03.街に出る
人と狼の合いの子である人狼の起源には諸説あるが、最も有力とされている説は以下のようなものだ。遥か昔、月の女神の遣いであった狼が、戯れに地上へと降り立った。そこで狼は一人の娘と恋に落ち、三人の子を為すに至る。しかしそのことが女神の逆鱗に触れ、狼は満月の光を浴びると正気を失う呪いをかけられてしまう。呪いに抗えず愛する伴侶を手にかけた狼は、悲しみのあまり自らの尻尾を食いちぎって自害した。このとき残された子どもが、人狼の祖先であるという。
人狼が満月の夜に狂暴化するのは、女神の呪いが連綿と受け継がれているからであると、まことしやかに囁かれている。
ニーナは世間を知らない。彼女が生まれ育った白狼たちの山城は、人の足では辿り着くことの叶わぬ峻嶺にひっそりと聳えていた。隔絶された箱庭で暮らしてきたニーナが、人の営みの何たるかを知るはずもなかった。
人間にはよく知られていないが、人狼は満月の夜でなくとも自由に姿を変えることが出来た。彼らは狼の姿で狩りをして、人の姿で火を起こした。大人たちが生きるための糧を調達する傍らで、ニーナは使用人たちに世話を焼かれ、蝶よ花よと育てられた。
しかし優雅な生活はある日突然終わりを迎えた。「独り立ち」をすることになったためだ。ニーナは爺と呼んで慕っていた老齢の下男を伴い、山城を出た。そうして野を越え山を越え、人里離れた僻地の小さな家に移り住んだ。
「立派な人狼になるためのしきたりでございます、お嬢さま。再び城に戻ることはないと心得てくださいませ。この爺めが、お嬢さまのために骨身を惜しまずお仕え致しますぞい」
そう言って爺は腕まくりをしてみせた。ニーナとて思うところがないわけではなかったが、掟ならば従う他はない。何より幼少の時分から自分を育ててくれた爺が一緒ならば、恐れることなど何もなかった。
白狼ではなく銀狼であった爺は、灰色の髪をぴしりと撫でつけて、日頃から身なりを整えていた。それは二人で暮らしはじめてからも変わらなかった。彼はニーナに狩りの仕方や、魚の捕り方、食べられる茸や木の実の見分け方を教え込んだ。一方で身の回りの世話については、実に甲斐甲斐しくこなしてみせた。
あるとき彼は「お嬢さま、爺は少々町に下りて参ります。すぐに戻りますので」と言い残して、忽然と姿を消した。
ニーナは何も知らない。山城の狼が「狩り」に遭い、一匹たりとも残っていないことも。爺がそのことをニーナに悟らせないよう、巧みに立ち回っていたことも。
***
海猫のスプーン亭の外壁には、シンボルマークとしてブロンズのレリーフが取り付けられている。その図柄は羽を広げた海猫がサケを捕らえている姿だ。海猫のスプーン亭は他所ではありつけない珍しい料理を振る舞うことで有名であるが、とくに魚料理は人気が高い。一部の常連客はこの店に出入りすることを、レリーフから取って「ちょいとサケ釣りにいってくる」と言い換えるほどだ。
ニーナが外に出ると、レリーフの下で十六夜が仁王立ちしていた。懐から懐中時計を引っ張り出して文字盤を確認し、また仕舞う。
「……参るぞ」
十六夜はぶっきらぼうに呟いて、大股で歩き出した。小柄なニーナは少し早足でついていく。
ニーナからの十六夜への印象は「黒い」だった。まず髪が黒い。潮風に吹かれて前髪の奥から垣間見えた左目も、同じように真っ黒だ。町に下りてきて以来さまざまな人間を目にしたが、十六夜のような風体をしている者は他にいないようであった。
色とりどりの小舟が係留されている水路沿いに、二人は歩いていく。目に映るもの全てがニーナにとっては新鮮だ。
「十六夜、あれは何ですか」
「あれは蒸気船だ」
「蒸気船とは何ですか?」
「蒸気の力で海を渡る船だ」
「蒸気? 蒸気とは?」
「あー、水を沸かしたときに出る……煙のことだ」
「では、これは?」
「ガス灯だ」
「ガス灯とは何ですか?」
「油の代わりにガスを燃やして明かりを点すものだ」
「ガスとは何ですか」
「あー、火をつけると燃える、人工の霧……だ」
「では、あの大きな建物は?」
「教会だ」
「あの妙な形の建物は?」
「水道橋だ。……君は本当に何も知らんのか?」
十六夜が訝しげに眼鏡を押し上げた。
「私は山城で育ちました。人里のことは何も知りません」
「箱入り娘があんな場所で、一人で何をしていたというのだ」
「私を置いて出て行ってしまった爺を探していました」
ニーナが答えると、十六夜が考え込むように顎をこすった。
「使用人が出奔したのか? そうだとしても、年頃の娘が危険を冒して探し回るのは……」
「私が一人前になるまで世話をするのが爺の役目であったはずです。勝手にいなくなるなど認めません」
爺が行方を眩ましたために、ニーナは路頭に迷った。待てど暮らせど帰ってこない爺を探して、ニーナは山中を駆け巡った。狼に姿を変え、来る日も来る日も探し回ったが、爺の姿を見つけることは出来なかった。山城に戻ろうにも、帰る道すらわからない。八方塞がりの状況下で、爺がよく歌っていた歌を口ずさんでいたところで、十六夜とパコに出会ったのだ。
「君の我儘に嫌気がさしたのではないか?」
不躾な物言いに、ニーナの目が尖る。
「そんなはずはありません。爺にとって私は、何より重んじるべき存在であるはずです」
十六夜はニーナを一瞥し、すぐに視線を正面に戻した。
運河に架かる跳ね橋を渡ると、煉瓦造りの庁舎が姿を現した。アーチ状の入口をくぐると、天井の高いロビーが広がっている。入ってすぐ左手にある窓口には、長蛇の列が出来ていた。
「ここは何ですか? 皆あのように犇めき合って、いったい何をしているのです」
「ここは役場だ。新たに移り住んできた者たちが手続きを踏んでいるのだろう。この町は近年、大層治安が良くなったと評判だからな」
カウンターテーブルの向こう側は大忙しだ。書類の束を抱えた役人たちが、右へ左へと慌ただしく動き回っている。
「私たちもあの群れに並ぶのですか?」
「いや、俺たちは向こうだ」
十六夜はマントを脱ぎながら、人気のないカウンターの方に歩を進めた。彼が待合用の椅子に腰を下ろすと、ニーナもそれに倣う。
正面の椅子に腰掛けている男性が新聞を読んでいる。十六夜は妙にそわそわしはじめ、首を伸ばしてそのようすを覗き込んでいた。男性は紙面を一枚めくり、簡単に目を滑らせただけですぐにそれを畳んでしまった。十六夜が目に見えて肩を落とす。
「どうしたのです。妙ちきりんな顔をして」
「……み、妙ちきりん? それより、ニーナ殿。今朝にも伝えた通りであるが、もう一度確認しておくぞ。うちの宿が君のような者の『駆け込み寺』になっているということは話したな」
十六夜が噛み砕いて説明することには以下の通りだ。本来移住のためには町民名簿へ登録する必要があるが、ニーナには身分を証明するものがない。しかし、拠ん所ない事情を抱えた者は往々にして存在する。海猫のスプーン亭はそうした者に便宜を図るための支援機関の役割を担っており、一年間の就労義務を果たせば住民権を得ることが可能になっている、ということだ。
「代表は母上──女将であるが、倅である俺が委任状を預かってきた。君の労働の対価に、我々は君に衣食住を保証する。『新たな住処が欲しい』という君の望みは、これを提出すれば叶うことになる。異論はないか?」
十六夜が懐から三つ折りにした紙を取り出す。
「ええ、ありません。良きに計らいなさい」
「全く、偉そうなものだ」
ニーナの答えを聞き、十六夜は膝を叩いて立ち上がった。
***
来た道を戻りながら、水路を渡っていく小舟を眺める。いくつもの煩雑な手続きを経て、ニーナは晴れて町の住人となったらしい。
「……人間は難儀な生き物なのですね」
「何か言ったか? お、ちょうど蒸気船が帰港するようだぞ」
海の方で汽笛が鳴っている。桟橋に係留された蒸気船からは続々と人が降り立ち、荷揚げをしている。青い空と海を背景に、真っ白な蒸気が立ち昇っていた。
「ニーナ殿。俺たちはこれから同じ釜の飯を食う仲間となる。我々は君を歓迎する。君にも、俺たちを家族と思ってもらって構わない」
十六夜がそう言って右手を差し出した。ニーナはしばらくそれを見つめていたが、やがて十六夜の手を取った。
「取り計らっていただき感謝します。しかし私の家族は、今はただ一人だけです」
にべもないニーナの返事を聞いて、十六夜がため息をついた。
「……一年経てば、君は無数の選択肢を得る。そうなれば、どこなりと好きなところに行くと良い」