21.十六夜
噴水の縁に腰かけて、バターカップはぼんやりと水面を見つめていた。ゆらめく水面に、丸い月とガス灯の明かりが映り込んでいる。
「こんな時間にほっつき歩いてたら、満月じゃなくたって危ないよ」
パコが声をかけると、バターカップは驚きに目を見張った。
「パコちゃん? パコちゃんなの?」
「久しぶり。バター姐さん」
「久しぶりって、あなた今までいったいどこに」
「灯台下暗しってね。なんと今は姐さん行きつけの海猫のスプーン亭でお世話になっているんだ」
やけっぱち気味にウィンクをすると、バターカップは困惑して頰に手をやる。
「まあ、全然気づかなかったわぁ。それじゃあなた、今まであたしから逃げ隠れしてたのねぇ? 悪い子!」
「誠に面目ない。姐さんこそ毎日のようにうちに入り浸ってるけど、仕事はどうしたのさ」
「最近こっちにキャロッツの二号店が出来たの。あたしは軌道に乗るまで応援に来てるのよ。目と鼻の先だから、ちょっと中抜けしてただけ。誰かさんみたいに行方を眩ましたりなんかしてないわぁ」
「あはは、ぐうの音も出ません」
パコはバターカップの隣に腰かける。濃い潮の匂いが鼻先を掠めた。
「パコちゃんったら、ちょっと見ない間にすっかりハンサムになっちゃって」
「でしょ? そういえば姐さんから教えてもらったクラーケンの話、意外なところで役立ったよ」
「クラーケンとお船が珍珍かもかもする話? 砂の国のおじさまが聞かせてくれた話だったかしらねぇ」
「そうそう。……ねえ、僕とここで会ったこと、母さんには言わないで」
「どうして?」
「お願い、姐さん」
パコが眉を引き締める。懇願めいた言葉の裏にのっぴきならない事情を感じ取って、バターカップは不承不承うなずいた。
「わかったわぁ。だけど、いつかわけを聞かせてちょうだいね」
「ん……いや、そんなことより。十六夜のことで、何か聞きたいことがあるんじゃない?」
パコが水を向けると、今度はバターカップが表情を引き締めた。
「十六夜君、右目を盲いているの?」
彼女の質問はいきなり核心を突いていた。
「出会ったときは両目とも黒色だったわ。それに右からいくと、やけに反応が鈍いし」
「ああ、しつこく十六夜にしがみついてたのはそれを確かめるためだったってわけ? 本人には聞かなかったんだ」
パコの指摘にバターカップが口を尖らせる。
「意地悪な言い方はよして。本当にこそこそ見てたのねぇ。……けど、そうね。聞けなかった」
バターカップがしなやかな指先を組み合わせる。
「おかしいと思うようになったのは途中から。十六夜君はあたしのこと覚えてないっていうし、周りの人に聞いてもあんまりはっきり教えてもらえないし。だから昨日、新聞社に当時のことを調べに行ったわ。そしたら三年ちょっと前に男の子が狼にやられて重傷を負ったって記事が出てきた。名前は出ていなかったけれど、あれは十六夜君のことだったのじゃないかしら」
パコは内心舌を巻いた。バターカップは聡くて行動力もある。煙に巻こうとしても無駄だろう。
「姐さんを助けた後に十六夜がどうなったのかを知りたいの?」
「気を遣われるのはまっぴら。あたしはあたしが招いたことの顛末を見届けなけりゃねぇ」
バターカップが目の奥に力を入れるのを見届けて、パコは一息に言った。
「十六夜はあの日、狼にやられて酷い怪我をした。そのせいで右目がほとんど見えなくなった」
「そう。他には?」
「それきり右耳も聴こえづらくなった」
「その他に、悪いところはない?」
「……足もいかれて走ることができなくなった。これで全部だよ」
怪我の後遺症のために、十六夜は幼い頃からの船乗りの夢を諦めざるを得なくなった。おまけに狼恐怖症まで患っていたとは酷な話があるものだ。
十六夜のことだから、きっとニーナには何も話していないに違いない。ニーナは今までの十六夜の立ち振る舞いを見て、違和感を覚えたことがあるだろうか。十六夜の身に起きたことを知れば、人狼である彼女はいったい何を思うのだろう。いずれにしても、ニーナと十六夜の仲を取り持とうという計画は見直さなければならない。事はそんなに簡単ではないのだから。
バターカップはパコの話を泰然として受け入れた。高潮を受け止める防波堤のように。
「よくわかったわ。ありがと」
「もういいの?」
「ええ」
バターカップは血が滲むほど唇を噛み締める。
「ゆるせない。あたしがこの手でぶち殺してやりたかった!」
普段の嫋やかなバターカップからは想像のつかない激情の発露を目の当たりにして、パコは胸に込み上げるものを感じた。
「ありがとね。僕の友達のために怒ってくれて」
バターカップは首を振った。彼女を奮い立たせているのが単なる義憤ではないことは容易に察せられた。その激しい怒りの刃は、彼女自身の胸にも突き立てられている。
なぜバターカップが自責の念に苛まれなくてはならないのだろう。彼女は軽はずみな行動を取るような人間ではない。満月の夜に表に出ていたのにも、やむにやまれぬ事情があったのだろう。彼女も間違いなく被害者であるはずなのに。狼の残した爪痕は深刻だ。
「……十六夜の奴さ。満身創痍で運び込まれたとき、開口一番に『彼女は無事か』って言ったんだ」
「え……?」
「そのときはまだ姐さんのこと覚えてたんだろうな。僕たちには何のことだかわからなかったけど、少なくとも他に被害者らしき人は誰もいなかったから、そう伝えた。そしたらあいつ『良かった』って言って、安心したように眠ったよ」
それから十六夜はこんこんと眠り続けて、次に目覚めたときには記憶がやや曖昧になっていた。無理もない。あのときは本当にめちゃくちゃだった。頭をやられて失明したうえに血も流れて、ぼろ雑巾さながらの有様だったのだから。あれほど酷い目に遭っておいて、どうして良かったなんて言えるのか。きっと馬鹿なんだ。パコはそう決め込んだ。
「喧嘩はすこぶる弱いけど、あいつはいいやつだよ。決して姐さんのことを恨んだりするような奴じゃない」
「そうね」
バターカップはぐっと夜空を見上げた。彼女の大きな瞳の縁がたちまち潤む。綺麗に整えられた爪が掌に刺さるほど、強く拳が握られた。
「泣きたいのなら胸を貸そうか?」
「結構よ。涙はここぞってときのために取っておかなけりゃねぇ」
後毛を掻き上げてけろりと笑ったバターカップは、いつもの彼女だった。
「そういえば、東の国では満月の翌日の月のことを十六夜というらしいよ」
「十六夜?」
「そう、今宵の月のこと」
満月より一欠片ぶん小さい月は、霞がかってぽっかりと浮かんでいる。不完全に、少しだけ不恰好に。バターカップの碧い瞳が、月の光を閉じ込める。
「綺麗ねぇ」
やおら立ち上がったバターカップに、パコが声をかける。
「帰るのなら送って行くよ」
「大丈夫よぉ、本当に目と鼻の先だもの」
「そっか。じゃあ、また明日ね」
「ばいばい」
バターカップは誰もを魅了してやまない綺麗な笑顔で、ひらひらと手を振った。
その夜以来、彼女が海猫のスプーン亭に姿を現わすことはなかった。
***
翌日、十六夜は何事もなかったかのように仕事に出ていた。まだ顔色は優れなかったが、足取りも受け答えもしっかりしている。昨日の錯乱ぶりが嘘のようだった。
「全くあんたときたらさ、水臭いにも程があるだろ。この僕にまで隠す奴がどこにいるんだよ」
パコは怒り半分呆れ半分で、ベーコンの握り飯を頬張った。
「悪かった。返す言葉もない」
巧みな箸捌きで焼き魚の骨を取っている十六夜が、何度目かの謝罪を口にする。最初こそ地に頭を擦りつけんばかりの勢いであったが、そろそろ誠意も尽きかけているのか、おざなりな返事しかよこさない。
「本当にわかってんのかなあ。言っとくが僕は結構本気で怒ってるからな」
「わかっているとも。俺の狼恐怖症のせいで、お前とニーナ殿に迷惑をかけてしまった。申し訳なく思っている」
十六夜が投げやりに野菜スープを啜った。パコはこれ見よがしにため息をつく。
「そら見ろ、わかってない。誰も迷惑だなんて言ってないだろ。……なあ、本当はずっと前から症状が出てたんじゃないの?」
パコが指摘すると、十六夜はばつが悪そうに目を逸らした。思い返せば最初に張り紙が張り出されたあの日だって、十六夜は急に休みを取って一日中引きこもっていた。おおかた発作が出ているのを隠していたのだろう。人狼を追い払おうと躍起になっていたのも、狼恐怖症がばれないうちに手を打とうとしていたのではないのか。誰にも心配をかけないために。
「……ごめん」
パコの声が掠れる。
「何故お前が謝る」
「気づいてやれなくて」
「隠していたのは俺の方だ」
「髪を切って、眼鏡も外して、目のこと色々聞かれるようになったんじゃない?」
「ああ。しかし俺自身、いい加減前に進みたかったのだ。ニーナ殿に恥じないように」
十六夜は箸を置いて、異なる色の瞳をまっすぐにパコに向けた。
「済まない。本当はわかっている。他ならぬお前に対して隠し事をするなど、不誠実極まりないことであった。それをかえってお前に謝らせるのは、あまりに忍びない」
「もういいよ。あんたが見栄っ張りなのはわかってたことだし」
パコは苦笑した。正直なところ、隠し事ならお互い様だ。
「でも今度からは辛くなったらすぐ言えよ。今更格好つけたってしょうがないんだから」
「ああ。約束する」
十六夜は強く頷いてみせた。そうかと思うと、今度は頭を抱える。
「はあ、しかしお前だけならまだしも、よりによってニーナ殿の前で醜態を晒してしまうとは一生の不覚。穴があったら入りたい」
「穴でも何でも好きに入りなよ、止めないから。ただしその骨抜きになった魚を片づけてからな」
空になった食器を持って、パコは休憩スペースを出る。十六夜がやっとのことで焼き魚にありつくのを戸口の陰から見届けて「姐さんを助けてくれてありがとな」と、ひっそり感謝の言葉を口にした。
***
海猫のスプーン亭のベルが来客を知らせる。ハッサンが調理場から顔を出すと、ネズリーが入ってきたところであった。
「よう、いらっしゃい。ネズミさんよ。飯かい? それとも坊ちゃんに用か?」
ハッサンがいつものように気さくに声をかけると、ネズリーは早速懐から手帳を取り出した。
「どうもっす。いえ今日はね、ハッサンさんに折りいって取材のお願いにきたんです」
「えっ、俺にかあ? 紙の月新聞にうちの店のことを載せてくれんのかい?」
ハッサンはそわそわと前掛けに手を拭いつける。ネズリーはそんなハッサンの期待をあっさりと裏切った。
「いえいえ、そうじゃないんです。今日は狼のことを聞きにきたんすよ」
「狼?」
首を捻るハッサンの耳もとで、ネズリーは声を潜めた。
「『一匹残らずやったはずなのに』って、どういう意味なんすか?」
第三章おわり




