42.望み
「手紙はそろそろ届いているでしょうか」
「ああ。返事があるかどうかはわからんが」
「いいえ、恐らく返事はあります」
「そうか」
「十六夜はどこにいますか」
「共用ルームにいる。顔を見せてやってほしい」
「わかりました」
右京の言葉に背中を押されて、ニーナは共用ルームへと足を向けた。
***
高潮の日以来、ニーナは十六夜と話していなかった。十六夜は女将共々海猫のスプーン亭の責任者として対応に追われており、ニーナはニーナで動いていた。ずっと寝込んでいるパコも、話ができる状態ではない。
しかし忙しなさは一因に過ぎなかった。十六夜の気持ちがどうあれ、接触すれば発作は起こる。どうすることが最善なのか、まだ誰にもわかっていなかったのだ。
戸口からそっと中をうかがうと、十六夜はソファに腰かけて書類に筆を走らせていた。
「十六夜」
ニーナが小声で呼びかけると、十六夜の肩が跳ね上がった。油切れの機械のようにぎこちなく振り返った彼の瞳孔は、開き切って揺れていた。
「そちらに行ってもいいですか」
「あ……あ……」
返事の代わりに十六夜はゆっくりと立ち上がった。爪が食い込むほど握り締められた拳が、胸の前で凍りついている。呼吸が浅く短くなっていき、今にも倒れてしまいそうだ。しかしニーナが一歩、また一歩と近づいても、十六夜は後退りしたりせず、目を逸らしもしなかった。
ニーナは虚ろに揺らめく瞳を見上げた。銀狼にやられた右目の上の傷痕が、前髪の陰から垣間見える。
「以前、あなたは私に言いましたね。たとえ狼が現れても逃げない、と。あなたは約束を違えないのですね」
あの高潮の日も、今も。己の内に暴れ回る恐怖と闘って、ニーナと向き合っている。十六夜はかつて自分自身を情けないと評したが、ニーナは勇敢だと思った。
「きみが、おっ、お、お、おおかみ、でも……」
真っ青な唇が痙攣するように震える。
「きみは……かわいい」
「かわいい?」
予想だにしなかった言葉に目を丸くする。しかし十六夜はその何倍も驚いていた。発作を起こしているはずの彼の口から、確かに言葉が発せられたのだから。
「は、な、せた……!」
感極まったようすで声を詰まらせて、十六夜はニーナを勢いよく抱きしめた。視界が真っ暗になり、歓喜の声だけが聞こえてくる。
「十六夜」
「うわあ!」
ニーナが小さく身を捩ると、我に返った十六夜は仰天してひっくり返った。何やら呻き声を上げながら両手を擦り合わせているが、ニーナにはその仕草の意味がわからず、ただ目をぱちくりさせた。
「断りなしに君に触れてしまって面目ない、とでも言いたいんだよ。このチェリーボーイは」
戸口の方から呆れる声がして振り返ると、少しやつれたようすのパコが寄りかかっていた。
「パコ、いつからそこに?」
「最初っからさ。すっかり二人の世界に入っちゃってるんだもん。寂しいったらないよ」
「体はもう平気なのですか」
「うん。ごめんね、色々」
パコは足に釘を打ちつけたようにそこから動かない。きっかりと線を引いて、それ以上は近づかないように努めているようだ。しかしニーナは意に介さず、見えない線を乗り越えてパコの手を引いた。パコは寄る辺のない幼子のような目で、十六夜の顔を盗み見る。十六夜はほっとしたように「無事でよかった」と相好を崩した。
「全く、あんたって奴は。あれだけ脅かしてやったのに、まるで効いちゃいないんだから。僕に喰われたって知らないぞ」
堪えるように唇を噛み締めてから、パコはしばらくぶりに人好きのする笑みを浮かべた。
ニーナと十六夜とパコが揃うのは随分久々だ。色々なことがあり過ぎて、三人で靴鳴り町を歩き回った日のことが、遠い昔のことのように思われた。
ソファに深く沈み込んだ十六夜の顔色は芳しくない。それでも三人で一緒にいられる喜びの方が勝つらしく、心底嬉しそうにしているのだった。
「なんか久しぶりだね、こういうの」
「ああ」
「列車に乗ったときのことを思い出します」
「そういえば、あのときも君と十六夜が並んで座って、僕が向かいに座ってたっけ。なんだか懐かしさすら感じるよ」
こうしている今も、宿の周りには人狼を厭う人々が集まっている。この穏やかな時間が長くは続かないことを予感しながらも、誰もそれを口にしようとはしなかった。
「あの日の一番の驚きは十六夜がニーナちゃんに髪飾りを贈っていたことだよね。まさかセンセイが女の子に贈りものをするなんて、天地がひっくり返ってもあり得ないと思ってたからさ」
「そうなのですか?」
「間違いなく生まれて初めてだろうよ。な、十六夜……十六夜?」
パコの声色が変わる。ニーナが隣を見ると、十六夜は水を被ったような汗を掻いて項垂れていた。汗の玉が絶え間なく顎先から滴り落ちて、強く握りしめられた着物の裾にいくつもの皺ができている。
「……なあ、十六夜。僕たち外すから、少し休もうか」
十六夜は躍起になって首を振った。腰を浮かせたパコを引き留めようとして、よろめくように身を乗り出してくる。
「待って、くれ、まだ……」
「うん。また後で話そう。行こう、ニーナちゃん」
パコの目配せを受けて、ニーナも立ち上がる。
「パ、コ、渡したい、もの、部屋に」
「渡したいもの? 何だろうな。後で貰いに行くよ」
半ば強引に十六夜を横たえて、パコは打ち掛けられていた羽織をそっとかけてやった。十六夜が震える手を伸ばして、離れかけたパコの手にしがみつく。
「パコ、ニーナ、どの……ど、なに、時間が、か、かかっても……かなら、ず……」
「うん、わかってる。あんたの気持ちは伝わってるよ。ありがとう」
パコの手が十六夜の手を力強く握り返す。ニーナは二人の手に自らの手を重ねた。パコが少し驚いたようにニーナを見て、顔を綻ばせた。
二人の体温を感じながら、ニーナは三人で見た騎士のパレードを思い出していた。大きな波に押し流されないよう、固く手を繋ぎあったあの日のことを。
***
「狼恐怖症は、心の問題……か」
食堂は日頃の活気が嘘のように静まり返っている。綺麗に磨き上げられたままのテーブルに手をついて、パコは静かに呟いた。
「時の流れが傷を癒してくれるものだとしても……僕たちにそれを待っている時間はないと思う」
ニーナは少し考えて頷いた。どれほど十六夜が気丈に振る舞おうとも、その身に刻まれた恐怖を拭うことは容易ではない。彼が過去の記憶に打ち勝つより、町の人間たちの反感が爆発する方がきっと先だろう。
「ねえ、ニーナちゃんはどこか行きたいところはある?」
「行きたいところ?」
「うん。もしも君が山に帰りたいっていうなら……僕も一緒に行っちゃ駄目かな」
パコの声が切実さを帯びる。その目の奥に覚悟の色が垣間見えて、ニーナは眉を吊り上げた。
「あ……もう、黙って出て行ったりなんかしないって。ちゃんと話して決めるから。十六夜にも、宿の皆にも。もちろん君にも」
決まり悪そうにパコは頭を掻く。
「もしも君がいやなら、無理にとは言わないよ。だけど、僕は君と生きたい」
ニーナは顎に手を当てて思案した。普通の人間ならば、あの峻険な山で生きていくことは至難の業だろう。しかしパコには人狼の血が流れている。身体能力の高さから鑑みれば、それほど非現実的な話でもないのかもしれない。
がらんどうになった山城を頭に思い浮かべる。爺も白狼たちもいない山城に一人で住むというのは、ひどく味気ないもののように思われた。そこにパコがいてくれれば、きっと一人よりはずっといいに違いない。
しかし本当にそれしかないのだろうか。死に物狂いで自分と闘っている十六夜を見ていると、なにか他にも道があるような気がしてならないのだ。
「私は人の中で暮らしたいと思う」
爺や白狼と別れて山を下り、人と出会って人を知った。ここで得た知識や経験は、ニーナの目に映る世界をがらりと変えてしまった。知れば知るほど世界は広がっていく。ニーナの外にも、ニーナの中にも。それは小さな山城で過ごしていては、決して起こり得なかったことだ。
多くの人が行き交う町で、多くの人生を垣間見たい。日々新たな物語を読むように。それが今のニーナの望みだった。
「パコ、それはあなたの心からの望みなのですか」
「……実現可能な中で一番望ましいやつさ」
それきりパコが黙り込んでしまうと、空っぽの食堂を沈黙が満たした。
「あっ、ニーナさん、パコさん。大変なんです!」
玄関の方からアップルの焦った声が聞こえてきた。ニーナとパコは顔を見合わせて席を立つ。
「アップルちゃん、何かあったの?」
「町のお偉いさんがきて、ニーナさんとパコさんを呼んでるんです」
「お偉いさん?」
「ええ。今、表にいて……女将さんと話してます」
「わかった。今行く」
二人が外に出ていくと、ぴしりと身なりを整えた壮年の男性と女将が揉めているようだった。男性の後ろには、黒い制服姿の警官たちが整然と控えている。二人の姿を見ると、男性はごく穏やかに声をかけてきた。
「君たちが人狼のニーナとパコかね」
「そうです。僕たちに何かご用でしょうか。こっちには心当たりがないんですが」
パコがニーナの前に出て毅然と答える。警官たちが各々の警棒に手をかけると、男性は片手でそれを制した。
「一緒に来てもらいましょう。こちらとしても穏便に済ませたい」
「うちの従業員には善良な一般市民しかいないよ。おたくらに協力するようなことなんか何もありゃしない」
「私は彼らに要請しているのですよ、女将」
憤懣やる方ないようすの女将を、男性は冷静に諌める。
「穏やかじゃないですね。この町で狼が好き放題やっていたときには放ったらかしにしたくせに、無実の僕たちのことはしょっぴくんですか? 彼女がクラーケンからこの町を救ったことはご存知でしょう。本当なら銅像の一つや二つおっ建ったっていいくらいだ」
「パコ。行きましょう」
気色ばむパコをニーナは制止した。
「でも、ニーナちゃん……」
ここで騒ぎを起こせば、宿の仲間に危険が及ぶかもしれない。パコの言う通り自分たちには何の罪もないのだから、堂々としていればいい。泡を食ったアップルが、宿の中に駆け込んでいく気配がした。
「賢明な判断に感謝する」
まだ納得していない女将を宥めすかして、宿の前に停められていた馬車に乗り込む。周囲には人だかりができていて、ざわめきが波紋のように広がっていった。
「ニーナちゃん」
「パコ、大丈夫です。私たちはただ生きているだけ」
今頃、十六夜はアップルに事態を知らされているのだろうか。大事なときに臥せっていたことで、十六夜がむやみに自分を責めなければいいのだが。




