32.命の営み
「魔女、届け物ですよ」
魔女と呼ばれた女は、薬瓶を戸棚にしまって腰を上げた。
「はいはい。誰からだい?」
「青珊瑚町のニーナからだそうです」
「ニーナ?」
魔女の一番弟子が大きな包みを寄越してくる。魔女はテーブルの上に散らかった古書や実験道具を押し除けて、包みの中身を検めた。
「わっ、横着しないでくださいよ。……おや? ワンピースですか」
「ああ、ああ、これかい。送り主は白い子だね」
ぼろぼろになった黒いワンピースを広げて、魔女は皺だらけの顔を綻ばせた。
「すっぽんぽんで歩いていた白い子に譲ってやったんだが、わざわざ返してくれたんだね」
「随分細身なワンピースですね。もとは誰のものなんです?」
「若い頃のあたしのだよ。あたしにもペンみたいに細っこい時代があったのさ」
一番弟子は魔女の頭からつま先までを眺め回した。今は酒樽のように丸々と太っているので、もう袖を通す機会はなさそうだ。
「泣く子も黙る谷の魔女にもそんな時代があったんですね」
「そういうこと。さてと、いい機会だからケープにでもしてしまおうかね」
谷の魔女はうきうきしたようすで作業台に向かっていった。
***
パコは宿に運び込まれてすぐに治療を施された。右肩に負った傷口はまるで獣に食いちぎられかけたような有様で、医師は狼によるものではないかと指摘した。しかしパコ自身が「山で熊に襲われた」と主張したために、それ以上は言及されないのだった。
翌日になっても高熱が引かず、パコはベッドの上で痛みに魘されていた。宿の仲間はいたく気を揉んで、ひっきりなしに顔を出している。十六夜に至っては片時も離れることなく看病を続けていた。
ニーナが部屋に入ると、十六夜がパコの布団に突っ伏していた。静かに声をかけると、彼は憔悴した顔をあげる。
「あ……ニーナ殿。俺は、寝ていたのか」
「女将があなたに休むようにと」
「気を遣わせてしまって面目ない。だがもう少しだけ、ここにいさせてもらえないだろうか」
十六夜は毛布の端を握りしめる。梃でも動くようすはなさそうだ。
「パコの具合はどうですか」
「芳しくはないが……まあ、大丈夫だろう。なにぶん悪運の強い奴だからな」
口ぶりとは裏腹に、十六夜の声色はどこか祈るような響きを帯びていた。パコの肩から胸にかけては幾重にも包帯が巻かれている。顔色は紙のように真っ白で、ひどく不安を煽った。
「熊に襲われたそうじゃないか。さぞかし怖い思いをしただろう。君だけでも無事で本当に良かった。パコが君を守ってくれたのか?」
ニーナは唇を噛んだ。パコを傷つけたのは他でもないニーナ自身であると、いっそ洗いざらい白状してしまいたかった。しかしそれではパコのしたことが無駄になる。
「……はい」
「そうか。お前は大した奴だ。尊敬に値する」
十六夜はパコの額の手拭いを水に浸して、再び乗せてやった。
「こんなことになるなら、俺もついていけば良かった。そうすれば何か出来たかもしれないというのに。パコとニーナ殿が危険に晒されているときに俺は……」
「なに、言ってるのさ。お坊ちゃんの、くせに」
錆びついた声を上げてパコが目を覚ます。
「済まない。起こしてしまったか」
「う、ん」
身を起こそうとしたパコが苦悶の表情を浮かべる。十六夜は慌ててパコをベッドに押し戻した。
「無理をするな、体に障る」
「はは、大袈裟。このくらい、へっちゃらだって」
「……骨が見えていたぞ」
「そいつはたまげた。僕も一目、見てみたかったもんだ」
パコが痩せ我慢をしているのは明らかであったが、十六夜はそれ以上踏み込もうとはしなかった。まだ渋い顔をしながらも、どこかほっとしたように息をつく。
「そうだ、腹は減っていないか。果物やスープならば口にできるだろうか」
「じゃあ、お向かいさんの、白パンと、それから、焼き立てのソーセージと、ホットワイン」
「い、いきなりそんなに? あいわかった。急いで用意してくるから待っていろ。ニーナ殿、パコをよろしく頼む」
十六夜は慌ただしく部屋を出ていった。その後ろ姿を見送ってから、パコは立ち尽くしたままのニーナに声をかけた。
「もっと、近くにおいでよ。寂しいなあ」
「あなたは私が怖くないのですか」
「怖いもんか。ここまで運んでくれて、ありがとね」
ニーナは首を振った。礼を言われる筋合いはない。パコに深手を負わせたのは自分なのだから。
「ごめんなさい」
「謝らないでよ。僕が好きで、やったことなんだから」
「あなたのお陰で、私は自分を取り戻せました」
「そ、か。なら、この傷も、ちょっとした勲章、だね」
パコは笑ってみせたが、痛みに耐えかねてすぐに顔を歪めた。絶え間なく流れ落ちる脂汗が枕に染みていく。
「ネズミ、さん、は……?」
「わからない。炭鉱に置いてきた」
あれから丸一日経過している。きっとネズリーは町に戻ってきているだろう。新聞記者であるネズリーがニーナのことを記事にしてしまえば、いよいよこの町にはいられなくなる。
「もしもの、ときは……僕、がっ、なんとかする」
「どうするつもりなのですか」
「なんとか、してみせる。ぜったいに。腕ずくでも」
ニーナは顔をしかめた。パコはひどく気負っているが、この体で無茶をすれば命に関わる。
「パコ。私はアップルとシナモンに全てを話しました」
「え……?」
昨夜パコを運び込んだ後、ニーナは二人にこれまでの経緯を打ち明けた。自分が人狼であることはもちろん、じきにそのことが町中に知れ渡ってしまうかもしれないということも。アップルとシナモンはニーナの正体を知っても態度を変えなかった。それどころか、何か出来ることがあれば力になると言ってくれたのだった。
「けど、あの子たちはまだ子どもで……」
「二人とも、狼だろうと何だろうと関係ないと。私は私だと言ってくれました」
だから無理に一人で背負い込もうとしなくていい。皆まで言わずとも、パコはニーナの言わんとすることを察したらしかった。
「……そっ、か」
パコはどこか眩しげに目を細める。
「それは……何より心強い、味方だね」
それきり言葉が途切れ、浅い呼吸だけが繰り返される。眠ってしまったのかと思ったが、そうではないようだった。
「謝らなけりゃならないのは、こっちの、ほうさ」
「何故?」
「人間が君にしたことは、許されることじゃない。君の全てを奪ったんだから。君の怒りは、もっともだ。許しを乞うことすら、おこがましいほどに」
「パコ」
ニーナは椅子に腰を下ろして、憂いを帯びた紫の瞳を見つめた。
「あなたが眠っている間に考えていました。仲間や故郷を奪われたことを納得したわけじゃない。けれど私も結局は他の人狼と同じように、あなたを傷つけた」
「それは、君のせいじゃ」
「誰かのせいということではない」
パコの反論を制する。あのときニーナは手の中の命をいいようにする快感に冒され、歯止めが利かなくなりかけた。そこで初めて、自らの中にも魔物が眠っていることを知ったのだ。強者によって嬲りものにされ続けた人間たちは、さぞ恐ろしかったことだろう。
「私たちも生きるために獲物を狩る。それは命の営み。善悪の外。人間もまた身を守るために、生きるためにそうしたというのなら、それもまた……自然の掟なのかもしれない」
「で、も……」
「それに、あなたが謝ることはありません。私から全てを奪ったのは人間だけれど、あなたじゃない」
「ニーナ、ちゃん」
パコの揺れる瞳が、瞼の向こうに隠れがちになる。熱が上がってきたのか、呼吸が荒い。
「水をとってきます」
立ちあがろうとするニーナの手首を、パコの左手が掴んだ。
「いか、ないで……ここにいて」
パコの手は燃えるように熱い。ニーナは腰を据え直して、かすかに震えているその手を握った。
「ニーナちゃん。僕は、さいしょから、ずっと……」
言葉のなり損ないを残して、パコは気を失うように眠りに落ちた。
***
大慌てで用意した食事のトレイを持ったまま、十六夜は部屋の外に立ち尽くしていた。閉め損ねた扉の隙間から垣間見えた光景が、十六夜の足を縫いつける。眠っているパコと、その手を握ってじっとしているニーナ。二人の間には何人たりとも入り込むことのできない、密やかな気配が感じられた。
十六夜はトレイを扉の横に置いて、なるべく足音を立てないようにその場を後にした。
休んだ方がいいと言われたが、体を動かしている方がかえって気が紛れるように思われた。
溜まった仕事に勤しんでしばらく経った頃、玄関の方から言い争うような声が聞こえてきた。十六夜がようすを見に行くと、どうやらアップルとシナモンがネズリーの来店を止めているらしかった。
「ネズミ殿、いらっしゃい。二人とも、どうした?」
「坊ちゃんっ、えっと、その……パコさんとニーナさんに会いたいそうなんですけど、パコさんは具合が悪いから遠慮してほしいってお願いしてたんです。ねえ、シナモン」
「そ、そうなんです、坊ちゃん」
早口に言い募る双子を遮って、ネズリーが前のめりになる。
「それは知ってます。自分パコさんの容態が気にかかって、お見舞いをさせてほしいだけなんです。どうか一目だけでも会わせてください、後生っすから!」
「む……見舞いですか。お気遣い痛み入ります。パコの負担にならない程度ならば構いません」
十六夜はあっさりと許可を出した。わざわざパコの身を案じてやってきた相手を無下にすることもない。
「ありがとうございます、十六夜君!」
「ただし病人の前ではくれぐれもお静かに願います」
「わかっていますとも」
何やら切羽詰まったようすのネズリーを、十六夜は宿舎に招き入れた。心配そうなアップルとシナモンの視線に気づかぬままに。




