19.狼はどこにいる
「私、あの人嫌いだわ!」
憤慨したアップルが力強く洗濯機を回した。金属の筒は普段よりも勢いよく回りだす。
「純情な坊ちゃんに粉をかけて、騙そうとしてるんだわ。せっかく坊ちゃんとニーナさんがいい感じなのに。横恋慕しようとするなんて許せない!」
頬を膨らませるアップルを、シナモンが宥めすかす。
「ま、まあまあ、落ち着いて姉さん。でも、ぼくにはそんな意地悪な人には見えないけどなあ」
「甘い、甘いわよシナモン。男はすぐに騙されるんだから。ああいう人はね、可愛い顔をして男をたらし込む悪女なのよ。今までどれだけの男を手玉に取ってきたか、わかったものじゃないわ。シナモン、あなたもゆめゆめ油断しないことね」
アップルは幼さの残る顔立ちには似つかわしからぬ戒めを口にした。
バターカップのしなやかな振る舞いは男性陣を惹きつけてやまない。また彼女の話ぶりは気が利いており、警戒心を露わにしていた十六夜ですらも、徐々に心を開いているのが傍目にもわかった。二人の距離が近づくごとに、彼女を目の敵にしているアップルの機嫌は悪くなる一方だ。
ニーナは黙々と洗濯物を干しながら、市場でのバターカップの言葉を反芻していた。
「十六夜は私に恋をしている」
「えっ?」
突然のニーナの呟きに、双子がぎょっとして振り返る。
「だけど私は十六夜に恋をしていない。それでは、いけない?」
「う、うーん、そうねえ。何もいけないことはないけど」
答えにつまるアップルを横目に、シナモンが眉を寄せて笑った。
「ぼくはいけないとは思わないよ、ニーナさん。誰かを大切に思う気持ちって、そういうことばかりじゃないから。例えばぼくだって、たった一人の家族である姉さんを大切に思っているし」
「え? まあ、そうね。私だってシナモンのことを大事に思ってるわ。そうやって二人で生きてきたんだもの。それはそれとして、私はニーナさんと坊ちゃんに懇ろになってほしいのだけど……だって好きな人同士が結ばれたら嬉しいじゃない」
双子がそれぞれの思いを口にするのを聞きながら、ニーナは考えた。例えばニーナが爺のことを大切に思う気持ちだって、他の何かに比べて劣っているということはないはずだ。アップルとシナモンや、十六夜とパコが互いを思い合う気持ちだって同じことだろう。
一人でこくこくと納得しているニーナを、双子は不思議そうに見つめていた。
「そういえば、今夜は満月だから早めに店じまいの用意をしなけりゃね。のんびりしている場合じゃなかったわ」
「ああ、言われてみればそうだね」
アップルの言葉に、シナモンが空を見上げた。ニーナは満月の夜には薬を飲んで深い眠りにつくので、ろくすっぽ満月を眺めたことがない。服薬しはじめる前、幼少期に見たのが最後だったろうか。空は雲一つなく晴れ渡っている。こんな日はきっと、まん丸の月がきれいに浮かぶのだろう。
それにしても、双子は他の町民に比べて満月の夜に対する忌避感が薄いように思われる。
「あなたたちは満月の夜を恐れないのですか?」
ニーナが問いかけると、アップルとシナモンは顔を見合わせた。
「ん、そうねえ。大きな声じゃ言えないけど、私たち、それほど人狼を嫌っていないのよ」
「嫌っていない? 何故?」
「ぼくらの母さん、人狼に命を救われたことがあるらしいんだ。川で流されかけたところを、怪我をしながらも助けてくれたんだって」
シナモンが懐かしむように目を細めた。そんなシナモンに続けて、アップルが頬を緩める。
「そうそう。それが私たちの生まれる前の話だから、その人は私たちにとっても命の恩人なのよ。だから私たち、人狼も本当は悪い奴ばっかりじゃなかったんじゃないかって思ってるの」
恩人を語るアップルとシナモンの目は優しい。この二人であれば、パコと同じようにニーナの正体が人狼であると知っても受け入れてくれるような気がした。
「もちろん気をつけないといけないことに変わりはないけれど、私、あの張り紙もいたずらだと思うのよね」
「張り紙?」
「広場に張り出された『この町にはまだ狼がいる』って張り紙よ。あら? ニーナさん知らない?」
何の気なしにアップルの口から語られた事実は、ニーナにとって衝撃的なものだった。
「……いつ?」
「えっと、今年の初めくらいだったかしら」
アップルはニーナに、件の騒動のことを掻い摘んで話した。彼女の言う通りだとすると、張り紙が出たのはニーナがこの町にやってくる前のことだ。となると張り紙の指す狼というのは、少なくともニーナのことではないのだろう。しかし、かつてこの町にいたという銀狼は、一匹残らず狩り尽くされたと聞いている。
ならばその狼というのは、ひょっとすると爺のことではないのか。
ニーナは頭に浮かんだ仮説について考える。果たしてパコは同じ考えに至らなかったのだろうか。パコはニーナに尋ね人の広告を出すように促した。それは彼がとっくにその可能性に行き着いていたからではないのか。もしそうだとすると、何故彼はニーナにそれを言わなかったのだろうか。
もし誰かが爺の正体を知っていたとして、張り紙を出した目的は何だというのだろう。町の人間に恐怖を植えつけるため? それこそ理由がわからない。
まずはパコに話を聞いてみなければ始まらない。ニーナは胸の中で決めて、洗濯物を干し終えた。
しかしその日は折悪しく、パコを捕まえることができなかった。
***
翌日、町は朝から騒然としていた。
広場には大勢の人が詰めかけ、口々に不安を訴えている。薙ぎ倒された掲示板には、爪痕のようなものが深々と刻まれていた。気がついたのは早朝から散歩に出かけていた老人で、昨晩のうちに何者かが暴れ回ったことは明らかだった。
ニーナとパコとハッサンは真っ先に広場に駆けつけ、惨状を目の当たりにしていた。遅れてやってきた十六夜も、爪痕を目にして青ざめている。
「おいおい、嘘だと言ってくれ。あれはいたずらじゃなかったっていうのか?」
パコが呆然と呟いて、周りに気取られないようにニーナに目配せした。ニーナは小さく首を振って、関わりがないことを訴える。例に漏れず、ニーナは昨晩も眠り薬を飲んで深く眠っていたのだから。パコは深く頷いて信用を示した。
かといって爺の仕業とも思えない。彼もニーナと同じく薬を飲んでいるはずだ。ではいったい誰が。あるいは本当に爺が?
「やはり、狼はこの町に潜んでいるのだ」
拳を震わせながら十六夜が気色ばんだ。ついぞ目にしたことのない十六夜の形相に、ニーナは思わず唇を引き結ぶ。十六夜が筋金入りの狼嫌いであることはパコから伝え聞いていたが、思っていた以上であるのかも知れない。
「俺は先に戻っている」
「う、うん」
パコは十六夜の背中を見送ってから、ニーナに耳打ちした。
「あれは本当に人狼の爪痕なの?」
「私のものとは違う。でも銀狼のものかもしれない。見たことがないからわからない」
「そっ、か」
パコはまだ信じられないといった風に頭を振った。ハッサンは掲示板の前にしゃがみ込んで何事か悪態をついている。
するとごった返す人の間を縫って、見知った人物が近づいてきた。
「ニーナさん、パコさん。お二人も来てたんすね!」
「ネズミ」
妙に生き生きとしたようすのネズリーが、小走りに駆け寄ってきた。
「これで明らかになりましたね。やっぱり狼はまだこの町のどこかにいるんすよ!」
「ネズミさん、何だかうきうきしてません?」
「めっそうもない! 町の一大事っすよ。しかしこうなると『狩り』を行った町の英雄が黙っちゃいないでしょう。待っていてくださいね、自分はいまに真実を明らかにして見せますから」
ネズリーは灰色の瞳を爛々と光らせて、手帳にペンを走らせていく。そのさまがどこか異様に思われて、ニーナは眉を顰めた。ネズリーは譫言のようにぶつぶつと何かを呟いていたが、新たに広場に現れた人影を見るや否や、急にそちらへと駆けて行った。
ネズリーが声をかけたのは、小太りの男性であった。白髪混じりの明るい茶色の髪を撫でつけており、中折れ帽を被っている。身につけているモーニングコートは見るからに上等なもので、襟もとには金のピンバッジが光っていた。
「パコ、彼は誰ですか。随分と身なりが良いように見えますが」
「彼は議長だよ。この町のお偉いさん」
パコはうんざりしたように吐き捨てた。
「そうはいっても、彼はこの町が銀狼に蹂躙される間、何も手を打たなかったけどね。お偉いさんの名が聞いて呆れる」
ネズリーはいつもの調子で議長に食い下がっていたが、付き従っている部下らしき人物に引き剥がされたようだ。
「ともかくニーナちゃん、店に戻ろう。ここにいたって何も始まらない」
そう言ってパコは広場に背を向けた。ニーナもその後を追う。背後からはまだ何事かを喚いているネズリーの声が聞こえていた。




