27.爺の日記
「おい、小娘」
呼びかけられて、ニーナは眉を顰めて振り返る。
「私の名前はニーナ」
「ああ、そうかい。なあ、あんたの城にはどれくらい狼がいるんだ?」
「わからない。多分、百に満たないくらい」
「ほう、まあそんなもんか」
サルマンはぼうぼうに伸びた草を掻き分けながら続ける。
「こんな僻地に引き篭もって一生終えるなんざ、つまんねえ話だ。俺様が雇い入れてやったっていいんだぜ」
「どういう意味?」
「海賊になりゃあ、面白おかしく暮らせるっつうことさ。人手はいくらあっても足りねえからよ。俺様は狼だって構わねえぜ? 獣にだって出来る力仕事を用意してやる」
突拍子もない馬鹿げた話に、ニーナは不快感を示した。
「白狼が海賊になるなどあり得ない。それに、狼の一生がつまらないものだとあなたに断じる権利はない」
「はいはい。そりゃご大層なことで」
サルマンは退屈そうに鼻を鳴らして、ぱきりと小枝を踏みつけた。
鋼の岩峰は、その名に違わぬ険阻極まる山岳地帯であった。大岩から削り出したような絶壁が聳り立ち、闖入者を谷底へ誘わんとする。麓からしばらくのうちは辛うじて道らしきものが残されていたが、進むにつれて獣道に成り変わった。
後ろをついてくるサルマンの足取りは軽い。いつもの半月刀は帯びておらず、代わりにナイフを腰に提げている。背負った荷袋は嵩張らない程度。厚手の防寒着を身に纏い、杖をつきながら躊躇なく進んでいる。
「あなたは本当に海賊なのですか」
「あん? もう一度こいつが見たいってのか?」
サルマンが胸の刺青を親指で小突く。胸に咲く薔薇の刺青が砂薔薇の海賊衆の証であることは、ニーナとて知っている。
「海賊は海を根城にする者と聞きました。あなたは山に慣れているように見える」
「詮索好きな女は嫌われるぜ」
「あなたのような無礼者に好かれたくない」
ぴしゃりと切り捨てると、サルマンは口笛を吹いた。
「はっ、つれないねえ。なに、俺様は山育ちなんだよ」
「何故海賊に?」
「俺様の身の上話でも聞きてえってのか。意外に好きものなんだな」
飄々とはぐらかしてみせる態度に嫌気が差して、ニーナは進行方向を睨んだ。
***
昨日、ライオンハートの案内に従ってニーナたちはドラゴンに乗った。手綱を握る騎手の後ろに跨って見下ろした景色を思い浮かべる。深い森の中にひっそりと眠るように聳え立っていたのは、間違いなくニーナが生まれ育った山城であった。ライオンハートに「そこで下ろしてあげよっか?」と提案されたが、万が一つにも狼の城であることを人に知られるわけにはいかないために遠慮した。
サルマンと二人で山城に行くことを伝えると、十六夜は難色を示した。十六夜もまた、サルマンが信用に足る人物であるかどうかを図りかねているようであった。しかし足の悪い十六夜に何が出来るわけでもない。結局は折れるしかなく、今朝早くに出発したニーナたちを心配そうに見送っていた。
獣道を抜けると、今度は剥き出しの岩肌が階段状に連なっている地帯に出た。段差が激しく、人の足で乗り越えるのは難しいように思われた。
「行けますか」
「ま、少し手間をかけりゃな」
荷袋からピッケルを取り出しながら目算を立てているサルマンをじっと見つめる。サルマンは軽薄な男であるが軽率ではないようだ。ニーナは腹を決めることにした。
「あなたは私に身を預けられますか」
「はあ? どういうこった。自分の身は自分で守るぜ」
「乗りなさい。ただし舌を噛まないように」
「何を言っ……」
ニーナは荷を下ろし、背中の紐を緩めて四つん這いになった。ニーナの全身を、瞬く間に真っ白な毛が覆っていく。口は大きく裂け、鋭い牙の間から唸り声が漏れる。張り出した筋肉、刃物のような爪、大きな耳。その体躯は獣そのものであった。
さしものサルマンも面食らっていたが、すぐにニーナの意図を察してピッケルを仕舞った。
「ふん。なるほどねぇ」
打ち捨てられた荷物を担いで、サルマンはニーナの背中に跨った。「悪かねえ趣向だ」革のグローブが外套越しに腹を掴むのを確かめて、ニーナは駆け出した。
***
風を切って走り始めてから随分経った頃。ニーナは見覚えのある景色に足を止めた。サルマンがニーナの背中から飛び降りて、新雪を踏み締める。
「この辺なのか?」
サルマンは辺りを見回しながら荷物を放ってくる。ニーナは人の形に戻って、衣服を直しながら首肯した。
「この川沿いを上っていったところ」
懐かしい風景を目にして、なぜだか胸がざわつく。ニーナは逸る気持ちを抑えて歩みを進めた。川の流れに沿って歩くと、やがて白い雪を被った城壁が現れた。城を離れたときのまま、何も変わらない。しかし、日が暮れかけているのにもかかわらず、明かりの一つも点いていなかった。
「おい。人っ子一人いねえぞ」
「そんなはずは……」
城内はしんと静まり返っていて、足音だけが反響していた。ランプの明かりを頼りに城の中をくまなく探したが、誰一人として見つからない。
「なあ、あんた」
サルマンの声色は妙なくらいに真面目くさっていた。そのことが余計に胸をざわつかせる。
「一度引くぞ。何があるかわからねえ。夜が明けてからもう一度調べに来ればいい」
「……わかりました」
城の近くで火を焚いて、一夜を明かすことにした。ニーナが捕った兎の肉を焼いて食べる間、会話らしい会話はなかった。今のニーナが有用な情報を持ち合わせていないことは、サルマンもよくわかっているようだった。
まんじりともしないまま朝を迎える。眼を閉じて横たわっていても、城の中のうるさいくらいの静寂が耳から離れなかった。
***
翌朝再び城の中を調べてみると、やはり誰もいなかった。荒らされた形跡はない。埃や蜘蛛の巣の具合から見ても、長きにわたり無人であったことは明白であった。
「なあ。あんたはどうして城を出た?」
蜘蛛の巣を払い除けながらサルマンが問うてくる。
「『独り立ち』をするため、です」
「狼は群れで暮らすもんだろう」
「爺が、それが一人前になるためのしきたりだと」
「そうかいそうかい。で? あんたはまだそれを信じてるってのか?」
「いいえ」
サルマンに言われるまでもなく、ニーナはすでに疑い始めていた。かつてこの城で暮らしていた頃、「独り立ち」をした人狼が他にいただろうか。いくら記憶を辿っても心当たりはない。爺を盲信していたニーナは疑問を持つことすらしなかったが、思えばおかしな話だ。この城が空っぽであることと、関係がないとは思えない。
「爺の部屋を見てみましょう。何かわかるかもしれない」
ニーナはサルマンを伴って、爺が使っていた部屋を目指した。階段を上り、長い廊下を突き進んでいく。
「……サルマン」
「あん?」
「かつて私には考えるという習慣がなかった」
「ああ、そうかい」
「あなたは私に、考えるきっかけをくれた。そのことは感謝しています」
「ご勘弁。こちとら慈善事業じゃねえんだ」
爺の部屋に入ると、早速机の上に置かれた書き物を見つけた。それは爺の日記帳のようであった。彼らしい丁寧な字で、この城で平穏に暮らしていたときのことがしたためられている。そこにはニーナのことも書かれていた。「今日はお嬢さまが似顔絵を描いてくださった。素晴らしい画才をお持ちだ。天才だ」「私が歌を歌っていると、お嬢さまも歌ってくださる。今後の成長が楽しみな歌声をなさっている」など。爺の声が聞こえてくるような文章に、胸が温かくなる。
そのまま読み進めていると、この城に人間が訪れたという記述が出てきた。そんなことがあっただろうか。ニーナの記憶には残っていないが、関心がなかっただけなのかもしれない。
今日はドラゴンに乗って人間がやってきた。白狼は彼らを歓迎しているが、私は何とも落ち着かない。銀狼が人間にしたことを思えば当然のことだ。銀狼は薬を飲むことを拒み、人間を踏み躙り続けていたのだから。
私が群れを飛び出してから、それがいいほうに変わったとは到底思えない。だから人間がすすんで狼に近づくはずがないのだ。それなのになぜ彼らはここに来たのだろう。よりにもよって、満月の日に。
爺の日記はそこで一度途切れる。そこから突然日付が飛んで、最後のページにこう記されていた。
この城に戻ったのはいつぶりだろうか。私はあの日のことを生涯悔い続けることだろう。どうして人間を追い払わなかったのか。彼らが狼に報復しにきたのではないかと、何故もっと疑わなかったのか。
深い眠りに就いている白狼の尻尾を、人間は次々と刈っていった。警戒して薬を控えていなければ、今頃私も心を失っていたことだろう。しかし私には結局、辛うじてお嬢さまを連れ出すことしか出来なかった。
許すまじ、人間。私とお嬢さまの安住の地を奪い去った人間よ。このままにしてなるものか。




