38.パコ
パコはひどく憔悴していて、まともに話が出来るようになるまで時間を要した。
「いつか君は……僕が爺やさんを吊し上げようとしているんじゃないかと疑ってたね。君の勘は、あながち間違っちゃいなかった」
ようやく起き上がれるようになったパコは、淡々と今までのことをニーナに語って聞かせた。
「僕は、あの張り紙に書かれているのが自分のことじゃないという確証がほしかったのさ。そうでもしなけりゃ、怖くておちおち眠れやしなかったから。爺やさんが身を隠している可能性だってあることを承知で、君に尋ね人の広告を出すよう勧めたんだ」
「あの張り紙は捏造でした。それに爺はとっくに尻尾を切られていた。あなたのしたこととは関係なしに」
「結果だけ見ればね。僕が君を裏切っていたことに変わりはない」
雨足が強まるにつれて、窓を叩く音がどんどん激しくなっている。急かすように、責め立てるように。
「そうはならなかったのだから些末なことです。あなたが私にしてくれたことと、秤にかけるほどのことじゃない。そんなことより、もっと早く話してほしかった。あなた自身も人狼であると」
今にして思えば、カリンの手紙を見せたときのパコの反応は、ニーナの正体に対する驚きだけではなかったのだろう。手紙を読み終わるまでの短い時間のうちに、パコはさまざまな感情を押し殺したに違いない。
「ごめん。それを話したら、出自のことを言わなけりゃならなくなると思って」
「ここでは過去のことは聞かない約束だと、カリンが言っていました」
「そう、だったね」
パコは長い睫毛を伏せた。沈黙が部屋を満たすと、激しい風の音が押し入ってくる。ややあって、パコが不自然に明るい声を出した。
「ねえ、ニーナちゃん。二人でどこか遠くへ行かない?」
「遠く……?」
突拍子もない話に眉を寄せると、パコは熱に浮かされたような口調で言い募る。
「列車に乗ってさ。船で海を渡ってもいい。誰も人狼のことを知らない場所へ行って、二人で暮らさない? 僕たちの正体を知っても誰も怯えたり、嫌ったりしないところでさ」
「パコ」
「僕、結構本気で口説いてるんだよ。だって君のことが大好きだから。君と一緒なら何だって出来る気がするんだ。毎日面白おかしく暮らそうよ。ね?」
「十六夜を放って?」
「……何でそこで十六夜が出てくるかなあ。今は君と僕の話をしてるのに」
「あなたが十六夜から逃げようとしているから」
塗り固めたようなパコの笑顔が剥がれ落ちた。逃げ場を探してさまよう紫色の瞳を、ニーナはまっすぐに捉える。
「違、う。そんなんじゃない。そんなんじゃ」
「私たちが何も告げずに出て行ったら、十六夜は傷つく。それがあなたにわからないはずがない」
「だけどっ、そうしなけりゃ、苦しむのは……」
パコは痛みを堪えるかのように額を押さえた。
「僕だけじゃない。君だってこの先、十六夜に正体を知られるかもしれないんだよ。そうなったらどうするつもりなのさ」
「十六夜と話します。話して、考える」
「話、す? 無理だ、そんなの。できっこない」
「何故? それを決めるのはあなたではありません」
言われるまでもなく、それが容易ではないことくらいニーナにも察しがつく。それでも十六夜が何を思い何を選ぶかは、十六夜にしかわからないことだ。少なくともあの情に厚い十六夜が、自分たちが黙って離れていくことを良しとするはずがない。
「……君って、強いね。君だってカリンちゃんに怯えられて、傷ついたはずなのに。泣きたくなること、ないのかな」
根負けしたようにパコが肩をすくめる。おどけたように笑う顔には、どこか諦観の色が滲んで見えた。
「僕は、もしも十六夜に拒絶されたら……立ち直れないかも。なーんてね」
***
「御頭、嵐が過ぎたら航海に出ちゃうんですか?」
共用ルームの窓から外を伺っている右京に、アップルは声をかけた。窓の外では相変わらず雨が降りしきっている。
「いや。しばらくは逗留する」
普段長期に渡って航海に出ている右京は、休暇もまた人より長い。フロックコートを脱いでゆったりと着物を羽織る姿は、十六夜との血の繋がりを感じさせた。
「よかったぁ。本当に助かります。御頭が手伝ってくれなけりゃ今頃どうなってたことか」
アップルは胸を撫で下ろす。今の海猫のスプーン亭は深刻な人手不足に陥っていた。怪我をしているパコはしばらく厨房に立てず、看病する者も必要だ。その上十六夜まで駆り出されてしまって、宿はすっかりてんてこ舞いになっていた。右京が助っ人として厨房に入っているお陰で、なんとか回っている状態である。この上右京にまで抜けられては商売上がったりだ。麗しのシャルロッテ号の船長である右京が注文の品を持っていくと、客が貴重な体験に喜んでくれるので、そういった意味でもまだ手を貸していてほしい。
「アップル。しばらくの間、宿を閉めることにしたからね」
すると難しい顔をした女将が戸口から声をかけてきた。
「えっ? また工事……じゃあ、ないですよね」
「水道はもう直ってるさ。ま、ご覧の通り人手が足りないからねえ」
女将が肩をすくめた。確かに右京の手を借りるにしても限界がある。パコが復帰するまで臨時で人を雇い入れることはできても、経営の根幹に関わる十六夜についてはそうはいかないだろう。
「坊ちゃんったら、何だってこんなときに他所に行っちゃったのかしら。いくらバターカップさんに泣き落とされたからって……」
アップルが眉間に皺を寄せると、女将は首を振った。
「そのことなんだがね。正直、あの子が仕事をほっぽりだして出ていくなんて考えられないんだよ。ましてやパコの大事に」
それに関してはアップルも同意見だった。十六夜は人一倍責任感の強い青年である。何より今はパコのそばを一秒たりとも離れたくないだろうに。
「まあ、あの子にも何か考えがあるんだろ。それに宿を休みにするのはそれだけじゃないのさ。明日にも高潮が来そうなんだ」
「高潮?」
「海面の水位が上昇しているのだ」
黙っていた右京が補足する。
「既に水門を閉じて海水の流入は防いでいるが、堤防が決壊したり水門が破損したりすれば、この辺り一帯が水没するやも知れん」
「えっ、一大事じゃないですか!」
「この町の治水設備は優秀だ。滅多なことにはなるまいが、常備不懈という言葉がある。何事もないのならば、それはそれで良い」
高潮を経験したことのないアップルにとって、その脅威は想像に難いものだった。しかしよく思い出してみれば、アップルとシナモンが生まれる前に母が川で流されかけたのは、高潮が原因だと聞いたような気がしないでもない。
「それじゃあ、私はどうしたらいいですか?」
「もし避難することになったら、パコのことを手伝ってやってほしいんだ」
「わかりました!」
翌朝、アップルはパコの部屋の扉をノックした。
「パコさん、起きてますか?」
返事はない。眠っているのだろうか。そっとドアを開けると、中はもぬけの殻であった。ベッドシーツはぴしりと整えられていて、人が抜け出した痕跡がまるで残っていない。看病の際に見かけた外套や鞄も無くなっている。開け放たれたままの窓から、風雨が好き放題に吹き込んでいた。
「パコ、さん……?」
***
「坊ちゃん、食事を持ってきたよ」
「誠に面目ない。ありがとう、カリン殿」
無一文で飛び出してきてしまった十六夜を、ローズたちは厚意で客室に泊めてくれた。せめてもと思って雑用を買って出たが、古傷が痛んでろくすっぽ役に立たないのだった。カリンの運んできてくれたジャガイモと野菜スープにありつきながら、十六夜は申し訳なさを募らせた。
魔女の薬を使った痕跡を見て、今頃パコは十六夜が真実を知ったことに気づいているはずだ。どうにも嫌な予感がしてならない。
「一刻も早くパコと話をしなくては」
「でも、どうやって? アンタは狼を見ると言葉が話せなくなるんだよ」
「それは……」
カリンの言うことはもっともだ。十六夜の意思を無視して狼恐怖症の発作は起こる。魂まで踏み躙られたあの恐怖と屈辱が、心の奥底から現れて心臓を鷲掴みにしてくるのだ。
「何としても……何とかする。パコは俺の一番の友だ。恐れることなどない」
きっぱりと言い切ったつもりが、やけに思い詰めたような響きを帯びた。手立てなどない。しかし手をこまねいているうちに取り返しがつかなくなってしまったら、悔やんでも悔やみきれない。強く握りしめた掌に爪が食い込んでいく。
「坊ちゃん。アンタ、ニーナに惚れてるって本当?」
「なっ、なにを藪から棒に……」
あまりにも脈絡のないカリンの問いかけに、十六夜は一気に茹で上がる。考えてみれば、十六夜はニーナへの想いを隠していなかった。バターカップがカリンにそれを話していたとしても何らおかしくはない。
「あ、ああ。その通りだ。俺はニーナ殿を憎からず思っている」
「ニーナはそのことを知ってるの?」
「ああ。ニーナ殿は俺のことを何とも思っていないようだがな。俺はそれでも構わない。彼女のそばにいられるのならば」
カリンの目を見て伝えると、彼女は青い瞳を険しくした。神経質な風が窓の外で吹き荒れる。
「……もし、ニーナが狼だったとしても、同じことが言える?」
「ニーナ殿が、狼だったら?」
無論そんなことは考えたこともない。しかしカリンの眼差しがあまりにも真剣そのもので、無性に胸がざわつく。十六夜は少し考えてから口を開いた。
「ニーナ殿はニーナ殿だ」
パコが狼であるとわかっても、この友情は揺るがない。それが答えだ。
するとカリンは胸に両手を当てて「ニーナ。アタシにこの人を信じさせて」と呟いた。
「カリン殿、済まない。今、何と?」
「坊ちゃん。アタシの言うこと、落ち着いて聞いてほしい。あのね──」




