20.狼はここにいない
「十六夜君、あたし怖い……あなたも気をつけてね」
人狼の噂を聞きつけたバターカップは、碧い瞳を潤ませて十六夜にすがりついた。酒場の常連客たちは、そのようすを肴にして酒を煽っていた。
「バターカップちゃん、怖けりゃ俺たちが守ってやるよ。一緒に飲もうや」
「そうそう、俺らが束になってかかりゃ、狼だってひとひねりよ」
「やあねぇ、飲んだくれのおじさまたちはお呼びじゃないのよ。あたしの騎士様は十六夜君なんだから」
「ちぇっ、つれねえなあ」
「あらぁ、いい女はつれないくらいの方がいいでしょう?」
「違いねえ、違いねえ!」
常連客とバターカップのやり取りに、一同はどっと沸いた。店内が賑やかしい笑い声に包まれる一方、十六夜はどこか上の空であった。
「ねぇ十六夜君、どうしたの?」
「……あー」
生返事をして、十六夜は使用済みの食器を片づけて調理場に入っていく。ニーナは配膳しながら十六夜のようすを窺った。今日の十六夜はどうにもようすがおかしい。素気ない態度を取るのはバターカップに対してだけではない。ニーナや女将が話しかけても、十六夜は妙にぶっきらぼうだった。
「おいおい、やけに冷たいじゃねえか。なあバターカップちゃん、あんたたちの馴れ初めを聞かせてくれよ」
「え?」
取り残されたバターカップに常連客が尋ねる。しかしどういうわけか、彼女にしては珍しく躊躇しているようであった。それでも周囲からの期待の眼差しを受けて口を開く。
「あの日の十六夜君は、とっても勇敢で格好良かったわぁ。あたしが狼に襲われそうになっていたときに、木の剣を持った十六夜君が颯爽と現れて助けてくれたの。隙を見計らって、二人で手を繋いで逃げのびたわ。あたし別れるときにお礼のキスまでしたのに、十六夜君ったらなんにも覚えてないんだもの。いけずなんだから」
バターカップの話に耳を傾けながら、ニーナは想像した。銀狼がこの町にいたのは少なくとも三年以上前。その頃の十六夜は今より若かったはずだ。人間の身で狼に立ち向かうなど無謀であるように思われるが、ひょっとすると十六夜は案外強いのだろうか。しかしそんなことがあったというのに、十六夜がバターカップのことを覚えていないのは妙だった。
「お嬢ちゃんよ、そのへんにしとかねぇか」
調理場からハッサンが顔を出して、バターカップを諌めた。
「……どうして?」
「どうしてもだ」
気風のいいハッサンらしからぬ威圧的な物言いに、ニーナは引っかかりを覚えた。それはバターカップも同じことのようで、甘い瞳がおもむろに冷静さを帯びていく。
すると十六夜が調理場から出てきた。にわかに注目を集めた十六夜は、腕章を毟り取りながら、足音荒く酒場を出て行ってしまった。
あまりの唐突さにその場にいた誰もが、バターカップですら呆気に取られた。妙な雰囲気になった一同を横目に、ニーナはすぐさま十六夜の後を追った。
腕章を外していたところを見る限り、恐らく宿舎に戻っているのだろう。そう当たりをつけて階段を上っていくと、ニーナは廊下に人が蹲っているのに気がついた。
「十六夜?」
「っ……!」
十六夜は身体を縮めて胸を掻きむしっていた。尋常ではないようすにニーナが駆け寄ると、苦悶の表情でニーナを見上げてくる。脂汗が顎を伝って絶え間なく落ちていく。
「十六夜、いったいどうしたというのです」
「あっ……うっ、うー」
必死に何かを伝えようとしているようだが、喉から漏れるのは意味をなさない音ばかりだ。自身を掻き抱く十六夜の手は、凍えたようにがたがたと震えている。十六夜の体に現れている症状は、カリンが発作を起こしたときのそれによく似ていた。
「……狼恐怖症」
もはや疑いようもなかった。朝から十六夜のようすがおかしかったのは、このせいだったのだ。
「人を呼んできます」
ニーナが立ちあがろうとすると、十六夜の手がニーナの腕を掴んだ。
「ひ、ひっ……あー、あっ」
十六夜が首を振ると、前髪から汗が飛び散った。言葉にこそならないが、おそらく「行かないでほしい」と伝えたいのではないかとニーナは思った。
「でも、このままにしておくわけにはいかない」
「十六夜? おい、どうした、大丈夫か?」
階段を上ってきたパコが、異変に気がついて駆けつける。顔面蒼白で震えている十六夜を見て、勘のいいパコはすぐさま状況を理解したようだった。
「まさか、あんた……あークソッ、とりあえず部屋に運ぼう。ニーナちゃん、手伝ってくれる?」
「わかりました」
パコが十六夜の肩を支えようとするのを遮って、ニーナは十六夜の身体を軽々と抱き上げた。「え、えっ?」パコは目を点にしたが、すぐに気を取り直して十六夜の懐から鍵を探り当てる。
「勝手に開けさせてもらうからな。エッチな本が出しっぱなしになってたとしても、文句は聞かないぞ」
パコが十六夜の部屋の扉を開け放って、手早くオイルランプに火を灯す。部屋の中は綺麗に整頓されており、本棚にはぎっしりと書物が詰まっていた。机の上には書きかけの原稿用紙が無造作に積み上がっている。
ニーナは十六夜をベッドに下ろした。十六夜の瞳孔は黒々と開ききっていて、呼吸は犬のようだった。
「十六夜は誰にも言わないでほしいと言っていたような気がする」
「だろうね」
パコが唇を噛み締めながら、風呂に打ちかけられている手拭いを水差しの水に浸した。
「なあ、このことを女将さんや親父さんは知ってるのか。他の誰かでもいいから」
十六夜が力なく首を振る。パコは眉を顰めながら、濡れ手拭いで額の汗を拭いてやった。
「これほど重度の狼恐怖症を隠し通すとは見上げた根性だ。しっかりしろよ、十六夜。狼はもういない。あんなのたちの悪いいたずらに決まってる」
「うう……あうう」
十六夜が獣のように呻いている。普段の振る舞いとかけ離れた十六夜の錯乱ぶりに、ニーナは言葉を失った。指示を仰ごうとパコを見やると、彼は十六夜に負けず劣らず真っ青な顔をして俯いていた。
「……どうして今まで気づかなかったんだ。考えたらわかることなのに」
「パコ?」
「ううっ、……げほっ」
「! 待った、こらえろっ、ここに」
十六夜が激しくえずきだしたので、パコが泡を食って桶を取る。しかし間に合わず、吐瀉物が着衣とシーツを汚していった。
「しくじったな。ニーナちゃん、悪いけど十六夜の奴を見ていてくれる?」
パコは十六夜の着物とシャツを脱がせて、シーツを抱えて出て行った。
ニーナは棒のように立ち尽くしていた。目の前でこれほど苦しんでいる人間を見たのは初めてだ。パコがいなくなった途端、どうしたらいいのかわからなくなる。それでも何かしなくては。自分の頭で考えなければ。ベッドに歩み寄ると、ランプの灯りに浮かび上がる十六夜の上半身が目に入った。
十六夜の体は古傷だらけだった。獣の爪痕や牙の痕の他に、引き摺られた痕や火傷のような痕まで、大小さまざまな傷痕が十六夜の肌を横切っていた。
「……銀狼にやられたのですか」
「う、うっ」
バターカップは十六夜に助けられたと言っていた。しかし人狼がそうやすやすと獲物を逃すとは考えにくい。十六夜は銀狼の怒りを買って、一方的に嬲られたのではないのか。
「ゆるせない」
ニーナがその場にいたのなら、銀狼のいいようにはさせなかった。この爪と牙で蹴散らしてやったのに。
十六夜は敵わないとわかっていながら、勇気を振り絞って戦ったのだろうか。その結果がこれならば、あまりにも。
十六夜の白黒の瞳はいまだ幻に取り憑かれたように揺れている。ニーナは震える十六夜の手を強く握った。かつて怯えるカリンにもそうしてやりたかったことを思い出しながら。
「ニ……ッ、……」
「十六夜、ここに狼はいません」
その日初めて、ニーナは嘘をついた。




