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37.友達③

「医者を呼んでくれ!」

 寡黙な右京がこれほどに取り乱すところは、未だかつて誰も見たことがなかったのではないだろうか。あまりのことに、満月の夜には一歩も部屋から出ないパコですら、何事かと飛び出したほどだ。

 右京に背負われた十六夜は満身創痍だった。頭に巻きつけられた布切れは赤黒く染まっており、怪我の深刻さを物語っていた。尻尾を隠すために毛布を纏って、パコは十六夜の運び込まれた部屋に駆けつけた。


「いざ、よい……?」

 手当てを受ける十六夜の顔色は蒼白で、否が応でも最悪の事態を想起させた。かすかに上下する胸だけが、命の灯火が消えていないことを知らせていた。

「なんで……どうしてだよ。早く帰ってくるんじゃなかったのかよ」

 女将やハッサンが慌ただしく水や清潔な布を運び入れる中、パコは立ち尽くすことしかできなかった。そのうち十六夜の瞼が痙攣するように震え、腫れ上がっていない左目だけがうっすらと開いた。

「十六夜、僕だよ。わかるか?」

「彼女、は……無事、か」

「彼女?」

 パコはベッドの向かい側にいる右京を見やった。彼は厳つい顔に思案の色を浮かべて、静かに首を振った。

「……お前の他には誰もいなかった」

 しかし十六夜は反応を示さず、か細い呼吸をしながら宙を見つめるばかりだった。

「聞こえなかった? あんただけだったって」

 パコが繰り返すと、十六夜は「よかった」と呟いて再び意識を失った。

「なにが……いいもんか」

 もし十六夜に何かあったら。悪い想像に唇を震わせるパコの肩を、女将の逞しい腕が抱き寄せた。

「大丈夫さ。この子はそんなに弱くない。そうだろう?」

「ああ」

 十六夜の手に手を重ねる右京が、深く頷いて同意を示した。自分たちの方がよほど辛いに違いないのに、二人はパコの不安を少しでも和らげようとしてくれる。そのことがかえって苦しかった。


 ふらふらと自室に閉じこもったパコは、毛布をかなぐり捨ててナイフを手に取った。

 許さない。一度ならず二度までも、狼は大切なものを踏み躙った。


「ぶち殺してやる」


***


 満月が爛々と輝く夜だった。パコの爪と牙は鋭利に研ぎ澄まされ、耳は尖り、銀の尻尾は憤怒に逆立っていた。

「出てきやがれ、薄汚い犬畜生がァ!」

 路上の木箱を蹴り飛ばして吠える。親友を傷つけられた怒りに我を忘れていたのか、満月に狂わされて獣の本能に支配されていたのか、今となっては定かではない。このときのパコは、人狼への憎しみ以外の何も見えなくなっていた。あてどなく彷徨っていると、銀色の狼が悠然と歩いているのが目に入った。その手に十六夜のスカーフが戦利品のごとく握りしめられているのを見て、目の前が真っ赤になった。

 ナイフを両手で握りしめて、パコは人狼に飛びかかった。しかし渾身の刃はたやすく躱され、反対に腕を浅く切り裂かれる。血の匂いに酔った人狼は、息を荒げて喉を鳴らした。

「この、くたばれ変態野郎!」

 激昂してナイフを振りかぶるも、人狼が覆い被さってくる方が早かった。身を捩って逃れようとしたパコの背筋に、言いようのない不快感が走りぬけた。尻尾を掴み上げられていたのだ。

「い、痛い……放せよ……っ」

 まるで心臓を握られているような恐怖に駆られて動けなくなったパコを、人狼はあっさりと解放した。すっかり興味を失ったようすでパコに背を向ける。

「は……なん、で」

 人狼がパコの尻尾に気がついて手を止めたのは明らかだった。同類と見なされた。理解するや否や、パコの中に屈辱と嫌悪が荒れ狂った。

「一緒にするなよ、化け物が!」

 無防備な人狼の尻尾を掴んで、力いっぱいナイフを振るった。銀色の尻尾が根もとから切り落とされ、人狼は声もなく石畳に膝をついた。パコがナイフを取り落としてへたり込む間に、人狼の姿は獣から人へと戻っていった。

 身じろぎ一つしない人狼のようすを訝って正面に回り込むと、男は全ての感情が抜け落ちたような虚ろな顔をしていた。無機質な瞳がパコを捉えて、たちまち悪寒が止まらなくなった。「ひっ……」自分のしでかしたことが恐ろしくなって、うまく呼吸ができなくなる。怒りの炎が消え失せると共に、パコの姿も人間のものに戻っていた。一刻も早く逃げ出したい。そんな思いとは裏腹に、身体はまったく言うことを聞かなかった。


 気がつくと、パコは逞しい腕に抱きしめられていた。

「パコ、大丈夫だ」

 いったいいつからそうしていたのだろう。ハッサンは茫然自失としたパコに、辛抱強く声をかけていた。

「料理、長……」

「もう大丈夫だ。何も心配するこたぁない。俺たちが何とかしてやる」

 ハッサンの熱い掌が背中を撫でると、強張っていたパコの体から力が抜けた。


***


 それからのことをパコは詳しく知らない。翌日になっても、パコが人狼の尻尾を切ったことは騒ぎになっておらず、まるで悪い夢でも見ていたかのような心持になった。

 十六夜が目を覚ましたのは、それからさらに一週間後のことだった。十六夜の負った傷は深く、元通りの生活に戻ることは絶望的であると医師によって告げられた。

「十六夜、起きてるか?」

 扉越しに声をかけても返事はなかった。音を立てないように部屋に踏み入ると、十六夜はベッドに横たわったまま窓の外を眺めていた。

「十六夜?」

 そこでようやく十六夜はパコに気がついたようだった。右目の腫れが少しだけ引いて、白濁した瞳が覗いていた。十六夜の右目がほとんど視力を失っていることは医師から聞いていたが、パコはあえて口にしなかった。

「窓の外に何かあったか?」

「ああ」

 港の方から蒸気船の汽笛が響いていた。一人前の船乗りになって右京の船に乗るという十六夜の夢は、もはや叶うことはない。心ここに在らずといったようすの十六夜に、パコはかける言葉を見つけられなかった。

「何かほしいものはあるか? あんた好みのメルヘンチックな本を借りてきてやったから、暇つぶしに読むといいよ。ここに置いとくからさ」

「のどが、かわいた」

「よしきた」

 パコは十六夜の上体を支えて起こしてやる。備え付けのティーポットから淹れたお茶を、十六夜は背中を丸めて少しずつ飲んだ。

「すま、ない」

「気にするなっての。僕って友達甲斐があるだろ?」

 ウィンクしてみせると、十六夜は痛々しく傷の残る頬を緩めた。

「あり、がとう」

「ベッド、窓の近くに動かしてやろうか」

「いい。……少し、休む」

「そっか。ゆっくり養生しなよ」

 十六夜を寝かせて部屋を後にすると、中から押し殺したような嗚咽が聞こえてきて、パコは無力感を噛み締めた。右手には人狼の尻尾を刈った感触が生々しく残る。小刻みに震える手を押さえて、扉にもたれて宙を仰いだ。


***


 「狩り」が起こったのは次の満月の夜だった。それはパコも十六夜も預かり知らないところで、大人たちの手によって決行された。鬱憤を溜め込んでいた人狼の屋敷の使用人たちに根回しし、眠り薬を飲ませ、尻尾を刈り取って回ったのだ。

 全てが終わった夜半過ぎ、指揮をとったドロンゴはかつての盟友である議長にそのことを打ち明けた。


「やってくれましたね」

「ああ。議会の腰抜けどもの代わりにね」

 ドロンゴが棘のある口調で言うと、議長は無言で書類を机に並べた。そこに記されていたのは思いがけない内容で、ドロンゴは目をみはった。

「これはいったい……どういうことかね?」

 艶やかだった議長の髪には、白髪が混じりはじめて久しかった。それは彼なりにこの町を守るために奔走した証であったのかもしれない。

「ドロンゴ殿。あなたは全ての責任を負うためにここに来たのでしょうが、議会があなた方を糾弾することはない。本来は我々為政者が引き受けるべき汚れ役を、押し付けてしまったのですから」

「しかし、それは」

「なあ、後の始末は私たちの手に委ねてくれないか。あんたたちは今宵のことを忘れて、人狼のいない平和な暮らしを謳歌してくれればいい」

 かつて朋友であった頃のような砕けた物言いに、ドロンゴは反論の言葉を見失った。議長の表情は終始穏やかだった。

「議長。忠告しておくが、皮算用なんぞ評価に値しない」

「わかってるとも。いつでも臭い物に蓋をできると伝えたかっただけさ」

 ランプの明かりを反射する金色のピンバッジが、男の代わりに強い決意を示しているように思われた。


***


 全ての方がついた後も、カリンの表情は晴れなかった。日がな一日ぼんやりと海を眺めていた彼女に、ハッサンはサンドイッチを差し入れた。

「腹が減ってると、ろくなことを考えないぜ」

 カリンは痣だらけの顔をハッサンに向けた。それが痛々しく哀れで、ハッサンは胸が締め付けられる思いがした。

「ありがと」

「具はトマトとハムとチーズだ。パンは俺が焼いたんだ」

「美味しいよ」

 一口齧って、カリンはまた海を見た。海の向こうに難しいことの答えを探すような眼差しで。

「アタシ、狼を憎んでた。狼がこの町からいなくなったら、どんなにかせいせいするだろうと思ってたよ」

「せいせいしただろう。俺は自分のやったことを間違いだったとは思わねえぜ」

「うん。これで町は平和になったんだ。もう痛い思いも怖い思いもしなくて済む。喜ばなけりゃならないってわかってる。でもさ、アタシは、アタシに嫌なことをしたご主人以外の狼にも薬を飲ませた。奥様とか、お嬢さまとか……あんなに薬を嫌がってたのに」

 ハッサンにはカリンの言うことがよく理解できなかった。カリンは卑劣な狼にすら同情できる優しい心を持っているのだろう。そう思うと、なおさら放っておけない気持ちになるのだった。

「……なあ。あんた、行くところがないんじゃないのか。良ければうちの宿に来ないか?」

 暗い顔をしているカリンを笑わせてやりたい。旨いものをたらふく食わせて元気にしてやりたい。きっと彼女には笑顔が似合うはずだと、ハッサンは確信していた。

「皆、気のいい奴らだよ。あんたを苛める奴はもうどこにもいない。なあ、どうだい」

 カリンはサンドイッチとハッサンを見比べて、やっと少しだけ微笑んだ。

「こんなに美味しいものを食べさせてもらえんのなら、それもいいかもね」


 そうしてさまざまな思いが錯綜した満月の夜のことは、そっと紗幕の陰に隠された。

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