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あの頃のきみへ

※本編の後日談です。必ず本編読了後にお読みください


BOOTHにて書籍販売中

https://sugaraco.booth.pm/items/4860069

「トラ殿、俺の旧友のパコだ。今日から料理番として働いてもらうことになった。よろしく頼む」

 十六夜が手短に紹介すると、トラと呼ばれた少年は野菜籠を置いてパコに視線を向けた。

 年頃は十七、八だろうか。東の国では十六夜のような漆黒の髪が一般的だが、少年の柔らかそうな髪は金に近い鳶色だった。吊り上がった三白眼も淡い水色で、彼もまた異邦の民であることがわかる。前掛けの下の着衣も、麻のシャツとズボンという洋装だ。トラはそばかすの浮いた頬を少しも緩めることなく、「どうも」と素っ気ない返事をした。少なくとも歓迎されてはいないらしい。パコが十六夜に視線を送ると、こうなることを予測していたらしい十六夜は困ったように頭を掻いた。

「トラ殿は少し人見知りなのだ」

「なるほど。あんたと一緒だな」

「む」

 不服そうにする十六夜を尻目に、パコは躊躇なくトラの両手を掴んだ。

「初めまして、僕はパコ。五年間料理店をやっていたんで、きっとお役に立てると自負しているよ。どうぞよろしく!」

 取っ付きにくいトラの態度をものともしないパコに、トラはやや気圧されたような素振りを見せる。そのようすを見ていた十六夜が、名案とばかりに手を叩いた。

「トラ殿、パコを案内してやってもらえるだろうか。なに、厨房のことなら俺に任せておいてくれ」

「なっ……」

 トラは物言いたげに口を開閉させたが、結局は諦めて踵を返した。

「行くぞ」


 早足で歩いていくトラにパコはついて回る。宿泊初日に軽く案内はされたが、正式に雇用されてから見て回るのは初めてだ。板張りの床や漆喰の壁はかつての海猫のスプーン亭を彷彿とさせるが、二号店であるここは窓の代わりに障子が張られていたり、池に鯉が泳いでいたりと、ところどころが異国情緒に溢れている。

「おい」

 先導していたトラがぶっきらぼうに呼びかけてくる。

「どこぞで店をやってたっつっても、ここじゃあ新入りだ。半端な真似したら承知しねえからな」

「おっと。どうぞお手柔らかに」

 釘を刺してくるトラを軽くいなすと、彼はますます機嫌を悪くする。パコの鼻先に指を突きつけて、トラは語気を荒げた。

「いいか、旧友だかなんだか知らねえが、今の旦那の片腕はオレだからな。勘違いするなよ」

「あー、そういう」

 敵意を向けられる理由がわかって、思わず笑みがこぼれそうになる。そんなパコの心情など知る由もないトラは、勝気そうな瞳を吊り上げて言葉を続けた。

「オレは旦那と(あね)さんに一生をかけてでも恩を返さなけりゃならねえんだ。どこの馬の骨とも知れねえ奴に邪魔されてたまるか」

「ふーん。そっか」

「……何をニヤついてやがる」

「いやいや、ごめん。何だか嬉しくって」

 十六夜とニーナが未知の土地に発ってから五年。二人が過ごしてきた歳月の片鱗が垣間見えた気がして、心が温かくなったのだ。パコはパコで変わり者だらけの金の竪琴町で波瀾万丈の日々を送ってきたのだが、それはまた別の話である。

「心配しなくたって君の居場所を取ったりしないさ。何たって新参者だからね。だけど人手が足りないんでしょ? 僕の働きぶりを見たら、きっと重宝せずにはおれないと思うなあ」

 腕まくりをしてウィンクすると、トラはあどけなさの残る面差しをこれ見よがしに歪めた。

「ちっ、口の減らねえ野郎だ」

「僕のチャームポイントさ。いやあ、どうなることかと思ったけど、仲良くやっていけそうでほっとしたよ」

「何だってそうなるんだよ!」


 案内に従って客間へと続く廊下に出ると、ふと上からぶら下がっている撚り紐に気がついた。

「あ、鳴子」

「何だ、知ってやがるのか」

「うん。前の店にもあったから」

 紐の根本を辿っていくと、梁に沿うようにして張り巡らされた別の紐に繋がっていた。これを引けば一定の間隔で吊るされている竹筒が一斉に音を鳴らすのだ。もっとも海猫のスプーン亭で使われていたのは、竹ではなく鐘であったが。

「鳴子ってのは本来は畑なんかで獣避けに使うもんなんだがな」

「そうなの? 十六夜がそう呼ぶから、僕たち皆そう言っていたんだけど」

「旦那がそこから着想を得たらしいからな。ともかくだ。客人をもてなすのがオレたちの仕事だが、もしものときにゃあ、こいつを鳴らすこった」

「もちろん。心得ているとも」

 パコはすかさず頷いた。何しろ海猫のスプーン亭に鳴子が造りつけられたのは、他ならぬパコ自身が原因なのだから。


***


 それはパコが十四歳の頃、「狩り」が決行されてからしばらく経ったある日のこと。十六夜が無理を押して食堂に現れたことで、従業員たちは騒然としていた。人狼に重傷を負わされてからというもの、十六夜はずっと寝たきりのままだったからである。

「十六夜? もう大丈夫……じゃないよね」

「坊ちゃん、まだ休んでいなけりゃ駄目だろうが。腹が減ったってんなら、ミルク粥でも持っていってやるよ」

「いや、いい」

 ハッサンは足もとの覚束ない十六夜を支えようとしたが、やんわりと断られる。入口から調理場までのわずかな道のりを、十六夜は松葉杖をつきながらのろのろと歩いてくる。そのさまを見れば、十六夜の怪我が癒えていないことは誰の目にも明らかだった。

「料理長……俺にも何か手伝わせてもらえないだろうか」

 思いもよらない十六夜の申し出に、パコは慌てて首を振った。

「何言ってるのさ、その体じゃ無理だ」

 現に部屋から食堂までやって来ただけでも十六夜は息が上がっていて、大粒の汗が顎まで滴っていた。包帯こそ外れていたが、額や腕には痛々しい傷跡が残る。欠けた視界に慣れないらしく、何度も椅子やテーブルの脚に杖先を取られてひどく危なっかしい。料理どころか、簡単な雑用すらも任せておけない状態だった。

「もう十分休んだ。皆が汗水垂らして働いているというのに、自分だけ怠けているわけにはいかない」

「誰もあんたが怠けてるなんて思わないよ」

「俺が俺を許せんのだ」

「馬鹿をお言いでないよ、全くあんたって子は!」

 騒ぎを聞きつけた女将がホールの方から飛んできて、ぴしゃりと十六夜を一喝した。

「今のあんたにいったいぜんたい何ができるって言うんだい。かえって足手纏いなことくらいわかるだろ。部屋に戻って大人しく寝てな」

「大人しく、寝ていたところで……元に戻るわけでは、ない」

 その声色はおよそ十六夜のものとは思えないほど弱々しく、パコの胸をざわめかせた。どれほど養生しても、十六夜が失ったものは二度と戻らない。船乗りになることはおろか、治癒の具合によっては、この先自分一人で生きることすらままならないかも知れないのだった。

「母上、お願いです。俺を役立たずにさせないでください」

 膝を折って懇願する十六夜の姿が痛々しく、パコは思わず目を逸らした。そんなパコの肩をハッサンが叩く。見上げた先の赤銅色の瞳は憤怒に燃えさかっていた。その炎が誰に向けられたものであるかは、考えるまでもない。

 女将は厳しい顔で黙り込んでいたが、やがて自分も膝をついて十六夜を抱き寄せた。

「役立たずになんかさせないさ。しっかりと怪我を治したら、きりきり働いてもらうからね。覚悟おし」

「……はい」

 すっかり気落ちしてしまった十六夜は、女将に支えられながら食堂を後にした。


 そんな出来事があってから、十六夜は自室に籠もりきりになった。ドアプレートは「放っておいて!」の面が表になったままで、外から声をかけても反応がない。扉の前に置いておいた食事は無くなっているので、どうやらきちんと食べてはいるらしかった。

「なあ、十六夜。元気になったらさ、列車に乗って遠くの町に出かけないか。僕、まだ乗ったことがなくてさ。蒸気に興味があるんだ」

 パコは扉の外から何度も声をかけたが、十六夜からの返事はなく。いったいどんな気持ちで一人閉じこもっているのか、想像することしかできなかった。

 また一人で、帰れない海を眺めているのだろうか。それとも敬愛する父親の片腕として、大海原に漕ぎ出す夢を見ているのだろうか。


***


 事件が起こったのはそれから数日後のことだった。その日の海猫のスプーン亭は大繁盛で、調理場は戦場さながらの忙しさであった。ようやく嵐が過ぎた頃、パコは酔い潰れた宿泊客に肩を貸して部屋へ向かっていた。

「お客さん。着きましたよ。しっかりしてくださいってば」

 部屋の前までやってきたところで、客の男がぴたりと足を止めた。粗相をするのかと身構えるパコに、男は予想だにしなかった言葉をかけてきたのだった。

「んん、お前、覚えてるぞ。クソガキ」

「え? わっ」

 肩に回された男の手が、パコの首根っこを掴んだ。無遠慮に酒臭い息を吹きかけてくる男の顔を、パコは改めて見る。ぎょろついた眼。茶色く染めているらしいちぢれた髪。質のいいラウンジスーツ。正直なところ顔は覚えていなかったが、その身なりの良さから相手の素性に見当はついた。キャロッツを飛び出して間もない頃、路地裏でパコを買おうとしてきた成金だ。

「あのときはよくも俺の足を踏んづけてくれたな」

「えーっと、人違いでは?」

「シラを切ろうったって無駄だぜ。その混じり気のない金髪は、なかなかどうして珍しい」

「あはは、美人の母親譲りでして……この手を離していただけませんか?」

 無闇に刺激しないよう下手に出るも、男は意に介さない。

「詫びの一つでも入れりゃ、考えてやってもいいぜ」

「はあ……」

 パコは嫌悪感に眉を顰めて、男の手首をしかと掴んだ。そのまま力を込めてやると、「いててて!」と情けない悲鳴が上がった。人狼の血に目覚めたパコの腕力に、並の人間が敵うはずもない。

「お客さんったら、随分と酔いが回っているみたいじゃありませんか。後でお冷やを持ってきて差し上げますから、ゆっくり寝ていてくださいな」

 半ば蹴り入れるように部屋に押し込むも、男はしぶとく戸口にしがみついてくる。

「もう、しつこい男はモテませんよ」

「いい度胸だ、クソガキ。俺をここまでコケにするとはな。ここにいられなくなっても構わないってわけだ」

 充血して濁った眼に、パコは一抹の不安を覚える。

「どういう意味ですか」

「こっちはお前の素性を触れ回ってやったっていいんだぜ」

「えっ……」

 一気に血の気が引いた。まさかこの男はパコが人狼だと知っているというのか。そんなはずはない、とは言い切れなかった。母のローズがこのことを誰にも打ち明けていない確証などどこにもないのだから。

 とはいえ、少なくとも狼の尻尾が現れるまでは惜しみなく愛情を注がれていた自覚がある。その母がみだりにパコのことを口外するはずがない。そう信じたい気持ちとは裏腹に、疑念は膨れ上がっていく。人狼として覚醒した自分など、すでに見限られているのではないか。キャロッツの皆もとっくにこのことを知っていて、この町に噂が伝わってくるのも時間の問題なのではないか。黙りこくってしまったパコを見て、男はあからさまに機嫌を良くした。

「おや? 顔色が真っ青じゃないか。まあ俺だって悪魔じゃあない。そうだな、美人の母親とやらに繋いでもらおうか。そしたら許してやらんでもないぜ」

「っ、でき……ません」

 小さく震えるパコの肩に、男が厭らしく手を回す。

「聞こえんなあ、もう一度言ってみろよ」

「……くそったれの腐れ短小野郎」

 唾を吐くように呟くと、平手で頬を打ち据えられた。二発、三発と間髪をいれずに撲たれてその場にくずおれる。口の中に鉄錆の味が広がった。「小癪な!」馬乗りになって襟首を掴んでくる男の顔を、パコはどこか他人事のように見上げた。

 反撃すれば、助けを求めれば、一時凌ぎにはなるだろう。しかしこの男にパコが人狼であることを吹聴されれば、それで何もかもおしまいだ。この町にいられなくなるだけじゃない。悪ければパコを受け入れてくれた海猫のスプーン亭の人たちにも迷惑がかかる。それに比べれば、ちょっとやそっと痛い目に遭わされることくらい、どうということはない。

「何をしている……!」

 パコが目を伏せるのと同時に、渡り廊下の向こうから十六夜の声がした。ままならない足を引きずって、よろめきながら必死に近寄ってくる姿が目に飛び込んでくる。

「十六夜……?」

 どうしてここに。閉じこもっているのではなかったのか。理性を失った男はパコの上に跨がったまま、なおも平手を振りかぶる。十六夜は松葉杖をかなぐり捨てて男に覆い被さった。しかし弱った十六夜の力では太刀打ちできるはずもなく、あっけなく突き飛ばされてしまう。

「やめろよ、相手は怪我人だぞ!」

 パコが泡を食ってもがくと、泥酔した男は体勢を崩して立ち直れなくなる。その間、十六夜は廊下を匍匐(ほふく)していた。逃げようとしているのかと思ったが、そうではなかった。吹き抜けを囲う柵にしがみつくと、十六夜は力いっぱい松葉杖を叩きつけ、大仰な音を響かせた。

「皆、助けてくれ!」

 めちゃくちゃに柵を打ち鳴らす音は、一階にいる人々の耳に満遍なく届いた。


 そこから先の展開は、ニーナのときと似たようなものだった。違いといえば、客人に啖呵を切ったのが十六夜ではなく女将であったことくらいか。

 結論から言えば、男はパコの正体を知らなかった。そのことがわかったのは、窮地に陥った男が「お前がスラムの賤しいドブネズミだったこと、知られちゃ困るだろ?」と耳打ちしてきたときである。まさかそんなことが脅しになると考えているとは思いもよらず、パコは殴られ損であったことにがっくりと肩を落とした。

 確かに海猫のスプーン亭は上流階級も利用する宿であるが、働き手は何かと訳ありの人物ばかりだ。たとえ男の下品な邪推が的を射ていたとしても、それしきのことを気にする人間はここにはいない。しょっ引かれていく男の顔に、パコは約束の冷や水を差し入れてやった。


***


「ねえねえ、この紐なに?」

 新たな仲間として迎え入れられたカリンが、天井からぶら下がっている縒り紐を見上げた。

「それは鳴子だよ。今日完成したんだ。もちろんお客さんのことが第一だけど、もしものときはこの紐を引いてね。宿中に鐘の音が鳴り響いて、皆が飛んできて助けてくれるから」

 案内役のパコが説明すると、カリンは内側から滲み出るような笑みを浮かべた。

「そっか。うん。いい店だね」


 鳴子の設置は、正式に海猫のスプーン亭の働き手となった十六夜が最初に手掛けた仕事であった。きっかけは言わずもがな、先の事件である。

「感謝します。お代はパコから受け取ってくださいますか」

「耳を揃えてまーす」

「はいよ、毎度あり」

 まだ財布を開くのも一苦労の十六夜に代わって、パコが工事業者に支払いを済ませる。十六夜が試しに紐を引いてみせると、宿中に鐘の音が鳴り響き、階下から顔を覗かせたハッサンが「よく聞こえてるぜえ、坊ちゃん!」と声を張り上げた。満足げな十六夜の背中に、パコは口ごもりながら礼をした。

「あのさ……そのー、ありがと」

「うん? ああ」

 自分一人で抱え込もうとして、かえって皆を巻き込んでしまった。そもそもあの男が自分の正体を握っていると早合点しなければ、こんな大事にはならなかったのだ。こと狼のことになると、どうにも冷静さを欠いてしまってならない。

 はじめから助けを求めれば良かったのだと思えるようになったのは、ずっと後のことだ。この頃のパコにはそれができなかった。十六夜に地獄を味わせた狼を、情け深い海猫のスプーン亭の人々が許すはずがないと信じていたのだから。

「なあ、パコ」

 十六夜がパコに向き直る。その頃から十六夜は眼鏡をかけはじめ、左右の目の色の違いはやや目立たなくなっていた。

「俺は弱い。皆に生かされていると承知している。だが俺に出来ることなら何でもしよう。困ったことがあれば言ってくれ」

 十六夜の声はしっかりと芯を持っていて、後ろ向きな気持ちは微塵も感じられなかった。

「皆のことは必ず守る。たとえ憎き狼が出ようとも」

 決意に満ちた十六夜の言葉は、ひそかにパコを傷つけた。

「……やだなあ、狼はもういないよ」

「わかっているとも。ものの例えだ」

 そう言って十六夜は笑った。パコはうまく笑えなかったが、十六夜が気づいたようすはなかった。


「しかしあんたが元気になってくれてよかったよ。塞ぎ込んだまま、いくら声をかけたって返事もしてくれないんだもん。このまま化石になって博物館に飾られるのかとすら思ったぞ」

 パコが話題を変えると、十六夜は少し照れくさそうにした。

「ああ……それはその、済まない。すっかり集中してしまっていて、全く気がつかなかったのだ」

「集中って? 何に?」

「お前、本を貸してくれただろう。ひどく感銘を受けたぞ」

「ああ……あのメルヘンチックな小説のこと?」

 十六夜が寝込んでいたときに、少しでも気晴らしになればと押しつけたものだ。どちらかというと少年少女向けのファンタジックな物語であったが、どうにも十六夜の琴線に触れたらしかった。

「読み終わったんならドロンゴさんとこの才女に返してくるけど。何だよ、てっきり落ち込んでるのかと思ったよ」

「ううむ、済まない。心配をかけてしまって」

「いいや、もう。あんたの見かけに反して前向きなところは美点だと思うよ。でも、そんな大作だったっけ?」

 読書家の十六夜ならば、読破するのに半日もかからないだろうと踏んでいたのだが。パコが疑問を呈すと、十六夜はますます顔を赤らめた。

「いや、それだけではなくて……」

「何だよ、ばかに歯切れがわるいな。笑わないから言ってみろって」

 十六夜は咳払いをして、パコの目をまっすぐに見た。

「パコ、頼みがある。俺の小説の最初の読者になってはくれまいか」


***


「チッ。泣かせるじゃねえか、ちきしょうめ」

 トラが赤らんだ鼻をこすった。

「え、泣けるところなんてあった……?」 

 一通り二号店を巡り終えた後、トラとパコは休憩室で一息ついていた。何の気なしにはじめた鳴子の話が、いたくトラの心を揺さぶったらしい。とはいえパコは大筋をなぞっただけなので、単にトラが感じやすいという話のような気もするが。

「アンタの言う通りだぜ。本当の強さってのは腕力でも権力でもねえ。オレも旦那と出会って、はじめてそのことを知ったのさ」

「僕、そんなこと言ったっけ……?」

 顔合わせのときのつっけんどんな態度はどこへやら。どうもトラは十六夜のこととなると熱が入ってしまうらしい。もともとパコはどんな相手とでもそれなりに上手くやっていける性質なのだが、この分だと思っていた以上に早く打ち解けられそうだ。

「オレはそんな旦那に誰よりも幸せになってほしいんだ。だからよ、何だって姐さんと夫婦(めおと)にならねえのかと聞いたのさ」

「ごほっ」

 唐突にはじまったデリケートな話題に思わずむせ返る。二号店にやってきた初日から、十六夜とニーナの関係に進展が見られないことには気がついていたが、やはり周囲も放っておけないらしい。パコが気後れして尋ねられなかったことの答えを、トラはあけすけに口にした。

「それを姐さんが望んでいねえからだと旦那は言ったよ。姐さんの生まれ育った白狼の城にゃあ、婚姻どころか一対の男と女が愛し合う習慣さえなかったと。だったら、無理に人の型に押し込めることはねえ。姐さんは白狼の風習を体現する、最後の一人なんだから……ってよ」

「……あ」

 まるで当人の声が聞こえてくるようだった。

「そっか。十六夜は、狼に寄り添うことを選んだんだね」

 誰よりも狼に苦しめられたはずの十六夜が、ニーナが狼であることを尊ぶ。そのことが途方もなく胸を焦がした。

「ま、そんなわけで野暮な口出しは……って、おい。どうした。腹でもいてぇのか」

「ううん。違うんだ」


 あの頃、自分のことが嫌いだった。大切にしてくれる人のことを信じることができず、逃げ回ってばかりいた。

 十六夜とニーナを見ていると、ひとりぼっちだった子供の時分の想いが報われていくような気がして、無性に泣きたくなるのだ。


***


 ニーナが厨房に足を運ぶと、料理番が話に花を咲かせているのが聞こえてきた。

「あーあ、もう駄目だ。立ち直れない。ショックのあまり向こう一週間は寝込みそうだよ」

「がはは、ばかめ。典型的な異国の民だな」

 大仰に嘆くパコとは対照的に、トラはさも可笑しそうにしている。十六夜は二人の関係が円滑にいくかどうかを危惧していたようだが、どうやら取り越し苦労であったらしい。

「何の話をしていたのですか」

「あっ、ニーナちゃん聞いてよ! 僕は長年、この国にいるっていうニンジャやサムライの存在を信じてきたんだ。それでつい今しがた、彼らがとっくの昔にいなくなっていると聞いて打ちひしがれているところさ」

「今となっちゃあ書物の中で語られるのみだってのに、呆れたもんだ。がはは、愉快愉快」

 それぞれの言い分を聞いて、ニーナははたと思い至る。

「そういえば、ここにきたばかりの頃に十六夜がパコと同じことを言っていました」

「え」途端にトラが笑いを引っ込める。「そりゃそうだ、だって僕にサムライやニンジャのことを教えたのは十六夜だもの」パコが補足すると、トラは咳払いをして真顔を作った。

「もっともらしく語る書物がワリィのさ。さすが旦那、勤勉でらっしゃるぜ」

「いやいや、掌返しが早すぎるでしょ」


 そんな光景を横目に、ニーナは魚籠(びく)を調理台に置いた。

「今晩訪れる客人も異国の旅人です。もしかすると、ニンジャやサムライに憧れを抱いているかもしれません」

 びちびちと跳ねる魚を見やってから、パコは快活に笑った。

「知らない方が幸せってこともある。だけど、真実を知った先にも幸せはあるはずさ。そのときは、この国のもっと素敵なところを教えてあげるとしますかね」

「あの頃のきみへ」 完

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