35.友達①
パコが生まれ育ったキャロッツは、何らかの事情で社会から弾き出された女性たちが働く宿屋であった。近年こそ余裕が出てきたものの、パコの幼い頃は綱渡りの経営が続いていたらしい。歯が折れそうなほどカチカチの黒パンを、味気ないスープに浸して食べる日々。暮らしぶりは侘しかったが、陽気な母のローズと逞しい姉貴分に囲まれて、パコは一度たりとも不幸を感じたことがなかった。
父親は病気で死んだと聞かされていた。どんな人だったのかと尋ねたことはあったが、ローズが笑って誤魔化すばかりだったので、そのうちパコは父のことを詮索するのをすっかりやめてしまった。
初めて体に異変が現れたのは、パコが十三歳になったばかりの夜のこと。その日を境に、貧しくも穏やかな生活は終わりを告げることになる。
その日は朝から、腰に疼痛を覚えて仕事を休んでいた。姉たちは幾分デリカシーに欠けるジョークを飛ばしながらも、温かい紅茶や毛布を持ち寄ってくれた。いつも賑やかな母のローズですら、声を潜めてパコを気遣った。
「パコちゃん、あんまり治らないようならお医者さまに薬を貰ってくるからね」
「大袈裟だなあ、母さんは。そんなお金ないでしょ。寝てれば良くなるから心配しないで」
「あーん、なんてお利口なのかしら。世界一の色男だわ。ぎゅってしちゃう!」
「母さん、わかった、わかったから……お、重いってば」
それまでも同じようなことはよくあったが、この日はとりわけ酷かった。疲れが出ただけだと自分に言い聞かせて、パコは母がいつも口ずさんでいるおかしな歌を聴きながら目を閉じた。
しかし満月が空に昇る頃、違和感の正体は明らかになる。
「あ、れ……」
布団の中でパコが腰に手を伸ばすと、指先に毛むくじゃらの感触が伝わった。知らぬ間に野良猫でも入り込んだのかと思ったがそうではない。毛の感触は腰まで繋がっていて、明らかにパコ自身の体の一部だった。
「なんだ、これ」
無性に体が熱くて堪らなかった。火照った呼吸を繰り返していると、仕切りの向こうで眠っていたローズが目を覚ました。
「どうしたのパコちゃん。やっぱり体の具合が良くないのかしら?」
「母さん……これ、なに?」
「なーに? 母さんに見せてごらんなさいな」
ローズはオイルランプに火を入れて、明かりをパコに差し向けた。「ヒッ!」そのときのローズの恐怖に満ちた表情を、パコはきっと生涯忘れないだろう。ローズは我が子の姿を認めるや否や、腰を抜かしてへたり込んだのだ。這いずって逃げ惑う母親の尋常ではないようすに、パコは呆然と立ち尽くした。
「ひっ、ひっ……」
「母さん?」
ローズの症状は明らかに狼恐怖症のそれだった。パコが震える手でもう一度腰に触れると、絶望的なまでにはっきりと、まるで狼のような尻尾が生えていることを自覚した。
「まさ、か」
どうして自分に尻尾があるのか。どうしてその姿を見た母がこれほどに怯えているのか。その答えは一つしか考えられなかった。
「あ……ちが、ちが、ちがう。こ、これは」
弁明しようとするローズの声を振り切って、パコは部屋を飛び出した。
おぞましい想像がパコを深い絶望へと突き落とした。もしそうならば、ローズが父親のことを語りたがらなかったのも無理はない。
自分には人狼の血が流れている。そして自分は、母の誇りを穢してこの世に生まれてきたのだ。
***
夜が明ける頃には、尻尾はすっかり消えてなくなっていた。厩舎に隠れて一夜を過ごしたパコが宿舎に戻ると、ローズの姿はどこにも見当たらなかった。一縷の望みを抱いて帰りを待ったが、朝日が昇ってもローズが戻ってくることはなかった。パコは僅かな荷物を纏めて、生まれ育った宿舎を後にした。
行く宛などない。しかしキャロッツには戻れない。なけなしの金で買った黒パンを少しずつ齧りながら、パコは日雇いの仕事をこなして日銭を稼いだ。キャロッツ周辺の治安は決していいとは言いがたい。速やかに住処を探さなければならなかったが、そんな気力も沸いてこないのだった。
しばらく路地裏で寝泊まりする生活を続けていると、やけに身なりのいい男が声をかけてきた。パコの全身を下卑た視線で値踏みして、男は言った。
「金髪は好みだ。おまけしてやってもいいぞ」
似たような台詞をキャロッツで何度も耳にしてきた。キャロッツは女性ばかりの店であるために、しばしば勘違いをした客が訪れる。そういう輩が無体を働こうとすれば、入店時に交わした契約に基づいて身ぐるみ剥がしてやるのが常だった。
男について行けばどんな目に遭わされるかは火を見るより明らかであったが、そのときのパコは捨て鉢だった。あるいは自分も同じ苦痛を味わえば許されるのではないか。そんな馬鹿げた考えすら頭をよぎった。
「いくら?」
「弾むさ」
男が指を立てた。それが高いのか安いのかすらパコにはわからなかったが、しばらくのうちは食い繋ぐことができそうだと思った。
「僕、汚れてるけど」
「なに、たまにはそういうのも悪かない」
痺れを切らした男はせっかちにパコの手を引いた。その仕草がひどく乱暴で、麻痺していた恐怖心を呼び起こす。このままいけば今日明日を生き延びる代償に、この道でしか生きられなくなる。
「触るな!」
パコは男の手を振り払って、力いっぱい足を踏んづけた。
「痛ってえっ、このガキ、優しくしてやりゃつけ上がりやがって!」
男の罵声を背中に受けながら、パコは息を切らして走った。どうして逃げているのだろう。どうせどこまで逃げたって、人狼の血からは逃れられないというのに。
足がもつれて石畳に倒れ込むと、追いついてきた男に髪を鷲掴みにされた。「痛い、嫌だ!」通行人たちは二人の身なりの格差を見ると、一様に見て見ぬふりを決め込んだ。
真っ暗な路地裏に引きずり込まれかけたとき、ふいに男の手が離れていった。不思議に思って顔を上げると、バスクシャツ姿の少年が男の腕を掴んでいるのだった。
「失敬。乱暴はよくない」
「こいつが足を踏んづけてきたんだよ。これから礼儀ってもんを叩き込んでやるところだ」
「足を……? もしや怪我をされたのですか。どれ、私の使いかけでよければ、よく効く軟膏をお分けしよう。どちらの足ですか?」
少年は真面目くさった顔でしゃがみ込んだ。面倒そうな気配を察したらしい男は、「いや、大したことはない。騒いで悪かったな」と踵を返していった。ぼうっと一部始終を見ていたパコは、我に返って礼を言った。
「あり、がと」
「礼には及ばない。しかし、あまり喧嘩は感心しないな」
「あは……喧嘩じゃ、ないけどね」
その夜パコが出会ったのが、若かりし頃の十六夜であった。いささか鈍感な十六夜は、パコを地獄の入口から引き戻したことに未だ自覚がない。
***
パコが海猫のスプーン亭で働くようになったのは、その翌日からだった。幼い頃から掃除や皿洗いなどの雑用をこなしてきたパコは、すぐに重宝される存在になった。
海猫のスプーン亭は上等な宿だ。料理も酒も旨いと評判で、地元の漁師たちはもちろんのこと、船旅中の富裕層もしばしば利用する。住み込みの従業員にはそれぞれ個室が与えられ、きっちり三食の賄いが出た。安宿のキャロッツとはまさに雲泥の差だ。しかし心地よいはずの暮らしは、かえってパコの負い目を増長するばかりであった。母を苦しめた狼の分際で、幸せを享受する権利などあるはずがないのだから。
縋るような思いで森の魔女のもとを訪ねたりもしたが、突きつけられたのは無慈悲な現実だった。
「狼恐怖症を治す方法? そんなのないわよ。何しろ心の問題だから。症状だって人それぞれ。あたしに出来るのは、夢も見ないで深く眠れる薬を調合することくらいよ。まあ、町から狼が一人もいなくなりでもすれば、話は別だけどね」
奇しくもその日の夜は満月であった。パコは自室に篭り切り、鏡に映る自分の姿と対峙した。ほとんど人間と変わらないように見えても、腰から生える銀色の尻尾が、確かに人狼の血が流れていることを証明していた。
こんなものが現れなければ、自分をただの人間と信じて生きていけたのに。どうせ朝には消えてしまうのだから、切ってしまっても死にはしないのではないか。こんなものさえなければ。パコは尻尾を掴んで、震える手で付け根に銀のナイフを押し当てた。
「パコ殿、寝てしまわれたか?」
ノックの音と共に十六夜の声がして、心臓が凍りついたような心地になった。この日に限って、ドアのプレートをひっくり返し忘れていたのだ。
「っ、坊ちゃん。こんな時間にどうしたんです?」
咄嗟に平静を装うと、十六夜は控えめに話を続けた。
「どうにもようすがおかしいように見えたのでな。何か困りごとでもあるのだろうか」
「何もありませんよ。お気遣いなく」
突き放した口調は、かえって十六夜の心配を煽ってしまったらしい。
「何か力になれることがあれば言ってくれ。俺はパコ殿と年も近い。家族のように思ってくれて構わない」
「家族?」
途端に尻尾が逆立った。何不自由なく育ってきた十六夜にいったい何がわかるというのか。得体の知れない感情が爆発して、パコは手にしたままのナイフを力いっぱい扉に投げつけた。柄尻が当たってひどく大袈裟な音を立てると、十六夜が息を呑む気配が伝わってきた。
「誰があんたみたいなお坊ちゃんとっ……」
激情のままに声を荒げてしまってから、パコは後悔した。こんなのはただの八つ当たりだ。よりによって恩人を相手に。
「……すみませんでした。ごめんなさい」
十六夜からの返事はない。居た堪れなくなったパコがほんの少しだけ扉を開けると、すでに十六夜の姿はなかった。




