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36.友達②

「なあ、パコよ。坊ちゃんと喧嘩でもしたのか?」

 ハッサンに尋ねられて、パコは皿を洗う手を止めた。

「坊ちゃん、何か言ってましたか」

「いんや、何も。だがお前のことを気にしてたよ」

 この頃の十六夜は船乗り見習いをしていた。朝早くから港に出かけていって、帰ってくるのは日没後。調理場に入り浸っているパコとはすれ違ってばかりだった。

 十六夜は悪くない。悪いのは自分だ。わかっていても素直に謝れないのは、あの夜湧き起こった醜い感情と向き合うのが怖かったからだ。俯いているパコの頭を、ハッサンの大きな手が撫でた。

「俺は砂の国の出身なんだがな。俺の国では仲直りをしたいときにゃあ菓子を贈るんだ」

「菓子?」

「ああ。誰だって甘い菓子を食えば機嫌が良くなるだろ? ちょうどイチジクのサラミを仕込んでたところだ、ちょいと分けてやるよ」

 言うが早いか、ハッサンは厨房の奥の樽から細長い包みを取り出した。

「料理長、待ってください。そんなの悪いですよ。喧嘩なんかじゃないんです。僕が一方的につらく当たってしまっただけなんです」

「お前さんはわけもなく人を傷つける奴じゃねえだろう。坊ちゃんだってわかってるさ。そら、持ってけ」

 半ば強引に包みを押しつけられて、パコは噛み締めるように礼を言った。


 イチジクのサラミを手にしたパコが宿舎に戻ると、十六夜が部屋の前でうろついていた。

「パコ殿。先日は済まなかった。俺は無神経なことを言ってしまった」

 先手を打たれてパコは思わず面食らう。

「よしてください。謝らなけりゃならないのは僕の方です。恩人である坊ちゃんに対して、失礼な態度をとってしまって……」

「それとこれとは話が別だ。引け目を感じて言いたいことを言えないというのならば、そんなことは綺麗さっぱり忘れてしまってくれ」

 そう言って十六夜が掲げたバスケットからは、少し焦げた焼き菓子が頭を覗かせていた。

「その……どうだろうか。よかったら俺の部屋で話さないか」


 主人の息子の私室であるにもかかわらず、十六夜の部屋はパコの部屋とさほど変わらない広さだった。本棚にしまいきれない書物が床に積み上がっており、机の上には航海術に関する書籍や海図が広げられていた。壁には掛け軸が飾られていたが、パコには読むことができなかった。

「それは東の国の言葉で、生涯一度の出会いを大切にすべしという意味らしい」

「東の国?」

「海を隔てたところにある父上の祖国だ。幼い頃に一度だけ連れて行ってもらったことがある。美しい国だった」

 十六夜は茶を淹れながら、第二の故郷を懐かしんだ。

「桜という花が咲き乱れていて、花びらが雪のように降ってくるのだ。綿帽子を被った青い山に雲がかかっていた。書物によるとサムライやニンジャという戦士がいるらしい」

「へえ……」

 下町育ちのパコにとって、十六夜の語る異国の話はまるで御伽噺のようだった。行ってみたいと思ったが、元よりそんなことは出来やしない。

「父上は貿易船の船長として、東の国と行き来している。俺はまだ見習いだが、早く一人前の船乗りになって父上の船に同乗したいのだ」

「そう、ですか。立派ですね」

 曖昧な相槌が空々しく響いて、パコは頭を抱えたくなった。せっかくハッサンが取り持ってくれたというのに、こんな調子では余計にぎくしゃくしかねない。

「あ、変な意味じゃないんです。坊ちゃんなら立派な船乗りになれますよ」

「……パコ殿。もし良ければ十六夜と呼んでくれないだろうか。敬語も無用だ」

「え?」

 脈絡のない台詞に目を瞬かせていると、十六夜は妙に腹を括ったような顔で話を続けた。

「俺は先日の言葉を撤回したわけではない。今まで俺には同世代の友がいなかった。パコ殿がそうなってくれたら、嬉しいと思っている」

「僕、が……?」


 パコは泣きたいような気持ちになった。パコの正体が嫌われ者の人狼だと知ったら、きっと誰だって離れていく。十六夜とて例外ではないはずだ。

 それでも十六夜の提案は、孤独に耐えかねたパコに抗えるものではなかった。本当はずっとパコも同じ気持ちだったのだから。

「もう、わかったよ。そこまで言うなら仕方ないなあ。……よろしくね、十六夜」

 包みを開けてサラミを取り分けてやると、十六夜は嬉しそうに相好を崩した。


***


 それから十六夜とパコが親しくなるのに時間はかからなかった。パコはもともと人懐っこい性格であるし、十六夜は気難しそうに見えて、身内と認めた相手に対してはすこぶる甘かった。そうして一年が経つ頃には、二人は相棒と言って差し支えない仲になっていた。

「なあ十六夜、そろそろ新しい本が読みたいんだけど」

「ついこの前仕入れてきたばかりだろうが」

「だって全部読んじゃったんだもん。ほら、僕って勤勉だからさ」

 十六夜に読み書きを教わってから幾ばくも経たないうちに、パコは宿舎中の本を読み尽くしてしまっていた。好奇心旺盛な性質であるとはいえ、その物覚えの良さには十六夜も舌を巻いた。

「そうだ、あんたが小説を書いてよ。本の虫なんだから朝飯前だろ」

「簡単に言ってくれるな。それに俺にはそんな暇はないのだ」

 まだ日の昇らないうちから、調理場で朝食にありつきながらコーヒーを飲むのが二人の日課だった。この日は焼きベーコンとバターをたっぷりのせたパンケーキ、オイルサーディンの缶詰。仕事を本格的に任されることが増えたらしい十六夜は、父の船に乗る日も近いのではないかと意気込んでいた。

「そんなに仕事にばかり明け暮れてちゃ、いつまで経っても恋人の一人も出来ないだろうに」

「ふふん。海の男は硬派なのだ」

「ただの朴念仁だろ。あんたの口から惚れた腫れたと聞けるのは、いったいいつになることやら」

「かく言うお前は軟派者だな、助平め」

「女の子はちょっとくらい軟派な方がぐっとくるのさ」

 軽口を叩き合っていると、コーヒーを飲み干した十六夜がふと呟いた。

「今宵は満月だな」

 パコの心臓がどくんと跳ねた。

「え、ああ、そうだね」

 満月の夜になると尻尾が現れることは、まだ誰にも知られていなかった。せっかく得た居場所を守るためにも、なんとしても隠し通さなくては。

「俺も狼が徘徊する前には帰る。お前もくれぐれも気をつけろよ」

「わかってるとも。行ってらっしゃーい」


 しかし十六夜はその日、夜半を過ぎても戻って来なかった。


***


 十六夜が帰路についたのは日暮れ頃。足早に宿へと向かう最中、男女の言い争うような声が聞こえてきて足を止めた。店や民家はどこも早くから戸締まりをしており、他には人っ子一人見当たらなかった。

 こんな時間に喧嘩をしていては人狼の餌食になりかねない。十六夜が路地を覗き込むと、どうやら大柄な男が少女に強引に言い寄っているらしかった。このときの十六夜には知る由もなかったが、それが十七歳の頃のバターカップであった。

 バターカップが強気に男の手を払いのける。すると途端に男のようすが変貌した。中折れ帽が弾け飛び、銀色の耳が現れたのだ。瞬く間に全身が体毛に覆われていき、腰から生えた尻尾がこの上なく不機嫌そうに逆立った。

「狼……!」

 悲鳴を上げて動けなくなったバターカップに人狼がのしかかろうとした瞬間、十六夜は放置された角材を掴み上げて、人狼の後頭部めがけて振り抜いた。僅かに体勢を崩した人狼が十六夜を視認する。引き倒した麻袋から小麦粉がもうもうと立ち込め、その隙に十六夜はバターカップの手を引いて駆け出した。


 しゃにむに走って走って、追っ手の姿がないことを確かめてから二人は物陰に身を隠した。

「怪我はないか」

「え、ええ」

 辺りをうかがう十六夜の横顔を、バターカップはじっと見つめていた。

「今のうちに、早くどこかに匿ってもらうといい」

「ちょうどすぐそこが知り合いのお店だわ。あなたも一緒に……」

「俺も近くに知人の家がある」

「まあ……じゃあここでお別れねぇ」

 そう言ってバターカップは十六夜の頬にキスをした。生まれてこのかた触れたことのない柔らかな感触に、十六夜は思わず飛び上がりかけた。

「なっ、なな」

「助けてくれてありがとう。また会いましょう、騎士様」

 小走りで去っていくバターカップの後ろ姿を見守って、十六夜は気が抜けたようにため息をついた。

「ま、まったく、けしからん娘だ」

 人狼に見つかる前にここから移動しよう。そう思うや否や、目の前に砂埃が起こった。それが屋根から飛び降りてきた人狼であることを認識する前に、十六夜の体が強い力で引っ張られた。


「う、わっ」

 首根っこを掴まれ、十六夜は地面に引き倒された。興奮した人狼が鋭い牙の間から涎を垂れ流すさまは、本能的な怖気を掻き立てた。

「くそ、放せっ……ぐっ」

 毛むくじゃらの大きな手が十六夜の首を掴んだ。万力じみた力で絞め上げられて呼吸ができない。死に物狂いで手もとを探ると、転がった角材に指先が触れた。渾身の力を込めて人狼の脇腹を突いたが、まるで効いているようすがなかった。

 すると人狼は硬い木の実を割ろうとするかのように、十六夜の頭を壁に打ちつけた。頭の中で目玉がめちゃくちゃに跳ね回るような感覚に陥り、視界が激しく明滅した。

「おえっ、うっ……」

 迫り上がってきた吐瀉物が地面を汚す。抵抗すらままならない十六夜を、人狼は生殺しにした。顔を踏みつけ、腹を蹴って、松明で背中を炙った。加虐の限りを尽くすほど人狼の呼気が熱を帯びていくのが、何より恐ろしかった。

「た、すけ……だれ、か」

 自力では指一本動かせない十六夜の足首を掴んで、人狼はずるずると引きずっていった。いつの間にか辺りには夜の帳が下りて、満月が静かな町を照らしていた。


「父上……母上……すみ、ません」

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