46.海へとつづく河になる
親愛なるニーナへ。
元気にしていますか。アンタと坊ちゃんがそっちに行ってから、早いものでもう五年も経つんだね。
キャロッツでは今、バターカップが店の切り盛りを任されてるよ。あの子は昔っからしっかり者で金勘定も得意だからね。
そういえば、アンタに報告があるんだ。アタシ結婚することになったんだよ。相手はアンタもよく知ってる人。誰だと思う? ヒントはね、とっても料理上手で、いつもおでこにたんこぶをこさえてる人。
蒸気で空が飛べるようになったら、ううん、そうならなくても。いつか必ず家族で会いに行きます。
追伸。
坊ちゃんによろしく。新作小説、最高傑作だったって伝えておいてね!
***
海猫のスプーン亭二号店は、月の扇町の河川のほとりにある。山からの清流は透き通り、川底の砂利の一つ一つまでくっきりと見える。物干し竿にかかった真っ白なシーツが、風に煽られてはためいた。
ニーナはすいすいと泳ぐ川魚に狙いを定めて、一息にその腹に喰らいついた。鋭い牙を器用に使って、桶に魚を放り込む。桶の中はアユやイワナでいっぱいになっていた。やはり魚を獲るには狼の姿になるに限る。
「これは大漁だな、ニーナ殿」
桶を覗き込んだ十六夜が感嘆する。十六夜は青珊瑚町で暮らしていた頃よりも少し日に焼けて、精悍な顔つきになった。白シャツに袴を穿いて藍染の羽織を合わせた出で立ちは、この町によく馴染んでいる。
ニーナは川から上がってぶるりと水気を飛ばした。そのまま人の姿に戻りかけると、十六夜が「こ、こら、はしたない!」と大慌てでタオルを寄越してそっぽを向いた。ニーナは体を拭ってから、川縁に放っておいたワンピースに袖を通した。背中まで伸びた長い髪に、貝殻と珊瑚の髪飾りが挿してある。華奢な体格はあまり変わらないが、数年前より女性らしい丸みを帯びていた。
「腕によりをかけました」
「はは、今日はご馳走だな。お客人たちもさぞかし喜ばれることだろう」
十六夜は桶を抱え上げて厨房へと足を向ける。タオルで髪の先を拭いながら、ニーナはその後をついていった。
月の扇町は山間の町だ。辺境にもかかわらず多くの人が行き交っているのは、ひとえにこんこんと湧き出る温泉のためだ。旅の途中で疲れを癒していく者から、湯治のために長期滞在する者まで、旅人の往来が絶えることはない。
海猫のスプーン亭二号店も、ご多分にもれず温泉宿である。人目を引く青い屋根の小さな洋館で、内装は和洋折衷になっている。裏手に設けられた岩風呂は、あらゆる体の不調に効くともっぱらの噂だ。
東の国に渡って丸五年。宿の経営も軌道に乗って、順風満帆といって差し支えない日々を送っていた。
ニーナは馴染みの歌を口ずさみながら前庭に箒をかける。この歌を歌うとニーナはいつもパコのことを思い出す。パコとは青珊瑚の港で別れたきりだ。いったい今頃何をしているのだろう。
「うんうん、なかなか愛嬌があるね」
ぴたりとニーナは手を止めた。その声を聞き間違えるはずがない。何しろちょうど今しがた思いを馳せていた相手なのだから。
「パコ!」
ところどころ跳ねた金髪、すみれ色の瞳、印象的な泣きぼくろ。少年から青年へと成長したパコが、変わらぬ悪戯っぽい笑みを浮かべて立っていた。
「チャオ、ニーナちゃん。とびきり綺麗になったんで、びっくりしたよ……わっ」
ニーナが手加減なしに飛びつくと、パコはよろめいて尻餅をついた。
「あはは。熱烈な歓迎をありがとう、お姫様」
「パコ、あなたは変わらない」
「そう? あの頃に輪をかけて色男になったと自負してるんだけど」
そう言ってパコは帽子のつばを上げた。革のジャケットを纏って真紅のスカーフを巻いた格好は、紳士然として様になっている。
「ニーナちゃん。十六夜とはどう? うまくいってる?」
「順調です。今度食堂を増床する計画を立てています」
「いやいや、経営がじゃなくて。ほら、僕たち大人になったわけだし」
「どういう意味ですか」
「いや……何でもない。忘れておくれ。君を俗世の常識に当てはめようなんて僕が浅はかだった」
「ニーナ殿、お客人か? 随分早い到着だな」
玄関から顔を出した十六夜が、パコの姿を認めて雷に打たれたように硬直する。
「パコ……なのか?」
「おいおい、僕の他にこんな水も滴るいい男がいるっていうなら連れてきてほしいもんだ」
「確かに、こんな小憎らしい物言いをする奴は他にいないな」
座り込んだままのパコに十六夜が手を貸した。言葉は明瞭で、震えてもいない。パコはその手と嬉しそうな十六夜の顔を、恐る恐る見比べる。
「平気、なのか」
「無論だ」
「そっか。……そうなんだ」
十六夜は自分自身と戦い、そして勝った。そのことをパコはすぐに理解したようだった。さまざまな感情が渦巻く瞳を、そっと瞼の裏にひそめる。
「立ち話もなんだ、中に入ってくれ。積もる話がたくさんある」
***
「いつ東の国に来たのですか」
「三日前だよ。白狼の造った船に乗ってね。あんまり豪華だから縮み上がったよ。まあ僕が乗ったのは三等船室だけど」
「ここは山中だからな。着いてからも時間がかかっただろう」
「路面機関車や馬車を乗り継いで、ようやくだよ。でも車窓から見る景色がセンセイの本に書いてある通りで、ちょっと感動したな」
三人の話は尽きることがない。金の竪琴町の少年少女の間で十六夜の書籍が人気を博していることや、アップルとシナモンが独立して仕立て屋を構えたこと。十六夜の両親の変わらぬ熱愛ぶりや、東の国の妙な風習について。気を利かせた従業員たちが宿の支度を済ませてくれたので、三人は時間を忘れて話し込んだ。
「パコ、せっかく来たのだから爺に会ってください」
「え? ああ……もちろんだとも」
ニーナと十六夜はパコを中庭に案内した。手入れの行き届いた花壇に、白や黄色の花が咲き乱れている。
爺はロッキングチェアに揺られて編み物をしていた。ニーナが声をかけると、彼はうっそりと顔を上げる。
「うむ、今日の爺や殿はご機嫌だな」
十六夜が出来かけのケープの端を手に取ってしみじみと眺める。
「パコ、爺は随分反応を示すようになったのですよ。仕事もよくこなしています。きっと魂が覚えているのでしょう」
心を失った狼は、言葉を話すことも感情を露わにすることもなくなる。再び自我が芽生えることは永久にない。書物にはそう記してあったが、書き手とて神ではないのだ。これから爺がどうなっていくのかは誰にもわからない。ニーナはそう考えていた。
「……お爺さん」
パコはぎこちなく呼びかけた。ジャケットの内ポケットから手帳を取り出して、大切に挟んであった紙切れをつまみ出す。それはかつてニーナが尋ね人の広告のために描いた、爺の似顔絵だった。
「また会えて嬉しいです。僕のお爺さん」
爺はぼんやりとパコの顔を見つめる。まるで何かの面影を探すように。パコは首にさげていたネックレスを外して、爺の手に握らせる。細いチェーンにはごく質素な銀の指輪が通してあった。
「これ、母さんが父さんから貰った指輪らしいです。今度は僕が母さんから譲り受けたんですよ。内側に誰かの名前が彫ってある。覚えがありませんか」
老人の節くれだった指が、何度も指輪をなぞる。パコは切なげに微笑んで、ニーナと十六夜の顔を見た。
「あのさ……実は、店を人に譲っちゃったんだ」
「なんと! 母御と二人でやっていた店ではないか」
「うーん、まあね。でも母さん再婚したんだ。旦那さんはとても頼りがいがあって、あの人になら安心して任せられる。だからいい機会だと思ったんだ」
パコの瞳が真剣さを帯びる。
「あの、さ。あの日の約束、まだ有効かな。もしもよければ、僕もここで働かせてくれないか」
ニーナはハッとして十六夜を見やった。十六夜の目がこぼれんばかりに見開かれ、しだいに湿り気を帯びていく。
「そんなの、良いに決まっているだろう! 元はと言えば、俺は、お前が……」
「うん。わかってる。あんたの二号店の計画書、見せてもらったよ。最初の日付は僕たちがパレードを観に行った翌日だった。……僕が東の国に憧れているって言ったからなんだろ?」
十六夜は声もなく俯いている。沈黙は何よりも雄弁だった。目の縁に溜まった涙が流れ落ちる前に、十六夜の背をパコが抱き寄せた。
「ありがとう。あんたと友達になれたことが僕の生涯最高の幸運だ。あんたの見た夢を、僕にも見させてくれないか?」
支流が交わって大河となるように、一度は分かたれた道が年月を経て一つになる。
「爺、パコがうちに来てくれるそうです。これから賑やかになることでしょう」
ブランケットをかけ直してやりながら、ニーナはそっと語りかけた。老人の痩せた指は繰り返し銀の指輪を撫でている。やがて無作為だったその仕草が、感情のようなものを伴いはじめる。灰色の瞳が指輪の内側に刻まれた妻の名を捉えると、彼はゆっくりと天を仰いだ。
「ああ……!」
歓喜に打ち震える声が三人の耳に届いたとき、春一番に乗って桜の花びらが舞い上がった。まるであの懐かしい港街から一斉に飛び立つ海猫のように。
「泣かない狼は月の魔法の夢を見る」 完




