45.旅立ち
出発の日は雲ひとつない晴天だった。碧い海はどこまでも凪いで、絶好の船出日和だ。海猫が旅立つ者を祝福するかのように旋回している。
「ニーナさん、元気でね。私たくさん手紙を出すから、絶対返事をちょうだい。あと、くれぐれも坊ちゃんと仲良くね!」
目を潤ませながらアップルが言うと、隣のシナモンもつられて鼻を啜った。
「向こうに行ってもどうか体に気をつけて。僕たち、お二人の成功を陰ながら祈ってますから」
「アップル、シナモン。あなたたちも元気で」
ニーナは別れを惜しむ双子の手を固く握った。彼らはニーナの正体を知ってからも変わらずに接してくれた。二人と洗濯や掃除に勤しんだ日々は、色褪せることなく胸に残り続けるだろう。
「嬢ちゃん、ほれ。サケの握り飯だぜ。船の中で食うといい」
「ありがとうございます、料理長」
ハッサンが小さな包みを差し出してくる。彼の作る賄いにありつけるのもこれが最後だ。ぺろりと平らげたいところだが、今日ばかりは一口一口噛み締めようと思う。
「東の国までは二ヶ月はかかるが、なァに。心配はいらないさ。あの人が指揮を執るんだからね」
豪快に笑いながら、女将がニーナの背中を叩いた。乗船予定の蒸気船にはすでに右京が乗り込んで、出航の準備を整えている。
「ニーナ、あんたいい面構えになったね。ここに来たときとは大違いだ。あんたと十六夜ならきっと何があっても大丈夫さ」
ニーナは深く頷いてみせる。女将は頷き返してニーナを抱きしめた。
塔を解放されてから一ヶ月。ニーナが青珊瑚町にやってきてから一年が経過したのを機に、東の国への移住の手続きが整った。ほとんどの町民は胸を撫で下ろしたようだが、ニーナを知る常連客たちや市場の店主たち、ギルドのメンバーからはいたく寂しがられた。
契約が成立したサルマンとは長い付き合いになりそうだ。白狼たちは既に炭鉱を出て、砂の国に身を寄せている。サルマンは自分を選ばなかったニーナに対して「そりゃ残念」と、これっぽっちも惜しくなさそうに吐き捨てただけだった。
「ニーナどの、入れて、おいた、荷物」
船から戻ってきた十六夜が、辿々しく呼びかけてくる。十六夜はまだニーナとうまく話せない。それでも周囲は十六夜の鋼の決意を尊重し、二人の旅立ちを止めることはなかった。
「パ、コ」
十六夜は仲間の後ろに立ち尽くしているパコに声をかける。帽子を目深に被り直して、パコがため息をついた。
「ああ、もう。そんなに名残惜しそうな顔するなって。僕だって我慢してるんだから」
パコは金の竪琴町への移住を受け入れた。母親と親子水入らずの生活をすることにしたらしい。「二人で料理店をやるんだ。今度は父さんの話もうんと聞かせてくれるってさ」そう言ったパコの憑き物が落ちたような顔が、ニーナの目に焼きついている。
「ニーナちゃん、十六夜のことよろしくね。知っての通り、無茶しすぎるところがあるからさ」
「わかっています」
出会ってから今まで、パコはずっとニーナの味方であり続けてくれた。パコがいなければ今頃どうなっていたか想像もつかない。
「パコ、息災、で」
「ん。ニーナちゃんを泣かせたら承知しないからな……なーんて、一度は言ってみたかったけど、この分じゃ泣くのはあんたの方だな」
「……、う……」
十六夜が口を引き結ぶ。ニーナも同じ気持ちだ。本当はパコに一緒に来てほしかった。三人で見たことのない景色を見たかった。しかしパコがやっと心から望んだ道を妨げるべきではない。
もうすぐ出航の時間だ。仲間たちと最後の抱擁を交わして、ニーナと十六夜は桟橋へと向かった。
「っ、十六夜、ニーナちゃん!」
震える声が、二人の足を縫いとめる。
「もしも、いつか、母さんにいい人が出来たりして……僕がお邪魔虫になったりして……それで、もし、新たな道を歩みたくなったら、僕もそっちに行ってもいいかな?」
十六夜が声を張り上げた。
「待っている、ずっと!」
船に乗り込んだニーナは、先に乗船させていた爺に声をかける。
「爺。これから東の国に向かいますよ」
爺はわずかに反応を示すが、返事をすることはない。心を失ったままの爺を連れて行きたいというニーナの希望を、十六夜は快諾してくれた。
汽笛が鳴り響く。未知の地へと向かって船がゆっくりと動き出した。仲間たちの姿が小さくなって、水平線の向こうに消えるまで、ニーナと十六夜は手を振り続けた。
***
船の姿がすっかり見えなくなってからも、パコは海の向こうを眺め続けていた。先に戻ってほしいと伝えると、ハッサンたちは後ろ髪を引かれながらも帰っていった。
「う……っ」
堪えきれなかった嗚咽が漏れる。思い出が堰を切ったように溢れ出す。十六夜と出会って友達になった。ニーナが現れて好きになった。海猫のスプーン亭にやってきてから、すべてが夢のようだった。
「欲しいもの、ぜんぶいっぺんに、手に入ればなあ……」
泣き崩れているパコの肩を誰かが抱き寄せる。花のような優しい香りが、パコを包み込んだ。
「う、うっ……姐さん」
バターカップは何も言わずに、パコを抱きしめていた。その温もりが痛いほど胸を締めつけて、かえって涙が止まらなくなるのだった。
彼女は水平線の彼方をじっと見つめて「ばいばい、あたしの騎士様」と呟いた。パコを支えながら立ち上がって、海に背を向けて歩き出す。高いヒールの踵が、石畳を軽快に打ち鳴らした。




