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40.俺たちは同じだ

 やっとの思いで戻った船着場は騒然としていた。堤防の柵には縄梯子がかかったままであったが、一本は千切れかけ、一本は真新しい断面を晒していた。男の上に馬乗りになったハッサンが怒鳴り声を上げ、数人の船乗りたちが二人を引き離そうとしている。

「てめえ、自分が何をやったか分かってんのか!」

「わからいでか、狼なんか海の藻屑になっちまえばいいんだ」

「だからってパコまで巻き添えにする奴がどこにいる!」

「狼を助けようってんなら同罪だろうが」

「お、おい、戻ってきたぞ」

 男たちの視線が一斉に集まる。ニーナの姿を認めた彼らは誰一人として近づいて来ようとはせず、それでいて退路を塞ぐように立ちはだかった。ハッサンだけが、ニーナの腕の中で凍えているパコを見て、血相を変えて踏み出した。

「こんちくちょう、狼めが。パコから離れやがれ!」

「料理長、落ち着け。彼女はニーナだ」

 右京が割って入ると、ハッサンは赤銅色の眼をこぼれんばかりに見開いた。

「なっ、嬢ちゃん、だと? まさか嬢ちゃんが狼だったっていうのか?」

 にわかに信じられないといったようすのハッサンに、ニーナは頷いて肯定を示した。後悔はない。狼の姿にならなければ、クラーケンを追い払うことは難しかった。それに遅かれ早かれ、いつかは隠し通さなくなるときがきたはずだ。それが今日だったというだけのことだ。

 唖然としているハッサンを押し退けて、船乗りたちがやいのやいのと騒ぎ立てる。

「やっぱりあの張り紙は真実だったんだ。この町にはまだ狼がいやがったんだ」

「狼はこの町を出ていけ!」

 すると今度は海猫のスプーン亭の常連客たちが一斉に反論しはじめた。

「このすっとこどっこいが、お前はいったい何を見ていたんだ。彼女がクラーケンを追い払わなけりゃ、今頃俺たち全員お陀仏だったかもしれないんだぜ」

「そうだそうだ、ニーナちゃんは俺らの命の恩人だ!」

「だったら何か、狼がしでかしたことを許すってのか。俺は家族をみんな狼に傷つけられたんだ」

「それとこれとは関係ねえだろうが、このわからずやが!」

 ニーナを糾弾する者、庇う者、狼恐怖症の発作を起こして逃げ出す者。さらに騒ぎを聞きつけた野次馬が駆けつけて、ますます収拾がつかなくなっていく。さまざまな感情が入り乱れて、群衆は混乱の坩堝に陥っていた。「やめてくれ……」パコが弱々しい吐息を漏らす。

「そんなことより今は怪我人の手当てが先だ。ここを通してくれ」

 恐慌状態に陥った人々の耳に、右京の声は届かない。人の心に吹き荒ぶ嵐の凄まじさを前にして、ニーナはどうすることもできずにパコの身体を抱き寄せた。


「済まない、どいてくれ、頼む!」

 にっちもさっちもいかなくなったそのとき、誰かが群集を掻き分けて進み出てきた。その声にパコがぴくりと反応を示す。

「い、ざよい」

 そこにはふらつきながら歩み寄ってくる十六夜の姿があった。左右異なる色の瞳がニーナとパコの姿を捉えると、十六夜は胸を掻きむしって息を乱した。

「あ、ううっ……」

 溺れるように喘ぎながらも、十六夜は足を止めない。一歩一歩、向かい風に逆らうように近づいてくる。手を貸そうとした右京が、何かを察して踏みとどまった。するとパコが気力を振り絞って、ニーナの腕の中から無理やり這い出した。

「近寄るな!」

 ニーナの前に立ちはだかったパコは、四つん這いになって銀色の尻尾を露わにした。牙と爪を剥き出しにして、喉を鳴らして威嚇の態勢をとる。

「なっ……狼!?」

 半分獣と化したパコの姿に、再び群衆がどよめいた。とりわけハッサンは、動揺のあまり声も出せないほどであった。ニーナですら、パコが大衆の前で狼の姿を晒したことに驚いた。そんなことをすればニーナだけでなくパコ自身も迫害の対象となるというのに。そんな中、十六夜だけは一歩も引き下がらなかった。

「近づくなって言ってるのが聞こえないのかよ! これ以上近づいてみろ。僕はあんたを喰い殺すことだってできるんだからな」

 パコの脅し文句はどこか懇願めいていた。まともに受け取った群衆が、怯えたように距離を取る。

「邪魔だ、どけ!」十六夜を突き飛ばしてニーナとパコに飛びかかろうとした男が、ハッサンに取り押さえられた。

「くそっ、放しやがれ」

 暴れる男の腕を、ハッサンが捻りあげる。「坊ちゃん」その瞳の先には、這ってでも進み続ける十六夜がいた。

「うー、うっ」

「なんで、来るんだよ。どう、して……」

 そうして十六夜の腕がとうとう、獣のままのニーナとパコをしっかと抱き寄せた。

「あ、あっ、おっ、お……だ、は」

 引き攣った呼気の間に、言葉の形をなさない声が零れていく。十六夜の腕の震えが首筋に伝わって、その恐怖と苦痛を否が応でも想像させた。それでも十六夜は決して離すまいと、ますます二人を抱きしめる力を強くする。

「お、おあ、おあ、じ……あ」

 ニーナは人の姿に戻ろうとして、やめた。毛むくじゃらの手を十六夜の背中に回す。ニーナとパコのために、癒え切らない傷と向き合おうとしている十六夜にどうにかして応えたかった。

「なに、いってるか……わかんない、よ。センセイ」

 パコの尻尾が消えていく。力尽きたのか、はたまた安堵したのか。パコは十六夜の腕の中で、糸が切れたように気を失った。


 雨はまだ弱まる気配がなく、穏やかで平和な日々は終わりを告げる。


***


「それじゃあ、ネズリー君も初めから知っていたわけではなかったのね」

「はい。でも、まさかパコさんもそうだとは、夢にも思わなかったっす」

 俯いたまま頷くネズリーの横で、クロエが難しい顔をした。

「事実は小説よりも奇なりとは、このことなのかしらね」


 高潮が過ぎ去った後も、青珊瑚町は未だ混乱の真っ只中にあった。ニーナとパコが人狼であったという事実は瞬く間に町中に知れ渡り、人々の間に大きな波紋を引き起こしていた。これほどに早く情報が伝播したのも、ネズリーによる嘘の張り紙が種火となったせいに他ならない。

「クロエさん。以前の自分だったら、これほどセンセーショナルな事件を見過ごすなんて出来ませんでした。一も二もなく飛びついて、面白おかしく書き立てたことでしょう」

「そうね。あなたは鼻のいい記者だわ」

「だけど、今僕は、自分の進むべき道がわからないんです。今からでも、張り紙が捏造だったことを公にすれば……」

「今からでは町の人は誰も取り合わないでしょう。事実として狼はこの町にいたのだから。無用な混乱を招く引き金にすらなりうるわ。私たちはもっと早く対処すべきだった」

 クロエの言う通りだ。ニーナとパコが狼になった姿をその目で見た人間は一人や二人ではない。疑いようもない事実を否定するような記事を書けば、ペーパームーン新聞社に何らかの圧力がかかっているような印象を与えかねない。

「ネズリー君。あなたは今、あの二人……いいえ、ニーナさんへの個人的な感情から迷いを抱いているようだけれど。私は一記者として、この件から目を逸らすことはできません」

「ま、待ってください、クロエさん」

 渦中の二人は現在、海猫のスプーン亭に匿われている。女将はどれだけ引き渡しを要求されても頑なに応じず、宿の門扉は固く閉ざされているらしい。このままでは暴動が起こるのも時間の問題だ。

「冷静になりなさい。私たちの役目は、多くの人に真実を知らしめることよ。ゴシップだけが全てじゃないわ」

「えっ……?」

 言うが早いか鞄を背負って立ち上がるクロエを、ネズリーは慌てて追いかけた。

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