02.この町にはまだ狼がいる
「あの娘が狼なのではないか?」
酔い潰れた客を部屋に押し込んだ後、調理場で後片付けをしながら十六夜が呟いた。
「魔女から狼を探し出すための薬をもらった帰り道で、狼と出会いましたって? センセイにしちゃ随分お粗末なストーリーなんじゃないか」
洗い終えた食器の山をパコが積み上げる。十六夜が皿の水滴を拭き取り、棚に戻す。青珊瑚の港から目と鼻の先にある海猫のスプーン亭は、昼は観光客向けの食堂、夜は海の男たちの溜まり場として、そこそこに繁盛していた。往々にして大酒飲みである船乗りたちは、放っておくと朝まで飲んだくれているため、日付が変わるころには宿泊客以外はさっさと追い出して店じまいをするのが常だった。
「しかし素性が知れんのは確かだろう。年端もいかん娘が裸一貫で、あんな辺鄙な場所に一人でいるなど、怪しすぎる」
「そう! そこなんだよ」
パコが細身の腕で軽々と水桶を持ち上げ、流しに排水していく。空になった桶を景気よく叩いて、十六夜に向き直った。
「掲示板の張り紙に何て書いてあったか覚えてるか?」
「無論だ。忘れるべくもない」
青珊瑚町の広場は、この町で最も賑わっている場所だ。港と市場を繋ぐ大通りに面しているため、食糧を求める町の住人のみならず、観光客も多く行き交う。その中央にはカリヨンの時計塔があり、町民に定刻を知らせている。
ある日広場の掲示板に、一枚の張り紙が掲示された。
「この町にはまだ狼がいる」
苦虫を噛み潰したような顔で、十六夜が諳んじる。
「狼」とはかつてこの町に住んでいた人狼一族のことを指す。彼らは人と変わらぬ姿をしながら、満月の夜になると半獣──その姿を指して人は「狼」と呼称する──に変化し、牙を剥いた。猛獣が生存のみを目的として獲物を狩るのに対し、人狼はただいたずらに人を傷つけた。殺しはしない。ただ嬲るのみ。それ自体が快楽であるとでもいうように。人々は空に満月が昇ると家に閉じこもり、息を殺して嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。
しかし人狼に蹂躙される日々は「狩り」によって終焉を迎えた。不満を爆発させた町民の手によって、人狼は一夜にして、一匹残らず討伐されたというのだ。人狼の横暴に手を焼いていた町議会はこれを黙殺した。人狼のいない安息の日々の到来を、人々は諸手を挙げて喜んだ。
あれから丸三年。誰もが人狼の脅威が去ったことを信じてやまなかった。何者かの手によって、かの警告文が張り出されるまでは。
この件は新聞に掲載されて、瞬く間に町中に拡散された。町民の反応は実にさまざまであった。恐れおののく者もいれば、悪質ないたずらと頭から決めつける者もいた。移住してきたばかりの者は面白がって噂したり、義憤に駆られて首を突っ込んだりしている。
人狼を見た目で区別するのは困難だ。灰色の髪の者が多いのが特徴であるが、もともとこの地方には灰色の髪の人間がごまんといる。更に染髪している場合もあり、すっかり大衆に紛れ込まれると判別のしようがないのだった。
これを重く見た議会は、この町に人狼が残っていないことを強調したうえで、万が一のために満月の夜は外出を控えるよう呼びかけた。
「憎き狼。何としても見つけ出してやる」
「それは置いといて。なあ十六夜、僕たちがニーナちゃんと出会ったのはどこだった?」
「何だ、藪から棒に。魔女の森だろう」
「うん。魔女の森って、どこにある?」
「……隣の隣の、靴鳴り町」
「そう。隣の隣。この町とはいえないよな」
食器を片づけ終えたパコが、濡れた布巾をフックに吊るす。
「あの張り紙がいたずらでなかったとしてだ。狼はこの町にいる、っていうんだろ? 少なくともあの子は全く土地勘がなかったよ。靴鳴り町なら没落した名家が集まっている土地柄だし、のっぴきならない事情で家を出た令嬢なんかがいたって、別段おかしくはないと思うな」
「ううむ……まあ、そうだな」
十六夜が渋りながらも同意する。口の達者なパコに対して、実直な十六夜はしばしば言いくるめられがちになる。
「それにさ、素性が知れないって言ったら僕だって同じだろ?」
パコが木箱に腰かけながら肩を竦めた。十六夜が酒樽の蓋を開け、中の酒を酒器に注ぎ入れていく。店には出していない秘蔵の清酒だ。一たび口に含めばふくよかな香りが鼻に抜け、喉と胃袋に火を放つ。満たされた酒器をパコに手渡しながら、十六夜が口の端を吊り上げる。
「では何だ、お前が狼か?」
「うーん。僕が狼だったらこの宿は大打撃だな。女の子たちは涙の海に溺れちゃうし、あんたは友達が一人もいなくなる」
「時折、お前の自惚れを俺も見習った方がいいのではないかと考えることがあるぞ」
二人は顔を見合わせて笑った。
「案ずるな。お前は友であり、家族でもある。もしもお前が狼ならば、俺は黙って喰われてやる」
「とんだ珍味だな。世界の美食家も舌を巻くよ」
銀の酒器がぶつかり合い、調理場に澄んだ音を響かせた。