15.きっと全部うまくいく
窓から暖かい日差しが差し込んでいる。静かな部屋の中に、小鳥のさえずりと衣擦れの音が響く。
カットクロス代わりにシーツを巻きつけられた十六夜は、囚人のように大人しく座っている。うなじの上の元結が解かれると、癖のない黒髪が背中に流れた。
「さあ、己を曝け出す覚悟はいいか?」
「あ、ああ。よろしく頼む」
パコは十六夜の眼鏡を外して、前髪をめくりあげる。
「見えても大丈夫なんだな?」
「ああ、構わん」
「よしきた。おまかせあれ」
了解を得て、パコは十六夜の前髪に鋏を入れる。伸び放題の前髪を切り揃えていくと、左右で色の異なる切長の瞳が露わになった。左目は髪と同じ黒色であるが、右目は濁ったような灰白色だ。その上あるに痛々しい傷痕が目に入って、パコは急に尻込みする。狼嫌いを克服なんて本当にできるのだろうか。そんなことができるくらいならとっくに。
パコの懸念などつゆ知らず、十六夜はされるがままになっている。
「どうだろうか。少しは見られるようになったか」
「うん? ああ、安心しなよ。男前になりつつあるから」
「本当か?」
「僕の見立てに間違いはないさ。ほら」
鏡を見せるべく眼鏡を差し出すと、やんわりと断られる。
「いや、いい」
「何でさ。これがなきゃ見えないだろ」
「見えている。それはただの硝子なのだ」
「えっ、嘘だろ? 初耳だよ!」
パコは思わず素っ頓狂な声を上げた。十六夜が眼鏡をかけはじめてからもう三年になる。てっきり視力を矯正しているものとばかり思っていたのに、単なる硝子だとは。三年越しに知らされた驚愕の事実にしばし呆然とする。
「……まあ、それは置いといてだ。後ろの馬の尻尾も切っていいかな。どうせ手入れなんかしないだろ? あんた妙に風呂好きだから清潔っちゃ清潔だけど」
「お前に任せる」
「じゃあ遠慮なくいきますよー」
パコは十六夜の後ろ髪を手でまとめて、鋏を入れようとした。すると途端に心臓が喚き出す。焦点が定まらない。かつて見た光景と、十六夜の後ろ姿が重なって見える。鋏を持つ手がおこりのようにがたがたと震え出す。紐で絞められたかのように喉が狭まり、息ができない。
「あ……っ」
かつん、と床に何かが落ちる音。一拍遅れて、鋏を取り落としたことを認識する。
「おい、どうした」
「あー、ごめんごめん。手が滑った」
パコは取り繕って鋏を拾い上げる。しかし動悸は一向に収まらず、指先が氷水に浸けたように冷たい。
「顔色が悪いぞ。具合でも悪いのか?」
十六夜が気遣わしげに覗き込んでくるので、パコは笑って誤魔化した。
「いやいや、平気平気! ちょっと立ち眩みがしただけだから」
「疲れているのか? 母上に頼んで少し休みを入れてもらおうか。お前が倒れたら料理長が泣くぞ」
「そりゃ大変だ。心配しなくても僕はあんたみたいに我慢強くないから、だめなときはちゃんと音を上げるさ。さ、前向いた!」
パコは会話を無理やり打ち切ると、十六夜の後ろ髪に改めて刃先を当てた。気取られないように深呼吸を繰り返す。大丈夫だ。関係ない。忘れろ。
「……ちょっとだけ長めの方が、セクシーでモテるに違いないな」
「その方がニーナ殿も喜んでくれるか?」
「そいつは追々自分で確かめな、よっと」
悪夢の残滓を振り払うように、パコは思い切って鋏を入れた。
***
十六夜が階下に降りてくると、酒場はちょっとした騒ぎになった。伸び放題だった十六夜の髪が、綺麗に切り揃えられていたからだ。前髪は目にかからない程度の長さになり、傷跡が目立たないよう右に流されている。後ろ髪もばっさり切られており、頸の辺りで辛うじて括られている状態だ。野暮ったい瓶底眼鏡もすっかり取り払われていた。
「おいおいおい、どうしちまったんだ坊ちゃん、そのなりは!」
調理場から出てきたハッサンが感嘆の声を上げる。十六夜の後からやってきたパコが、得意げに肩を組んでみせた。
「僕の手にかかればざっとこんなもんですよ。どうです、なかなかどうして男前でしょ?」
「いやあ、すっかり見違えちまったぜ。こっちの方がいい男ぶりだ。なあ、女将さん」
「あらいやだ。こりゃ驚いたねえ、あの人の若い頃にそっくりじゃないのさ」
「そ、そうか。それなら良かった」
十六夜は安堵の息を吐いた。昔からの常連客たちも銘々の所感を口にする。「あんなに野暮ったかったのに、随分とましになったじゃねえか」「ああ。こりゃ色気づいたな」
アップルが興味津々とばかりに近づいて、十六夜の目の色に言及する。
「あら、坊ちゃん。左右で目の色が違うんですね」
すると一瞬、辺りが水を打ったように静まり返った。不思議そうにしているアップルに、十六夜は何でもないことのように答える。
「ああ、そうだ。おかしいだろうか」
「いいえ、全然。かえってミステリアスで素敵ですよ」
「そ、そうだろうか」
照れ臭そうにする十六夜のようすに、パコは胸を撫で下ろした。危惧していたほどには、当人は気にしていないのかもしれない。するとちょうどそこに、買い出しからニーナが戻ってきた。手にした籠の中には果物がどっさり入っている。
「おかえり、ニーナちゃん。大漁だね」
「おまけをしてもらいました」
パコはニーナから荷物を受け取ると、十六夜の肩を押しやる。
「ほら、お姫様のお帰りだぞ。何か言うことあるんじゃないの」
「あ、ああ」
十六夜はぎくしゃくとした足取りでニーナの前に出る。
「ニーナ殿、お帰り。ご苦労であった」
「はい……あ」
ニーナは十六夜を見上げて、首を傾げる。
「髪が短くなった」
「あ、ああ。おかしいか」
「いいえ」
黄金色の大きな眼がまじまじと十六夜の顔を検分する。十六夜は茹蛸のように真っ赤になって後ずさる。周囲も固唾を飲んで見守っているため、ニーナの長い睫毛の上下する音が今にも聞こえてきそうだった。
「はじめてあなたの顔をちゃんと見た気がします」
「あ、う」
「綺麗な目」
「……っ! ……!」
十六夜は直立不動のまま、声にならない声を上げている。今にも頭から蒸気を噴き出さんばかりの様相に、常連客たちはやんややんやと囃し立てる。
「おーい、誰か水を差してやりな。故障しちまうぞ」
「やれやれ、こんなんじゃ先が思いやられるな」
酒場に喧騒が戻ってくる。ニーナは何事もなかったかのようにエプロンと腕章をつけて業務に戻っていく。十六夜は野次が耳に入っているのかいないのか、心ここに在らずといった有様でロビーの方に出ていった。
パコは調理場の奥に引っ込むと、ほっと息をついた。一時はどうなることかと思ったが、存外うまくいくのではなかろうか。そこまでいって、パコは自分の考えを打ち消した。周囲がどれだけ気を揉もうと、結局はニーナに気持ちがなければそれまでだ。
しかしニーナと特別な関係になろうがなるまいが、最終的には十六夜は彼女の正体を受け入れてくれるに違いない。そうなればきっと──
全ての歯車がうまく噛み合うことを祈りながら、パコは洗いものを手に取った。
しかしそれからすぐに思い知ることになる。
事はそんなに簡単ではない、と。




