34.キャロッツ
森の魔女の工房に、一羽のカラスが舞い込んでくる。カラスは赤と青の玉が入っているガラス瓶の中に嘴を突っ込んで、赤い玉の方を魔女の掌に落としてみせた。
「そう、駄目だったのね。せっかくわざとヘボな薬を出してやったのに、正解に辿り着いちゃうなんて。センセイも運がいいんだか悪いんだか」
魔女は赤い玉を摘み上げてランタンの光に翳す。森の空気はじっとりと湿っていて、嵐の予感に満ちていた。
「生き延びなよ、狼ちゃん。早く約束のビスケットをちょうだいな」
***
篠突く雨音に十六夜が目を覚ますと、見知らぬ天井が目に入った。どうやら誰かのベッドに寝かされているようだ。脱がされたらしい羽織がヘッドボードに引っ掛けられており、シャツのボタンも幾つか外されていた。
「坊ちゃん。気がついた?」
聞き覚えのある声に振り返り、十六夜は目をみはった。
「カリン殿!」
そこにいたのはかつての宿の仲間のカリンだった。黒いドレスにチョーカーを合わせ、そばかすの浮いた丸顔に白粉をはたいている。特徴的だったポニーテールをダウンスタイルにしているのも手伝って、海猫のスプーン亭にいた頃とはがらりと雰囲気が変わって見えた。
「久しぶりだね、坊ちゃん。会えて嬉しいよ!」
「カリン殿も息災で何より。しかしここはどこだろうか。何も覚えがないのだが」
「ここはキャロッツの宿舎だよ」
キャロッツというと、女性ばかりの従業員で運営されている隣町の宿屋だ。十六夜が寝かされている部屋にはもう一つベッドがあり、ごく簡素な仕切りが立てられている。相部屋なのだろうが、海猫のスプーン亭の宿舎の一室よりもやや狭い。鏡台には香水やクリーム、練り紅やコームなどが所狭しと並べられていて、端にはひっそりと紙の月新聞が積んであった。窓際にシュミーズやドロワーズが吊るされているのが目に入り、十六夜は慌てて顔を背ける。
「坊ちゃん、アンタ丸一日眠ってたんだよ」
「丸一日!?」
十六夜は愕然とする。きっとここしばらくの疲労が祟ったのだろう。無断で宿を抜け出したあげく一日戻らなかったのだから、今頃騒ぎになっているに違いない。泡を食って立ち上がろうとする十六夜を、カリンが押し留めた。
「焦らなくても大丈夫だよ。海猫のスプーン亭の皆にはバターカップがうまいこと伝えてあるから。のっぴきならない事情があって男手が欲しかったから、アンタに頼み込んだことになってるんだ」
「バターカップ殿が?」
「うん、バターカップがアンタをここに連れてきたんだよ。ここはあの子とアタシの部屋。それにこの天気じゃ体がきついでしょ。今あったかいお茶を淹れたげるから、ちょっと待ってて」
カリンがティーポットを傾ける。彼女の言う通り、ひどい雨の日には古傷が痛んでまともに動けなくなることがある。恐る恐る膝を屈伸させると、軋みはするがまるっきり使いものにならないほどではなかった。
「ありがとう、カリン殿」
「なんのなんの、困ったときはお互いさまってね!」
カリンは紅い唇から歯を見せて笑った。随分印象が変わったように見えても、よく気がつくところも朗らかなところも、十六夜の知るカリンと何ら変わりがなかった。手渡された紅茶を一口啜ると、胸中に温かさが込み上げる。
「バターカップ殿にも感謝せねばならんな。それにしても彼女とカリン殿が同じ宿で働いていたとは、奇妙な偶然があるものだ」
「うーん。実は偶然でもないっていうか」
「うん? どういうことだ?」
十六夜が尋ねると、カリンは気まずそうに頬を掻いた。
「ずっと憧れてる人がいるってバターカップが言うからさ。どんな人か聞いてみたら、漆黒の髪と目を持った男の子だって言うじゃない。だから、そういう人が海猫のスプーン亭にいるよってアタシが教えたげたんだよね」
「何と、そうだったのか」
ふと後ろめたい心持が生まれたが、十六夜はすぐに否定した。気持ちに応えるつもりがないのだから、そんな感情は高慢に過ぎない。
「しかしカリン殿。いったいぜんたいどうして急にうちを出て行ってしまわれたのだ。ニーナ殿や料理長の落胆ぶりといったらなかったぞ」
かねてからの疑問を投げかけると、カリンの顔つきが変わる。
「その前に教えて、坊ちゃん。アンタも狼恐怖症なの?」
「俺、も? どういうことだ。もしや……君も」
カリンが神妙に頷いた。
「そっか。じゃあ坊ちゃんも知っちゃったんだね」
その一言で十六夜は察した。つまりはカリンも自分と同じように、パコの秘密を知ってしまったのだ。カリンが誰にもわけを話さずに姿を消した理由が、今ならよくわかる。
「君はこのことを誰かに話したか?」
「まさか! そんなことしたらあの子はただじゃ済まなくなる。あの子には今まで通り穏やかに暮らしてほしかったんだ。坊ちゃんもそうでしょ?」
「もちろんだとも」
十六夜が断言すると、カリンは安堵したように表情を緩めた。しかしこの先どうすればいいのだろうか。パコと顔を合わせれば発作を起こすことは目に見えているが、主人の倅としていつまでも宿を空けるわけにはいかない。それにニーナとパコに伝えそびれた志を、やすやすと諦めるつもりもない。
十六夜が頭を悩ませていると、ふいにドアをノックする音が響いた。
「十六夜君、目が覚めたぁ?」
部屋に入ってきたのはバターカップだった。後に続いて、見知らぬ年嵩の女性が顔を出す。金髪をシニヨンにまとめて、ラウンドガウンを纏った妖艶な雰囲気の女性だ。
「十六夜君、こちらはローズおねえさま。あなたの介抱に手を貸してくださったのよぉ」
バターカップの紹介を受けて、ローズと呼ばれた女性が陽気に手を上げる。
「ハーイ、坊や。ローズよ。体の調子はどう?」
「お陰様で仔細ないです。申し遅れました。私は海猫のスプーン亭の十六夜と申します。ローズ殿、バターカップ殿もカリン殿も、この度は世話になったようで感謝の言葉もありません」
かしこまって頭を下げる十六夜をローズが笑い飛ばす。
「あーら、そんなにかしこまらなくていいのよ、かわい子ちゃん!」
「か、かわい子ちゃん?」
「ほら言ったでしょう。十六夜君たらとってもお堅くってぇ、そこがチャーミングなんだからぁ」
ローズとバターカップは何やら意気投合している。助けを求めるようにカリンを見やると、カリンは同情するように苦笑した。
十六夜はローズの顔をまじまじと見つめる。彼女のアメシストのような透き通った瞳は、パコのそれとよく似ていた。
「なーに、チェリーボーイ。おねえさんに見惚れちゃったの?」
「チェリー……? いや失敬。私の友によく似ておいでだったのでつい」
正直に伝えると、途端にローズが表情を引き締める。
「それは……パコちゃんのことね?」
「えっ?」
十六夜が反応するより先に、何故かバターカップが声を上げる。思わず口を押さえる彼女に、ローズは眉を下げて微笑みかけた。
「わかってる。おおかた、あの子に口止めされていたんでしょ? 私には言わないようにって」
「おねえさま、知っていたの?」
「カリンちゃんにも同じことを言われたからねぇ。私によく似た男の子を知ってるって。あの子はね、母親似だから」
「え、え、どういうこと? 何の話?」
カリンが混乱してローズとバターカップを見比べている。しかし十六夜には話の筋が読めてきていた。
「ローズ殿は、パコの母御なのですか」
「ええ」
ローズが肯定を示した。傍らに立つバターカップから、何らかの期待を孕んだ視線が向けられている。先ほどのやり取りから鑑みるに、バターカップがローズと十六夜を引き合わせたのには思惑があるようだ。
パコの母親であるということは、彼女もまた人狼であるということになる。そこまで考えて、十六夜は急に息が苦しくなるのを感じた。駄目だ、堪えろ。そう自分に言い聞かせるも、身体は勝手に呼吸を荒げていく。異変を察した女性陣が、にわかに色めき立った。
「十六夜君……?」
「坊ちゃん!? しっかり!」
「バターちゃん、水差しを持ってきてちょうだいな」
言うが早いか、バターカップが部屋を飛び出していく。自らの肩を抱いて震えを抑え込もうとしている十六夜に、ローズが近づいて囁きかけた。
「大丈夫。落ち着いて。私は人間よ」
その言葉を聞いた途端、十六夜の体から力が抜けた。崩れ落ちかけたところをカリンに支えられる。
「わっ、坊ちゃん大丈夫?」
「あ、ああ。済まない、カリン殿」
十六夜は深呼吸を繰り返す。まだ少し手が震えていたが、自力で立つことが出来た。
「取り乱してしまい、誠に面目ない」
「あの子が打ち明けたの?」
ローズの口ぶりは、パコが人狼であることを否定するものではなかった。十六夜はわずかに芽生えた甘い希望を打ち消した。
「いいえ。私が勝手に暴き立てたのです」
「……そう」
外はいよいよ嵐の様相を呈してきた。泣き声のような音を立てながら、風がしきりにガラス窓を叩いていく。
「ローズ殿。パコのことを教えてはいただけませんか」
十六夜は覚悟を決めてローズに尋ねた。
「私は今までずっと自分のことしか頭になくて、一番の友の苦悩を見逃してきたのです。これ以上の不義理を、俺は自身に許すことができない」
狼は嫌いだと、必ず町から追い出してやると、十六夜はパコの前で何度も息巻いてきた。いったいどんな気持ちで聞いていたのだろう。パコを孤独に追いやったのは他でもない、自分自身だ。
「ローズ殿、俺はどんなことがあってもパコの味方です。ここにいるカリン殿も、そのつもりでうちの宿を出たのです」
「うん……?」
「あたしもよぉ、ローズおねえさま」
戸口の方から、水差しを手にしたバターカップが同調する。
「パコちゃんたら水臭くって、肝心なことはなんにも話してくれないんだもの。あたしに隠しごとをしようなんて百年早いわ」
ローズは三人の顔を順繰りに見つめた後、腹を括るようにベッドに腰を据えた。パコとよく似た相貌に、どこか諦めの色が浮かぶ。
「パコちゃんの父親はね、狼なの」
稲光りが一瞬、薄暗い室内を照らし出す。
「……ん?」
カリンの上げた疑問の声は、遅れてやってきた雷鳴に綺麗さっぱり掻き消された。
第五章終わり




