43.手紙
「おい、あいつ今日もやってるぞ」
「狼なんざのために酔狂な奴もいたもんだ」
庁舎の門前を通りがかった町民が口々に囁き合う。彼らの視線の先には、地べたにどっかりと胡座をかいている十六夜の姿があった。どれほど諭されようとも、注意を受けようとも、十六夜は頑としてその場を動こうとしない。ニーナとパコが連行されてからの一週間、十六夜はほとんど飲まず食わずで庁舎の前に座り込んでいるのだった。
「いい加減にしないと体を壊しますよ」
困り果てた役人が水の入った器を差し入れるが、十六夜はきっぱりと受け取りを拒んだ。
「お気遣い痛み入ります。しかし私は二人に会わせていただけるまでここを梃子でも動きません。私がこのままここで野垂れ死んでは、貴殿らも外聞が悪いのでは?」
「そう言われましても許可出来ないものは出来ないのです」
「左様ですか。ならばその首を縦に振っていただけるまで、こうしているだけのこと」
落ち窪んだ眼をぎらつかせて、十六夜は庁舎の奥に聳え立つ石造りの塔を睨み上げた。
***
ニーナとパコが連れてこられたその塔は、かつて王制が敷かれていた時代に建造されたものらしい。王族や貴族などの身分の高い者が幽閉されたこともあるそうだが、現在は主に書庫や会議室として使用されていた。二人にそれぞれ用意された部屋は、窓に鉄格子が嵌め込まれてはいるものの、十分な広さと清潔さを備えていた。調度品も不足なく揃えられており、危惧したような非人道的な扱いを受けることはなかった。
二人が受けた説明は以下のようなものだ。曰く、議会がニーナとパコをこの場所に移送した目的は、二人を保護することであるらしい。この町の人々は人狼を憎んでいる。このまま海猫のスプーン亭に立て籠っていれば、遅かれ早かれ暴動が起こるだろう。議会が二人の身柄を引き受けたのは、そうした事態を防ぐため。そしてしばらくこの塔の中で大人しくしていれば、何らかの沙汰があるとのことだった。
海猫のスプーン亭の仲間に迷惑をかけないために、二人はその提案を受け入れた。食事や入浴には事欠かなかったが、外出や面会は禁じられ、仲間と連絡を取ることは叶わなかった。
「食事をお持ちしました」
すっかり馴染みになった慇懃無礼な声がして、ニーナは扉を開けた。庁舎の男性職員が銀のトレイを持って入ってくる。彼は白パンとトマトのスープ、塩漬け肉と豆とチーズの盛り合わせを配膳し、新しい水差しを置いた。ここで出される食事は十二分に上等なものだったが、海猫のスプーン亭の賄いの味には及ばない。
「もしも口に合わないものがあれば、遠慮なく仰ってください」ニーナの不服そうな視線に気づいたのか、職員が事務的に言い添える。
「ところで、ご所望のものを預かって参りました」
そう言って彼は机に眠り薬の瓶を置いた。満月の夜が近づいてきたので、職員経由で十六夜に持ってきてもらうよう頼んでいたのだ。瓶を手に取ると、丸薬に埋もれるようにして小さく折り畳んだ紙が入っているのに気がついた。
「……感謝します」
「いえ。それでは失礼します」
職員が去った後、ニーナは紙を広げてみる。それはどうやらニーナではなくパコに宛てられた手紙らしく、差出人もまた十六夜ではないようだ。少しだけ目を滑らせて、ニーナは手紙を畳み直した。この手紙はパコが真っ先に読むべきだ。ニーナは食事に手をつけないまま、パコの部屋へと足を向けた。
***
「手紙? 十六夜から?」
退屈そうにベッドに寝転がっていたパコが身を乗り出す。
「いいえ。忍ばせたのは十六夜だと思うけれど」
「へえ、誰からだろう。僕がいなくなって寂しい思いをしている女の子たちに頼まれたのかな」
冗談めかしながら手紙を広げるパコを、ニーナは黙って見守った。文字を追うパコの目が、驚きに見開かれていく。次にパコが言葉を発するまで、長い時間がかかった。ほんの少し手紙を垣間見ただけのニーナにも、パコにとっていたく大切なことがしたためられているのだと察せられた。
「ニーナちゃん。あのさ、ずっと君に聞きたいことがあったんだ」
「聞きたいこと?」
パコは顔を上げないまま、歌を口ずさむ。「あらら狐も焚き火のダンス、ブーツを片方なくしたの」今度はニーナが驚く番だった。パコが朗々と歌い上げたのは、ニーナにとって馴染み深い旋律だったからだ。
「どうしてあなたがその歌を知っているのですか」
「母さんが昔からこればかり繰り返し歌っていたからさ。だけど他の誰に聞いても、そんなおかしな歌は知らないって言うんだ。これって狼の間に伝わる歌だったの?」
「いいえ。その歌を歌うのは私と爺だけ」
「えっ……ど、どういうこと?」
「その歌は、爺の番いが作った歌だから」
「つが、い……爺やさんの、奥さん?」
パコはこめかみを押さえて必死に思考を巡らせている。
「番いと、番いとの子がその歌をいつも口ずさんでいたと爺が言っていました。二人とも死んでしまったそうだけれど」
「ま、待って。子……? 二人とも亡くなったって、どうして?」
「番いは病気で。子は川で怪我をしたのがもとで」
妻子を失ったのをきっかけに、爺は銀狼の群れを離れて山城にやってきたと聞いている。ニーナが生まれる前のことだ。そのことがこの手紙と何か関係しているのだろうか。ニーナには皆目見当がつかなかったが、どうやらパコの中で点と点が結びついたらしい。色素の薄い睫毛が、震えながら伏せられる。
「そうか。そうだったんだ」
「パコ、いったい」
「ごめん。少し一人にしてくれないかな。気持ちの整理をつけるから」
溢れそうな思いを押し留めんとするように、パコは自らの肩をかき抱いた。それが悲しみのためではないように見え、ニーナは素直に席を立った。
***
その夜は美しい星月夜だった。雲一つない漆黒の空に、砂糖をこぼしたような白い星々が散らばっている。ガス灯の明かりも届かない塔の窓からは、星空がきわめて間近に見えた。
ニーナが格子の隙間から夜空を眺めていると、ふいに黒い影が星を覆い隠した。何事かと闇に目を凝らしたが、何の気配も感じられない。オイルランプの明かりを窓辺に差し向けても、見えるのは鉄格子と夜空だけだ。
しばらくすると扉がノックされた。パコだろうか。しかし向こうから声をかけてくる気配がない。
「誰?」
「あんたが今もっとも待ち焦がれている相手だよ」
意外な声に驚いて、ニーナは扉を開けた。ランプの明かりがはだけた胸もとを照らし、薔薇の刺青を浮かび上がらせる。
「サルマン」
「何だ、囚われの姫君って風情じゃねえな。なかなかどうして贅沢な暮らしぶりだ」
招き入れる間もなく押し入ってきたサルマンは、無遠慮に室内を見回した。
「どうやってここに来たのですか。この塔は立ち入り禁止のはず」
「そりゃ知らなんだ。上はがら空きだったもんでな」
サルマンが親指で天井を指し示す。屋上から忍び込んだということだろう。先程窓の外に見えたのは、飛来したドラゴンの影だったのだ。
「他国の海に勝手に入ることは禁じられているのでしょう。空はいいのですか?」
「ああ? 空は誰のものでも……いや、なるほどな。興味深い思いつきだ。蒸気で空を飛ぶことが当たり前になりゃあ、法によって縛られることになるだろうよ」
ところで、とサルマンはブレザーのポケットから紙切れを取り出した。
「ほらよ。あんたが喉から手が出るほど欲しがってんのはこれだろう」
ニーナは紙に記された内容を一読して頷く。
「確かに。まさかあなたがこのために直接乗り込んでくるとは思わなかったけれど」
「返事をする前にあんたが追放されちゃあ、元も子もないんでね。俺様にとっても旨みがある話だ。乗らねえ手はねえのさ」
サルマンは鼻を鳴らして窓辺に腰かけた。一番最後まで目を通すと、記名と捺印がニーナの目に入る。そこには「砂の国の王家に連なる者、砂薔薇の海賊衆の頭領サルマン」と明記されていた。
「あなたは王族だったのですか?」
「一応はな。俺様は王と山の魔女との間の私生児なんでね。一人子の王子サマが病弱なせいで引っ張り出されたんだが、魔女の薬ですっかり達者になっちまったんで、さっさと継承権は放棄したぜ」
「そうなのですか」
「ああ。お陰さまでやりたい放題よ」
明日の天気のことを話すような気軽さでサルマンが言うので、ニーナには事の重大さがよくわからなかった。ここにパコがいたならば、あまりの途方もなさに目を回していたに違いない。
「公表しちゃいなかったが、脅しつけるにはうってつけだろ。俺様にここまでさせたからには、あんたもうまくやれよ。お偉方の言うことは何でも話半分に聞くのがコツだぜ」
「話半分」
「ああ。あちらさんは情報を都合よく取捨選択するだろうが、まるっきり嘘と決めてかかれば話がややこしい。どっちに転んでも痛い目に遭わんよう、話半分に聞いときな」
「わかりました。協力に感謝します」
「礼は事成ってからにしようや。しかしこの町の議会は案外馬鹿じゃねえらしい。牢獄に押し込めといたところで、あんたらなら容易にぶち破れる。保護するって名目で上等な環境に置いときゃ、無茶はしねえだろ」
サルマンはポケットから銀のスキットルを取りだし、中の酒を煽った。
「議会の連中はあんたらの処遇について話し合っているようだが、結論は目に見えてる。あんたらは幾ばくもないうちにこの町を追われるだろう」
「その覚悟は出来ています」
「そりゃ賢明だ。だがあんたはそれでいいのか?」
「どういう意味?」
「無実の罪で追放されるなんてのは癪だろう。だから、こういうのはどうだ。あんたは自分の意思で町を出る。……俺様のところに来い、白狼のニーナ」
予想だにしなかったサルマンの誘い文句に、ニーナはしきりに目を瞬いた。
「あなたのところ……? 海賊の一味になれというのですか」
「そういうこった。あの金髪の狼も一緒に連れて行ってやってもいい。あの小賢しさは何かと役に立つだろうよ」
「あなたは私のことが気に食わないのではなかったのですか」
「気が変わったのさ。今のあんたは気に入っている。共に海原を往くのもまた一興」
ニーナはしばし考え込んだ。この男が見てくれ通りの悪党でないことはすでにわかっている。だからこそ右京に頼み込んで手紙を書いたのだ。サルマンのもとに身を寄せる。想像もしなかった選択肢だ。
「では、十六夜も……」
「あいつは駄目だ」
サルマンはにべもなく言い放つ。
「あのお坊ちゃん、身体があちこちイカれてるだろ。足手纏いが一人でもいりゃ俺たちぜんたいの命に関わる」
真剣な声色は、サルマンの提案が決して軽はずみなものではないことを物語っていた。ニーナは赤銅色の瞳を見つめ返す。
「わかりました。話半分に聞いておくことにします」
「はっ、つまんねぇ女だ!」
言葉とは裏腹に、サルマンはさも愉快そうにプラチナブロンドを揺らした。窓辺から腰を上げて、扉に手をかける。
「よく聞け。むやみに敵を作るな。だが言いなりにもなるな。欲しいものは全部手に入れてみせろ。あんたが知性なき獣ではないことを、大衆に見せつけてやれ。白狼のニーナに砂の女神の祝福があらんことを」
ブレザーの胸ポケットを探った褐色の指先が薬包紙を取り出す。階下から近づいてくる足音にニーナが気がつくと、サルマンは包紙の中の薬を一吹きした。
「……人の気配があったように思われたのですが、気のせいでしたか」
次に気がついたときには、目の前にきょろきょろと辺りを見回す職員が立っていた。サルマンの姿はどこにもない。どうにも頭が少しぼうっとしている。
「夜分遅く失礼しました。ごゆっくりお休みください」
腑に落ちないようすで去っていく職員の背中を見送りながら、これも山の魔女仕込みの魔法なのだろうかと考える。やはりどうにも食えない男だ。
***
パコちゃんへ。
元気にしていますか。体を壊してはいませんか。
あなたの父さんが人狼であることを、ずっと隠していてごめんなさい。こんなことになるならもっと早くに話すべきでした。
母さんは昔、父さんのお屋敷で働いていました。父さんはとっても優しい狼でした。優しすぎて、川で溺れた女の子を助けたときに負った傷がもとで死んでしまったのです。薬を使っていれば助かっただろうに。
生まれたばかりのあなたをお屋敷の女狼にとられそうになって、私は大喧嘩をしました。狼恐怖症になったのはそのときです。あなたの尻尾を見たとき、私はそのことを思い出してしまいました。傷つけてしまってごめんなさい。
もしもあなたが悲しい思い違いをしているようなら、どうか信じてください。母さんの愛した男はたった二人、父さんとあなただけ。
出来ることならあなたをもう一度抱きしめたい。どうか帰ってきてはくれませんか。
ローズより。
ランプの明かりを頼りに、パコはその手紙を何度も読み返した。
「あらら狐も焚き火のダンス、ブーツを片方なくしたの」
そのおかしな歌は祖母によって歌われ、父に伝えられた。そして父から母に伝わり、パコに伝わった。一方で祖母から祖父に伝わったその歌を、今度はニーナが口ずさんでいる。それは誰も彼もが愛し合っていたことの、何よりの証明だ。
「僕は望まれて生まれてきたんだ」
手紙を胸に抱いてうずくまる。五年間パコの心を蝕み続けた呪いが解けていく。生まれてこなければよかったと絶望する日々は終わりを告げたのだ。
「母さん、父さん……信じられなくて、ごめんなさい」




