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04.カリン

「ニーナ、これね、洗濯機っていうの。ここに汚れものと水と石鹸を入れてハンドルを回すと洗濯ができるんだよ」

 そう言ってカリンが機械の蓋を開けると、中から湯気が立ちのぼった。彼女は使用済みのシーツを熱湯の中に入れていき、蓋を閉めてハンドルを回しはじめる。

 ニーナは洗濯機をまじまじと観察した。ハンドルに連動して、横たえられた金属の筒がぐるぐると回転する。筒の下に据えつけられた炉が、中の水を煮沸しているようだった。

「これはどういう仕組みなのですか?」

「よくわかんないけど、回すと汚れが落ちて綺麗になるんだ。手洗いよりもずうっとラク!」

 カリンがそばかすだらけの頬を満面の笑みの形に変えた。


 ニーナの教育係を務めることになったのは、住み込みで働いているカリンだった。彼女はやや薹が立って見えるが、喋り方は舌足らずで愛嬌がある。ちぢれた赤毛を高く結い上げているさまも、彼女を幼く見せていた。しかし顔立ちの印象に対して背が高く、平均的な男性の上背を持つパコとほとんど差がなかった。そのため、小柄なニーナを常に見下ろす格好になる。

 カリンが身につけている腕章と同じものを、今日からニーナもつけはじめた。表のレリーフと同じ柄の腕章だ。海猫のスプーン亭には制服がなく、この腕章を以て従業員であることを周知している。

「さあ、ニーナもやってごらんよ」

 ニーナは頷いて、着ているワンピースに手をかけた。

「えっ、ちょ、ちょっと、何してるの?」

「何とは? あなたが私の服を洗濯するのでしょう?」

「違う違う、アンタが皆の服やシーツを洗うの! 今日からそれがアンタの仕事の一つなんだから」

「私が? これを回すことが私の仕事なのですか?」

「そーだよ。ほらほら、やってみな」

 カリンに促されて、ニーナはハンドルに手をかけた。ぐいと力を込めると、鉄の筒がおもむろに回り出す。

「おっ、見かけによらず力持ちじゃん。いいよニーナ、その調子!」

 ニーナは目の前で回転する銀色の塊を食い入るように見つめた。

「私は何をしているのですか」

「そりゃ、働いてるんでしょ」

「働くのは、生まれて初めてです」

 山城にいたとき、身の回りの世話は全て使用人たちの役目であったし、独り立ちしてからも狩り以外のことは爺に任せきりであった。当然洗濯などしたこともなければ方法も知らない。何しろ、爺がいなくなってからは着衣のまま川や泉に入り、着衣のまま乾かしていたくらいだ。

 カリンは長身を屈めて炉の扉を開けると、火箸を差し込んで加減を確かめる。

「アンタ、田舎の城のお嬢さまだったんだって? そのわりに、妙にぼろな服を着てるけど。寸法も合ってないみたいだし」

 ニーナは自分の体を見下ろした。カリンの言う通り、魔女にもらったワンピースはニーナの華奢な体格に釣り合っていない。

「ここではね、過去のことは聞かない約束なんだ。ここではニーナは、ただのニーナ。アタシたちとおんなじ、この店の住み込み従業員。お給金をもらうために働く同僚だよ」

 カリンが洗濯機の蓋を開けて、洗濯物を鉄のトングでつまみ上げてみせた。

「ほら、綺麗になった!」


 カリンのお墨つきが貰えるまで、ニーナはハンドルを回し続けた。びしょ濡れの洗濯物を脱水して、庭に吊るす。汚れのしつこいものは、庭と共有ルームを繋いでいる石造りの洗濯場で手洗いをした。干したシーツの波が潮風に煽られて、真っ白な帆のようにはためいている。石鹸の香りが潮の匂いと混じり合い、ニーナの鼻腔をくすぐった。

「楽しい?」

 出し抜けに問いかけられて、ニーナはカリンを見上げる。

「笑わない子だなーと思ってたけど、アンタ、楽しいときにはそういう顔をするんだね」

「私はどんな顔をしているのですか」

 空になった洗濯籠を担ぎ上げて、カリンが頬に手を当てた。

「何て言うんだろ。赤ちゃんみたいな顔!」


***


 十六夜がこの宿屋を取り仕切る女将の息子であることは、初日のうちに伝え聞いていた。しかし女将と十六夜の容姿は似ても似つかない。カラスのように真っ黒な色彩を持つ十六夜に対して、女将の豊かな髪は薄茶色をしていて、瞳も同じ色だった。

「ああ、あの子は父親似だからね。旦那は東の国の出身なのさ。今はちょうど長らく留守にしているけれど、帰ってきたら紹介するよ。あの人にも、可愛い娘が増えたことを教えてやらなけりゃねえ」

 女将はうたうように言いながら、ニーナの体に合わせて仕立てたドレスを着付けていく。白い生地に細やかなレースをあしらった繊細なデザインで、襟には控えめだが精緻な、薄紅の花の刺繍が施されている。

「この花は何という花なのですか?」

「これはサクラという花だよ。旦那の故郷では春になるとあちこちに咲き乱れるらしい。散り際はさながら雪が舞うようで、大層美しいんだってさ。あまりにも遠すぎるもんだから、あたしは行ったことがないんだけど、十六夜は子供の時分に父親にくっついて行ったことがあってね。それ以来すっかり向こうにかぶれちゃって、あんななりをしてるってわけ」

 女将がドレスの上から白いエプロンをかける。

「あたしの見立て通りだ。やっぱりあんたにゃ白が似合うよ、ニーナ」

 ふくよかな体を揺らしながら、女将はニーナを姿見の前に立たせた。ミルク色の肌に白いドレスがよく馴染んでいる。薄紅の小さな花が、楚々として首もとに咲き誇っていた。

「さァて、今日も一日きりきり働いておくれ!」


 海猫のスプーン亭にやってきてからというもの、ニーナの暮らしは一変した。朝は日の出とともに起き出して、朝食を済ませる。宿泊客の部屋からシーツを剥ぎ取り、洗濯機を回す。時には洗濯場で手洗いもする。庭が洗濯物でいっぱいになると、通りを挟んだ向かいのパン屋との間に渡されたロープに吊るして干す。空いた時間に食事を摂る。宿泊客の部屋の掃除をして、シーツを取り替える。夕食時には給仕の手伝い。

 仕事どころか家事さえしたことがなかったニーナにとっては、毎日が戸惑いと新鮮な驚きの連続だった。豪放磊落な女将は勿論のこと、気さくなパコや面倒見のいいカリン、客室係や料理番たち、果ては酒場の常連客たちからも、ニーナは可愛がられた。ただ一人、十六夜を除いては。


「ああ、坊ちゃんな。あの人は人見知りするたちなだけだから気にすんなよ、嬢ちゃん」

 料理長のハッサンはニーナの前に賄いの皿を置いた。握り飯と野菜くずのスープ、チーズの糠漬け。どれも山で暮らしていた時には口にしたことのない料理であったが、常連客によると、そもそも海猫のスプーン亭のメニューには、よそでは食べられない風変わりな料理が揃っているらしかった。

「中の具は嬢ちゃんの大好きなサケの塩焼きだぜ!」

「サケ……」

 カリンの言うところの、赤ん坊のような顔をしたのだろうか。ハッサンは満足そうに白い歯を見せた。赤褐色の髪の毛をターバンに仕舞い込んでいるため、額のたんこぶがよく目立つ。従業員が賄いにありつくための調理場奥の休憩スペースは鴨居が低い。ハッサンは褐色の大きな体を丸めてなんとか出入りをしているが、しばしば鴨居に額を打ちつける。赤銅色の鋭い眼をした強面であるが、当人は至って気風の良い性格だった。

「ごめんね、ニーナちゃん。十六夜はあれで変に繊細なところがあるんだ。だからこそ小説家なんていう高尚な商売もやってられるんだろうけどね」

 エプロンと腕章を外したパコが、調理場から顔を覗かせた。手の中のトレイにはニーナと同じメニューが乗せられている。握り飯の具に関しては、パコはサケより炙りベーコンがお気に入りであるらしい。

「小説家? 小説家とは何ですか?」

「物語を書く人のことだよ。あいつは新聞の隅っこに物語を載せて、お金をもらってるんだ。宿の仕事の片手間にね。あいつ、帳簿を管理したりお客さん対応したりして結構忙しいのによくやるよ。ニーナちゃんは本……は、読んだことないよね」

「ええ。私は文字が読めませんから」

「うーん。君があいつの小説を読んでくれたら、あいつはきっと小躍りして歓喜の歌を歌うだろうになあ」

 そう言ってパコは握り飯をひと口頬張った。ニーナは仏頂面の十六夜が踊り狂いながら歌い出すところを想像する。何とも滑稽な光景であった。

「それは愉快な余興ですね。今度、十六夜にやってみせるよう言いましょう」

 パコとハッサンは顔を見合わせて噴き出した。

「そいつぁ傑作だ、俺たちも見物させてもらうぜ!」

「ははっ、でも皆の前でそんなことさせられたらあいつセップクしかねないから、ほどほどにしてやってね」

 ひとしきり笑い転げたパコが、ふと思いついたように言った。

「そういえばニーナちゃん、何か困ったことはない? 君にいいところを見せたくて待ってるんだけど、全然頼りにしてくれないんだもん」

 ニーナは顎に手を当てて考える。

「……特に何もありません。カリンが世話を焼いてくれますから」

 カリンの名を聞いて、ハッサンがカッと頬を赤らめる。

「お、おう。そうだろう、そうだろう。あの娘は気立てが良くて働き者だからな!」

 鼻息荒く言い募るハッサンのようすを不思議に思っていると、パコが耳打ちしてきた。

「料理長はね、カリンちゃんにぞっこんなんだ。でも図体はこんなだけど案外奥手でさ、なかなか好きだと言えないらしい。全く焦ったいったらないよ」

「おい、誰が何だって?」

「ニーナちゃんが野に咲く花のように可憐だって話をしてました」

「調子のいいことをぬかしやがって、こいつ!」

「痛い! 暴力反対!」

 ハッサンがパコを羽交い締めにする傍らで、ニーナは小首を傾げた。

「好きだと、言えない……?」

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