39.そのとき
「パコが、いない?」
「うん。荷物や上着もなくなってるって、姉さんが」
シナモンにそう告げられて、ニーナの胸が騒いだ。きっと一人で出て行ってしまったに違いない。
「どこ行っちゃったんだろう。高潮が来てるっていうのに」
「探してきます」
「えっ、探すって……ニーナさん!?」
宿舎の外はひどい風雨だった。強い風が外套のフードを捲り上げて、ニーナの白い髪を掻き乱していく。打ち捨てられた新聞が、風に巻き上げられて宙に舞っていた。
「パコ、どこに行ったのですか」
この嵐では列車も船も動いてはいないだろう。それほど遠くへは行っていないはずだ。ニーナは人気のない町を探し回ったが、パコの姿はどこにもなかった。
もしもカリンと同じように、二度とパコと会えなくなってしまったら。そんなのはまっぴらだ。ニーナだけではない。十六夜にしても、このままパコと繋がりが断たれることを望むはずがない。
ニーナが港を歩き回っていると、数人の船乗りを引き連れた右京が走ってきた。
「ニーナ、何故ここにいる。ここは危険だ。離れなさい」
「何かあったのですか?」
「クラーケンが水門を壊そうとしているらしい。宿の皆にも避難するよう呼びかけている。お前も女将たちと共に庁舎へ向かえ」
矢継ぎ早に言い残して、右京は船着場に走って行った。
クラーケン。その名には聞き覚えがある。右京の船、麗しのシャルロッテ号の船尾に張りついていたという大きなタコのことだ。船乗りたちの慌てぶりから察するに、ただごとでないのは間違いなさそうだ。事と次第によってはパコの捜索すらままならなくなるかもしれない。ニーナは右京の言いつけを聞かずに水門の方へと足を向けた。
河口は物々しい雰囲気に包まれていた。水門の上に登った船乗りたちが、櫂や竿を手にクラーケンと対峙している。大きな音が断続的に響いて、巨大な生物が暴れ回っていることが容易に想像できた。
「離れろってんだ、この化け物めが!」
「大砲で吹っ飛ばしちまうか?」
「この雨じゃ無理だ。それに水門まで壊れちまったら一巻の終わりだぞ」
港に怒号が飛び交っている。ニーナは水門に砂袋を運んでいく最中の男たちのもとに駆け寄った。
「ニーナちゃんじゃねえか、何だってこんなところに!」
「いったい何が起こっているのです」
「水門がぶっ壊されたら、高潮が一気に町に流れ込んできちまう。そうならねえよう、何とか踏ん張ってるところよ」
海猫のスプーン亭の常連客である船乗りたちが口々に説明する。曰く、高潮対策のために封鎖した水門に、クラーケンが猛攻を仕掛けているらしい。このまま水門が破壊されれば、町は甚大な水害に見舞われることになる。
「ここにいたら真っ先に流されちまう。あんたは一刻も早く避難しな」
「それはあなたたちも同じではないのですか」
「俺たちゃ何があろうと、最後までここを死守してやるさ。海に生きる男の意地ってもんだ」
いつもはへべれけになるまで飲んだくれて女将に摘み出されている男たちが、腹を括ったような顔つきで水門を睨んでいる。
山で育ってきたニーナが海の脅威を目の当たりにしたのは、これが初めてだった。この町は群れからはぐれたニーナにとっての拠り所だ。大切な居場所が脅かされようとしているというのならば、見過ごすことはできない。
「さあ、ここは俺たちに任せて……って、おい、ニーナちゃん!」
船乗りの制止の声を振り切って、ニーナは水門に向かった。石段を上り、梯子を伝って、別の男たちが奮闘している場所までたどり着く。
「なっ、嬢ちゃん、いったいぜんたい何やってんだ!」
「私が追い払います」
「はあ!?」
ニーナは眼下を覗き込んだ。次から次へと押し寄せる波が、防波堤に水の壁を築いている。ひどく荒れ狂う海面から、巨木のような脚が何本も伸びているのが見えた。海面を割くように大きくて丸い頭が現れる。港でよく見かけたタコとは比較にならないほどの巨体が、もがくようにのたうち回っていた。
「これが、クラーケン」
クラーケンが水門に体当たりをすると、あまりの衝撃に一同は体勢を崩した。いかに水門が頑丈でも、これでは突破されるのも時間の問題だろう。ふとニーナは、クラーケンの丸い頭に何かが覆い被さっているのが見えた。どうやら漁網が引っかかって取れなくなっているらしい。ひょっとすると、これを外したくて暴れているのではないのか。
何度か衝突を繰り返した後、クラーケンは水門にぴったりと張りついた。これを好機と見なしたニーナは、風に弄ばれていた縄梯子を掴んで、一気にクラーケンに肉薄した。頭上から船乗りたちの仰天する声が聞こえてくる。
ニーナがクラーケンの頭に飛び移ると、軟体動物特有の弾力に富んだ触感が押し返してくる。ぬめる肌の上でバランスを取りながら、慎重に漁網を剥がしていく。ニーナの存在に気がついたクラーケンは、驚いたように体を収縮させた。弾き飛ばされそうになったニーナは、咄嗟に狼に姿を変えて網に噛みついた。ニーナが海に落ちていくのと同時に、一気に漁網がクラーケンの頭から取り払われる。
障害物がなくなって、クラーケンは水門から身を剥がした。しばらくニーナと共に荒波を揺蕩ったのちに、我に返ったように海の底へと消えていった。高潮の到来によってパニックに陥ったのは、何も人間だけではなかったらしい。
ともかくこれで水門を壊される心配はなくなった。しかし別の問題が浮上する。もしかすると、人にこの姿を見られてしまったかもしれない。
「ニーナちゃん、ニーナちゃん!」
ふと聞き慣れた声がして、ニーナは海面から顔を出す。見ると、堤防の上から垂らされた縄梯子にパコが掴まっていた。水面ぎりぎりまで降りたパコは「掴まって」とコルクの救命ブイを投げつけてくる。波に揉みくちゃにされながらも、ニーナはどうにかブイにしがみついた。
「もう、君ってば無茶苦茶なことするんだから。とてもじゃないけど目が離せないよ」
ロープを手繰り寄せながら、パコは緊迫した表情をわずかに緩める。
「黙って行こうと思ったのに。こんな騒ぎになってたら、ほっとけないじゃない、……かっ?」
突然、縄梯子の片側がガクンと下がった。パコの身体がどっぷりと海水に浸かる。
「ぷはっ、げほっ……な、んで」
一本の綱のようになって振れる縄梯子に、パコは必死でしがみつく。経年劣化で片側のフックが外れたのだろうか。それにしてもタイミングが悪すぎる。ニーナが堤防を見上げると、男たちが何やら揉み合っているのが目に入った。まさか、誰かが梯子を切ったのか。どちらにせよこれでは登ることができない。このままではニーナのみならずパコまで溺れてしまう。
「パコ、ニーナ、こっちだ!」
万事休すかと思われたとき、救命ボートが近づいてきた。乗っているのは右京と見知らぬ船乗りの二人きりだ。ボートは高波に抗いながら、時間をかけて距離を縮めてくる。さしもの右京もニーナが狼の姿をしていることには驚いたようだが、何も言わずに二人を引き上げた。同乗する船乗りも、同じく人命救助を優先した。
「うっ……」
ボートに引き上げられた途端、パコは肩を押さえて蹲った。傷口が開いたらしく、びしょ濡れになった衣服に血が滲んでいる。
「しっかりしろ。すぐに岸に戻る」
右京の励ましも耳に入っていないのか、パコは小さく身を縮めたまま「寒い」とうわごとのように繰り返した。もともと雪深い土地からやってきた白狼のニーナとは違い、パコには冬の海の冷たさがひどく堪えたらしい。岸に戻る前に人の姿に戻るべきなのはわかっているが、凍えているパコを放ってはおけない。ニーナはパコに覆い被さって毛皮で暖めてやろうとしたが、パコの震えは止まることはなかった。




