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18.バターカップ

 女はバターカップと名乗った。彼女はそれ以来、海猫のスプーン亭に出入りするようになった。バターカップの垢抜けた容姿は人目を引く。彼女がいかにも堅物な十六夜に熱烈に迫るさまは、客たちの格好の話題となっていた。


「なあ、パコよ。いったいいつまで隠れていやがるつもりだ?」

 ハッサンが調理場の奥に身を潜めるパコに声をかける。

「しっ、料理長、声が大きいですってば」

 パコはハッサンの質問には答えず、食堂の方で例のごとく十六夜にまとわりついているバターカップを盗み見た。

「なあ、お前さんやっぱりようすが変だぞ。いつものお前さんなら、あんな美人を見れば一も二もなく口説きにかかるだろうに」

「人を何だと思ってるんです。ともかくこれには深いわけがあるんですって」

「はあ。別にいいけどよ。男と女の深いわけと言やあ、ま、一つしかねえわな」

 訳知り顔で頷くハッサンに、パコは慌てて抗議する。

「いやいやいや、とんだ誤解ですから。変な想像はよしてくださいよ」

「どうだかなあ。怪しいもんだ」

 ハッサンがパコとバターカップを見比べていると、ニーナが調理場に顔を出した。

「エビの天ぷらと握り飯と野菜スープ、二人分お願いします」

「はーい、天ぷら、天ぷらと」

 話を切り上げる絶好の機会と見て、パコは早速下ごしらえ済みのエビを手に取った。調子のいいパコのようすに、ハッサンが肩をすくめてみせる。

「何を話していたのですか」

「なあに、男と女の話だよ」

「男と女の話?」

「料理長、ニーナちゃんにおかしなことを吹き込まないでくださいよ……あちちっ」

「おいおい、いくら気もそぞろだからって火傷するなよ!」

 妙にそわそわしているパコに、ニーナは首を傾げた。


***


「ねえ十六夜君、何してるの?」

「帳簿をつけている」

「ふうん。ねえ、手伝ったげようか」

「心配無用だ」

「もう、いけずねぇ。あたし、これでも計算は得意な方なのよぉ」

 ロビーのカウンターの奥で帳簿と向き合う十六夜に、バターカップが蜂蜜のように甘い声で囁く。彼女がカウンターに肘をつくと、豊満な胸が狭苦しそうに形を変えた。十六夜は頬を染めて目を逸らす。

「や、やめなさい。はしたない」

「あらいやだ、照れてるのね。可愛いわぁ」

「と、ともかく。君に手伝ってもらう筋合いはない。用がないのなら早く帰ってくれ」

「そんなぁ、ひどいわ。あたし、ちゃんと食堂でコーヒーを頼んだもの。れっきとしたお客さんだわ」

「む……」

 十六夜は前髪を掻きむしって立ち上がった。

「ええい、俺はまどろこしいのは駄目なのだ。君の目的を話してくれ」

 十六夜の剣幕に、バターカップはきょとんとする。

「目的って?」

「俺に付きまとう理由だ」

「まぁ、野暮なことを言うのね。あたし、あなたの気を引きたくて一生懸命なの。どうにかしてあなたとお喋りがしたくて必死なのよ」

 山吹色の髪を梳きながら、バターカップが上目遣いで覗き込んでくる。十六夜はやや気圧されながらも、真剣にバターカップと対峙した。

「俺のような者の何をそんなにお気に召したのか知らんが、君の気持ちに応えることはできない。他を当たってくれ」

 きっぱりと宣言すると、バターカップが瞳を潤ませる。

「あたしがずうっと夢見ていたのは、狼から助けてくれたあなたなの。あなた以外にこの世のどこにもいないのよ。それなのに他を当たれっていうの?」

「そ、それは……済まない。俺の言い草が悪かった」

 十六夜は素直に非礼を詫びた。十六夜とて「ニーナとは脈がないから別の女に乗り換えろ」などと言われれば頭にくる。往々にして、人の心というものはなかなか合理的にはいかないものだ。

「しかしバターカップ殿。それとこれとは話が別だ。俺には心に決めた人がいる」

「それってニーナさんのことよねぇ? だけど彼女、十六夜君には気持ちがないみたい」

「ぐっ、それはそうだが」

 身も蓋もないバターカップの言葉に十六夜がたじろぐ。

「あなたはニーナさんに好かれていなくても、彼女のことを好きでいるわけなんでしょう。だのにあたしがあなたのことを好きでいるのを否定するのは、筋が通らないんじゃない?」

「それは、まあ、そうかもしれん」

「だからもっとお喋りしましょうよ。そしたらお互いのことがわかって、あなただってあたしのことが気にいるかもしれないし、反対にあたしの気持ちが冷めるかもしれないわ。まだどちらともつかないでしょう?」

「う、ううむ」

 バターカップと話していると、一事が万事この調子だ。彼女の口は思いの外よく回り、十六夜はいちいち丸め込まれてばかりいる。その軽妙な話ぶりは、どことなくパコを彷彿とさせる。十六夜は観念したようにため息をついた。

「わかった、俺の負けだ。話をするくらい一向に構わん。俺のような無粋な者と話して、君が楽しめるとは思えんが」

 十六夜の降参宣言を受けて、バターカップの表情が華やぐ。

「あら、そんなことないわぁ。あなたって、あたしが思い描いていた人とはちょっぴり違ったけれど」

「幻滅しただろう」

「まさか。想像していたより純朴で可愛い。もっと好きになっちゃったわぁ」

「か、かわいい?」

 顔中に疑問符を浮かべる十六夜を、バターカップが声を上げて笑った。


「十六夜」

 二人がすっかり話し込んでいると、買い物籠をさげたニーナが声をかけてきた。

「ニーナ殿、どうした?」

 目に見えて十六夜の表情が明るくなる。

「買い出しに行ってきます」

「ああ、よろしく頼む。ではこれを」

 十六夜は店の金の入った財布をニーナに手渡す。ニーナはこくりと頷いて、店を出て行った。バターカップは彼女の後ろ姿を白けたように見やってから、十六夜に向き直った。

「じゃあ、そろそろあたしもお暇するわねぇ、十六夜君」

「ああ。道中気をつけてな」

「ありがと。またねぇ」

 熱烈な投げキッスを寄越して、バターカップは去っていった。十六夜は少しだけ気疲れしたように苦笑していたが、やがて気を取り直して机と向き合った。


「狼から助けた、か……」

 十六夜はひっそりと呟くと、苦しげな息を吐き出した。悪夢を振り払うように頭を振って、帳簿に筆先を当てる。書き出された字は、ミミズののたっくたように歪んでいた。


***


「ねえ、ニーナさん」

 市場へ向かう道すがら、バターカップが追い縋ってきた。ニーナはバターカップを一瞥し、足を止めないまま答える。

「何か用ですか」

 バターカップはニーナの隣に並び立った。彼女はカリンほどの高身長ではないが、すらりとした手足の持ち主だ。丸みを帯びた肉感的な体つきをしていながら、ウエストは砂時計のようにくびれている。小柄で細身のニーナと並べば、まるで大人と子どものようだった。

 道行く人々がバターカップを振り返っていく。そのようすを満足そうに眺めながら、バターカップは猫撫で声を出した。

「あなた、十六夜君のことをどう思ってるの?」

「どう、とは?」

「もちろん、好きとか嫌いとか、そういうことよぉ」

 アップルと同じことを聞いてくるので、アップルに答えたのと同じことを返す。

「十六夜のことは好き。でもサケの方が好き」

「サケ? お魚の?」

 バターカップはくすくすと笑った。宝石のような瞳には、やはり敵意が滲んでいるように思える。彼女は今までニーナが出会ってきたどの人間とも違う人種だ。甘えた声や仕草の裏に、抜け目なく毒を隠し持っている。美しいトリカブトの花のように。

「そ。じゃあ、あたしがもらっちゃっても構わないわよねぇ」

「もらう?」

「あたしのものにするってこと」

「十六夜があなたのものになったら、どうなるのです」

「そうねぇ、家を借りて二人で暮らしはじめようかしら。そうして毎日一緒に過ごすわ。あなたの代わりにね」

 ニーナは十六夜が宿からいなくなることを想像した。十六夜はニーナの知らないことをたくさん教えてくれる。見たことのない物語を見せてくれる。十六夜がいなくなったら、カリンがいなくなったときと同じような思いをすることになるのだろうか。

「それは駄目」

 ニーナの言葉に、バターカップが眉を逆立てる。

「あら、どうして?」

「十六夜がいなくなったらつまらないから」

「あのねぇ。気を持たせるだけ持たせておきながら、気持ちには応えるつもりがない。だのにそばには置いておきたい。そんなの虫が良すぎると思わない?」

「何故? 気持ちに応えるとはどういうこと?」

「あなたって人に聞いてばかりね。あたしはあなたを謀るために嘘をつくかもしれないわよ? 嘘じゃなくたって、間違いを教えるかもしれない。少しも自分の頭で考えることをしないで、誰彼構わず軽はずみにおんぶに抱っこをせがむのはおやめなさい」

 ターコイズブルーの瞳が強気な光を帯びるのを見て、人知れずニーナの胸がざわつく。


「そんなことより、この町の市場ってあたしの好きなオレンジがたんまりあるのよねぇ。お土産に買っていこうかしら」

 バターカップは急に興味をなくした風に、豊かな髪を靡かせてニーナを追い越していった。

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