは魚を捌く手を止めず、視線だけを寄越してきた。
「お客さんの対応に追われてるよ。港に客船が着いたんだって。ニーナちゃんにもそっちに回ってもらった方がいいかも。女将さんのところに行ってきてくれる?」
ニーナはパコの目をじっと見つめた。ニーナがこの町で忌避されているという人狼であると知っても、パコの態度は変わらなかった。そのことが少なからずニーナを安堵させた。
「わかりました」
「よろしく! あ、あとさ。どうせ十六夜の奴が無神経なこと言ったんだろうけど、次からはぶちのめす前に言ってね。代わりにこらしめとくからさ」
目潰しのジェスチャーをしておどけるパコに頷いてみせて、ニーナはロビーに足を向けた。
案内待ちの客が数人、手持ち無沙汰にしている。ニーナの姿を認めた女将が、眦をつりあげて近付いてきた。
「遅いよ、ニーナ! こんな時間まで何やってたんだい。ま、お説教は後だ。お客さんを部屋に案内して差し上げとくれ」
「女将、私は」
「まずは目の前のお客さんだよ。自分の役目を思い出しな。ほら、行っといで!」
女将に発破をかけられ、ニーナは宿泊客を先導して階段を上がった。各々の部屋に彼らを案内し、荷物を運び入れていく。酔っ払いの漁師たちとは違い、客船から降りてくる宿泊客は一様に身なりがよく、洗練された所作をしていた。「船旅なんかするのは巡礼者かお金持ちくらいだからね」とパコが言っていたのを思い出す。
最後の客を部屋に通す。男は先程まで酒場で浴びるように飲んでいたが、一人で飲み直したいというので急遽部屋を用意することになったのだ。彼は丸々とした頬を赤らめて、機嫌良くベッドに座り込む。
「では、ごゆっくり」
「ちょっと待ちなさい、君。酌をしてくれないかね」
「酌?」
男が酒器を差し出してくる。酒を注ぐよう促されていることは、ニーナにもわかった。
「仕事が残っています」
「そんなつれないことを言わないでくれたまえよ。よく見ればとんでもない美人じゃないか。さあ、そのエプロンを外しなさい」
「何故?」
「汚れてしまっては大変だろう?」
舐め回すような視線が肌の上を這う。ニーナは無表情のまま男を見下ろした。男が何を言いたいのかニーナにはわからなかったが、無性に不愉快に感じる。下卑た声色と視線のせいだろうか。
「ほら、恥ずかしがらなくていい。私の膝に乗りなさい」
男の手がニーナの腰を撫でた瞬間、不快感が頂点に達した。不躾な手を振り払って、つるりとした頭に力いっぱい頭突きを食らわせる。
「ぎゃっ!?」濁った悲鳴を上げて、男が床を転げ回った。
「無礼者。身のほどを知りなさい」
「き、貴様、こんな真似をしてただで済むと思っているのか! おい、女将!」
男が口泡を吹きながら叫ぶ。頭を押さえながら階下に向かって怒鳴り散らすと、騒ぎを聞きつけた十六夜がすっ飛んできた。
「いかがされましたか、お客人」
「この娘が私に乱暴を働いたのだ、謝罪と賠償を要求するぞ!」
十六夜の視線がニーナに向けられた。頬に施された手当ての跡を見て、ニーナの脳裏に昨日の出来事が蘇る。
──この町では暴力は御法度だ。
「ニーナ殿。……何があった」
十六夜が低い声で問いかけてくる。ニーナは黄金の眼を吊り上げて、毅然として男を指差した。
「この者が私を侮辱し、断りなく身体に触れてきたのです!」
「女中風情が、その程度のことで何を大袈裟な!」
怒りで真っ赤に茹で上がった男の顔を一瞥して、十六夜は一歩後ずさった。
「あいわかった。客人が一名お帰りだ! 皆、お見送りの準備にかかれ!」
十六夜は部屋を飛び出して、廊下の天井からぶらさがっている撚り紐を引っ張った。宿中に鐘の音が響き渡る。鐘の音を合図に従業員が続々と集まってきて、男を積荷のように担ぎあげていく。ハッサンなどは余程慌てていたのか、手にフライ返しを持ったままだ。部屋にこもっていた他の宿泊客も酒場の客もわらわらと集まってきて、さながら祭りのような賑わいになった。
「何をする、放せ、私は客だぞ! このような仕打ち、許されると思うなよ!」
喚き立てる男が店の外に放り出される。十六夜は懐から紙切れを取り出し、男の鼻先に突きつけた。前に出ようとしていた女将が、そのようすを見て引き下がる。
「先程受付で貴殿が署名なさった利用契約書です。『乙が当施設従業員に対し、身体または名誉を傷つける行動を取った場合、甲は直ちに宿泊契約を解除することができる。これに対し乙は一切の異議申し立てを行わないものとする』」
「なっ……と、当然、従業員から客への暴力に対しても言及されているのだろうな!」
「無論です。しかし先の約束が守られぬのならばその限りではない。そのように明記されている」
「そんな、そんな紙切れ一枚で、私が納得するとでも思っているのか。私は議員だぞ!」
「この文書は商人ギルドを通して公証役場により作成されたものです。これを反故にしたければ、貴殿は法を相手取らねばならない」
男は絶句し、わなわなと唇を震わせた。女将は十六夜が啖呵を切るさまを少し意外そうに、けれど満足そうに見守っている。
十六夜は男の前に膝をついて、目を合わせた。
「私個人としては、貴殿に対して申し訳なく思う部分もある。私の使いかけでよければ、よく効く軟膏をお分けしよう」
真面目くさった顔つきで傷薬を差し出す十六夜に、パコが笑いを堪え切れずに俯いた。隣の女将が肘鉄を食らわせている。その更に隣では、ハッサンが「たんこぶは痛ぇよな」と訳知り顔で頷いていた。
「くそっ、くそっ、こんな店こっちから願い下げだ! 代わりにキャロッツにでも行かせてもらうからな!」
十六夜の手から傷薬をひったくると、男はくるりと踵を返す。「お客さん、忘れものですよ!」女将に金と荷物を返されて、男は足音荒く去っていった。いつの間にか増えていた野次馬が、見世物の終わりを察して散っていく。常連客たちは十六夜に思い思いの賞賛の言葉を投げかけ、飲み直すべく酒場へと戻っていった。
「よりによってキャロッツとはね。あそこでおかしな真似したら、こんなものじゃ済まないぞ。なあ、十六夜」
「ああ」
パコが十六夜に話しかけるも、十六夜は上の空だ。小さく肩をすくめて、パコは友の背中を思うさま引っ叩いた。
「痛いぞ」
「ごゆっくり、センセイ」
パコが踵を返して宿に戻っていくと、十六夜とニーナは二人きりになった。
ガス灯の明かりが仄かに海辺の街を照らしている。潮風が吹きつけて、十六夜の長い黒髪を弄んでいく。
「ニーナ殿、無事であったか」
ニーナはこくりと頷いた。十六夜は相好を崩しかけ、真一文字に口を引き結ぶ。
「ニーナ殿……済まなかった! 俺は君の気持ちを顧みず、酷いことを言ってしまった」
十六夜は深く頭を下げた。さしものニーナも面食らう。
「君だって不安だっただろうに。家を出て、一人きりで知らない土地にきて、初めてのこと尽くしで。大切な身内も行方が知れず、せっかくできた友とも離れ離れになってしまって。心細かっただろうに」
十六夜の誠実な言葉が、ニーナの中で雑然としていた思考に一本の筋を通していく。名状しがたい感情の集約点を見極めるように、ニーナは十六夜のつむじを見つめる。
「私は、寂しかったのですね」
瞑目して夜風に身を任せる。脳裏に故郷の風景が蘇ってくる。目まぐるしく変わっていく世界に取り残されて孤独を感じていたのだと、十六夜の言葉によって知る。
「今日はありがとうございます。昨日はごめんなさい。私は知らないことが多い。だから教えてください。この町のことも、世界の仕組みのことも、あなたのことも」
十六夜が顔を上げて、眼鏡の奥の瞳を細めた。
「俺もまだまだ未熟だ。共に学ぼう」
「では、教えてほしいことがあるのです」
「何だ。俺にわかることなら、何でも聞いてくれ」
胸を叩く十六夜に、ニーナは言った。
「私に読み書きを教えてください」
***
「ニーナちゃん。待ってたよ。はい、どうぞ!」
カリンからの手紙を読みたいと言うと、パコはすこぶる嬉しそうにしながらニーナの手に手紙を託した。
十六夜の付きっきりの指導の甲斐あって、単なる記号の羅列でしかなかったそれは、今度こそはっきりと意味を持ってニーナの胸に迫った。
親愛なるニーナへ。
昨日は突然のことで驚かせてしまったと思います。本当にごめんなさい。きっとニーナはこの町で狼が嫌われていることを知らないんだよね。
アタシは狼恐怖症です。アタシがそばにいると、きっとアンタが狼であることが皆にばれてしまう。そしたらきっとアンタはここにはいられなくなる。だからアタシはよそに行きます。誤解しないでね。アタシはニーナのことを嫌いになったりなんかしないから。だってアタシに酷いことをしたのは狼だけど、アンタじゃないもの。
短い間だったけど、ニーナと仲良しになれて嬉しかったよ。宿の皆をよろしくね。髪の毛、褒めてくれてありがと。大好きだよ。
第一章おわり