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06.狼恐怖症

「なあ、女将さん。カリンはなんて?」

 大きな体を小さく縮めて、ハッサンが尋ねる。女将は深い溜め息をついてかぶりを振った。

「暇をもらいたいってさ。わけは……話してくれなかったよ」

「そうかい」

 すっかり意気消沈したようすのハッサンが、力なく樽に腰掛ける。

「いったいぜんたい、どうしちまったんだろうな。働き者の良い娘だったのによ」

「そうだねえ……ともかく今はカリンの抜けた穴を何とかすることを考えなけりゃね。あんたも、しゃきっとしな」

「ああ、わかってらあ」

 肩を落としたまま調理場に戻っていく大男の背中を見送って、女将はもう一度大きな溜め息をついた。

「本当に、いったい何があったっていうのさ、カリン」


***


 ニーナの前で取り乱した翌日、カリンは海猫のスプーン亭を辞めた。誰にも会わず、女将に辞意を伝えて、宿の仲間にはごく簡素な別れの言葉だけをしたためて、夜明けを待たずに荷物をまとめて出ていったらしい。ニーナがそのことを知ったのは、日が昇ってからのことだった。

 カリンの不在を埋めるためにニーナは働いた。シーツを剥がして、洗濯機を回して、水を切って、干す。あんなに楽しかった洗濯も、一人だとつまらなくて仕方がなかった。何をしていてもカリンの尋常らしからぬ姿が目の裏に蘇ってくる。彼女はどうして突然豹変したのだろう。何故この宿屋を辞めてしまったのだろう。わからないことだらけだ。

 洗濯物を干し終え、ニーナは部屋に戻った。すると、扉と床の隙間に紙切れが挟まっていることに気がついた。薄暗いうちに起床したために気づかなかっただけで、朝にはそこにあったのかもしれない。拾い上げると、それが手紙であるらしいことがわかった。震えて何度も書き損じたような文字の羅列。ニーナは手紙を持って調理場に足を向けた。


「パコ」

 ちょうど夕食の仕込みを終えたらしいパコが、エプロンに手を拭いつけながら歩み寄ってくる。

「ニーナちゃん、どうしたの? 僕に愛の告白?」

 パコは軽口を叩くが、その声色にはやや覇気がなかった。パコもまた、カリンが辞めたことで少なからず気落ちしているのだろう。

「これを読んで聞かせてください」

 ニーナは手紙をパコに差し出した。「おっ、ラブレターかな?」紙面に目を滑らせて、彼はさっと顔色を変える。

「ニーナちゃん。この手紙、誰かに見せた?」

「いいえ、まだあなたにだけです」

「そっか。すいませーん、僕ちょっとデートがあるんで外しまーす!」

 ハッサンから無理に休憩の許可をもぎとって、パコはニーナを自分の部屋に連れて行った。扉にさがったプレートを裏返して、内鍵をかける。

 ニーナを椅子に腰掛けさせて、パコは眉を引き締めた。そのまましばらく言葉を探して黙っていたが、やがて口を開いた。

「えっと、そうだな。何から話したらいいのかわからないけど、一番大事そうなことから話すね。ニーナちゃん、君はおおか……人狼なの?」

「ええ、そうです。それが大事なことなのですか? カリンもそのことを話した途端にようすがおかしくなってしまいましたが」

「うん、とても大事なことだよ。ニーナちゃん、そのこと誰にも言っちゃだめだ。特に十六夜の奴には」

 パコの色素の薄い睫毛が、すみれ色の瞳に紗をかける。

「あのね、ニーナちゃん。この町では人狼は忌み嫌われているんだ」

 忌み嫌われている。一切身に覚えのないことに、ニーナは瞬きを繰り返した。

「その前に教えて。君も、満月の夜になると理性を失うの?」

「いいえ。そのようなことはありません。私たちは月が満ちると、眠り薬で深く眠りますから」

 山城の白狼たちは満月の夜に理性を失わないよう、眠り薬を飲んで眠っていた。ニーナも薬を持っている。山城から持ってきた薬は切れてしまったが、魔女から追加をたんまり貰ったので当分困ることはない。

「えっ、そう、なの? でもこの町に住んでいた銀色の人狼たちは違ったよ。彼らは満月の夜になるたびに町の人たちを襲って、いたずらに傷つけたんだ。けれど人狼は力が強くて、それにお金持ちだったから、長い間誰にも止められなかった」

 銀色の人狼とは銀狼のことだろう。ニーナの身近にいた銀狼といえば爺しかいないが、彼は欠かさず薬を飲んでいたし、当然誰かを傷つけたこともない。

 人狼は同族であっても群れを異にする者とは馴れ合わない。銀狼が如何にして生活しているかなど、ニーナには知るべくもない。他の白狼とて同じだろう。

「深く眠りさえすれば、人を襲わないで済むっていうのか? じゃあ、どうして奴らはそうしなかった……待てよ、薬? チッ、そういうことか」

 パコが眦を吊り上げて、泣きぼくろを引き攣らせる。温厚なパコの初めて見る形相に、ニーナは眉を引き結んだ。

「それで、銀狼はどうなったのですか」

 パコは我に返ったように話を続ける。

「あ、ああ。皆いなくなった。堪忍袋の緒が切れた町の人たちに復讐されたんだ。君も、正体が知れたら何をされるかわからない」

「何故? 私は何もしてない。満月の夜に暴れたりもしない」

「わかってるとも。それより今はカリンちゃんのことだ。彼女は、その、狼恐怖症だったらしい」

「狼恐怖症?」

 パコはままならない感情を持て余すように金髪をかき上げた。

「人狼に襲われて心に傷を負った人が、心身に異常を来すことだよ。姿を見たり声を聞いたりするだけで、震えが止まらなくなったり、酷ければ言葉もまともに話せなくなったり」

 ここにきてようやくカリンの取り乱しように合点がいった。彼女はニーナに怯えていたのだ。かつて自分を酷い目に遭わせた銀狼と同じ人狼であるニーナに。そこまで考えて、ニーナはある答えに辿り着く。

「つまり、カリンは私のことが嫌いになったのですか。私が憎くなったのですか。私が人狼だから。その手紙には、そう書いてあったのですか」

「ニーナちゃん、それは違う。カリンちゃんは──」

「もういい。聞きたくない」

 椅子を蹴ってニーナは立ち上がった。パコが慌てたように言い募る。

「待って、彼女は君を嫌いになってなんかいない。彼女は君を……」

「黙りなさい」

「ニーナちゃん、後生だから信じて!」

「もしあなたが嘘をついていても、私にはわからない!」

 パコの制止を振り切って、ニーナは部屋を飛び出した。


***


「ニーナ殿、いるのか?」

 ニーナが部屋に閉じこもっていると、ノックの音とともに十六夜の声がした。

「いるのだろう。返事をしてくれ」

「放っておいて」

 ニーナはベッドの上で膝を抱えて丸くなる。

「そういうわけにはいかん。俺にはこの宿の主人の倅として、監督責任がある」

「仕事は、したくない。カリンがいなければ、つまらない」

「……ならばどうする。ここを辞めるのか。他に宛てはあるのか?」

 十六夜の声が硬くなる。

「ありません」

「ならばここを出てきて、持ち場に戻ってくれ。カリン殿がいなくなって、皆てんてこ舞いなのだ」

「嫌」

「聞き分けてくれ。客人をもてなすことが我々の責務だ。この宿の一員である限り。どんなに辛くとも、悲しくとも、今日訪れる客人には関わりのないことなのだ」

「だったら、あなたが全部やればいい!」

「ニーナ殿!」

 十六夜が声を荒げる。扉の中にも外にも、沈黙が張り詰めた。

「……そんなことだから、使用人にも愛想を尽かされるのではないのか」

 ニーナの胃の底がカッと燃えた。扉につかつかと歩み寄り、勢いよく開け放つ。扉の横に腰を据えていた十六夜が目を丸くする。「ニーナど……」十六夜の胸ぐらを掴み上げて、頬を張り飛ばした。人狼の腕力は常人より強い。十六夜は床を転げて壁に背中をしたたか打ちつけた。瓶底眼鏡が弾け飛ぶ。

 火のような呼吸が喉を焼く。身体中の血が洗濯機にかかったように、回る、巡る、沸騰する。何故、どうして、爺もカリンも、自分を置いていってしまったのだ。何もしていない。銀狼のように人を襲ったこともない。ただ生きていただけだ。しかし、目の前に蹲る十六夜の姿を見ていると、無性に本能が騒ぎ出す。踏みつけたい。傷つけたい。ああ、満月が近い。

 十六夜が眼鏡を手繰り寄せて、キッとニーナを睨み上げる。露わになった十六夜の右目は、純粋な黒色ではなかった。書き損じたインクが滲みだしたような、白みがかった鈍色の虹彩をしていた。

「……この町では、ッ、暴力は御法度だ」

 眼鏡を掛け直した十六夜が、よろめきながら立ち上がる。十六夜はそれ以上何も話すことなく、そのまま踵を返して去っていった。

 ニーナは足もとに目を落とす。扉の脇には、握り飯が二つ乗せられたトレイが残されていた。

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