11.知性なき獣②
「船尾にクラーケンをへばりつけたまま呑気に航海してた、って言いましたよね。だったら、クラーケンはまったくの無害です」
「はあ? そりゃあどういうことだぁ、坊主」
疑問の声を上げたのはサルマンではなくヤン・トンであった。パコは苦笑する。
「クラーケンが船にへばりつくのは単なる求愛行動ですから。下手につついたら暴れ出して手に負えなくなるけど、ほっといたら袖にされたと思い込んで勝手に離れていくんですよ。僕たちだって女性に素気なくされたら、たちまちその気をなくすでしょ? それと同じことですよ」
「求愛行動だあ?」
「そうそう。クラーケンは船のお尻にくっつきますよね。皆さんも、ほら、女性のお尻を追いかけ回した経験があるのでは?」
「な、なんと破廉恥な……」
十六夜が顔を真っ赤にして俯く。全く話が見えないニーナは、軽妙に語るパコをただ見つめた。
「しかし、何故クラーケンが船に求愛を?」
ドロンゴの問いに、パコはおどけた口調で答える。
「そりゃ決まってますよ。なんたって船は女性ですから。ですよね。サルマンさんの故郷でも、船は女性名詞でしょ?」
パコが言葉を切ると、倉庫は静まり返った。ランタンの明かりがゆらゆらと揺れる。値踏みするようにパコの顔を注視していたサルマンが、急にのけぞり返って大笑いをした。
「ああ、そうだ。よく知ってるじゃねえか! 手をかけてやらなけりゃあ、すぐへそを曲げる。船は気位の高ぇ女だ。俺様の船も、決して手の届かねえ高貴な女の名を冠している」
途端に上機嫌になったサルマンが煙草の火を揉み消す。すると、今まで押し黙っていた右京が口を開いた。
「サルマン殿。私の船も、愛する妻の名を冠している」
「ほう、何て名だ?」
「私の最愛。麗しのシャルロッテ号」
ニーナは頭の中に女将の姿を思い浮かべた。十六夜が耐えがたいといった風に、赤面した顔を片手で覆った。
「そうかい、そうかい、いい名だ! 麗しの女房に劣情を催されたとなりゃ、さぞかし腸が煮えくりかえったことだろうよ」
傑作だと言わんばかりに笑い転げるサルマンの姿に、一同は毒気を抜かれた。サルマンはテーブルから足を退けて姿勢を正す。
「俺様が見つけたとき、あんたの船は旋回していたな。正しい判断だ。こいつの言う通り、クラーケンはほっときゃねぐらに帰ってくもんだからな。よその領海に踏み入っちまったのは操舵手の腕が未熟だったんだろうが、何せ無害だからな。通行権を認めざるを得ねぇよなあ」
さっぱりと告げてサルマンは立ち上がる。右京は再び深々と頭を下げて「かたじけない」と言った。
***
サルマンは海域を超えた船を目敏く見つけては、意地悪く吹っかけることを繰り返していたようであった。相手が逆上したり萎縮したりすればつけ込んで、あくまで理性的に対応すればあっさりと引き下がる。そしてたまたま話が合えば、酒を飲み交わして夜を明かすのだった。
ほどなくして倉庫は宴会場に姿を変えた。互いの船から持ち寄った酒を飲んで、一同は大いに盛り上がった。そこで改めて事の顛末が語られた。
クラーケンの生態についてはこの辺りでは周知されていないが、右京は経験則からそれを知っていた。彼はクラーケンがへばりついていることにいち早く気づき、操舵手に旋回を指示した。熟練の操舵手であれば問題はなかったが、彼は操舵手になってから日が浅く、うっかり他国の領海に入ってしまった。そこを折悪しく、砂薔薇の海賊衆に見咎められてしまったということだった。
サルマンは右京が東の国から仕入れてきた積荷を、破格で買い叩こうとしていたらしい。東の国と交易のない自国に進言するためだという。右京は気前良く穀物や酒の一部を譲り、航海に欠かせないレモンやライムを土産に持たせた。
「全く、最初からそれが目的ならばそう言えばよいものを」
十六夜は喧騒から離れて、やけ気味に酒を煽った。
「はは、あの意地汚さが海賊たる所以なんでしょ。何にせよ、穏便に済んでめでたしめでたし」
軽口を叩くパコに向かって、十六夜は居住まいを正した。
「パコ、お前のお陰だ」
「何だよ、改まって」
「俺は何もできなかった。狼狽えるだけの木偶の棒だった。それに引き換え、お前はものをよく知っているし弁も立つ。お前がいなければどうなっていたことか」
深く頭を下げる十六夜に、パコは面食らう。
「いやいや、猥談しただけでそこまで褒められても。あの手の話は全部姐さんたちの請け売りだし。そもそも親父さんは最初からうまくやってたわけだろ」
「ああ。だが父上はその、あの通り口下手というか、世渡り下手というか。決して言い訳をしない人間だろう」
十六夜が苦々しそうに眉間を押さえる。右京が見た目にそぐわず鷹揚な性質であることは周知の事実だった。十六夜は偉大な船乗りである父を尊敬する一方で、気を揉むことも多いようだった。
「パコ、俺はお前に助けられてばかりだ。ありがとう」
十六夜の率直な感謝の言葉に、パコは尻むず痒い思いで顔を背けた。
「……僕はそんな大層なものじゃない」
「すまん、何か言ったか?」
「あんたのそういう純朴なところを好いてくれる乙女がいつか現れるだろうって言ったんだよ」
「十六夜、パコ」
倉庫の隅で語らう二人のもとに、右京が顔を出した。
「父上」
「あ、親父さん」
「可愛い息子たちよ。父のために力を尽くしてくれてありがとう。愛しているぞ」
鍛え上げられた太い腕で力いっぱい抱きしめられて、二人は苦しさに身悶えた。
***
ニーナはむしゃくしゃしていた。かの協議の場において、ニーナは完全に蚊帳の外だった。
サルマンは気に食わない。しかしニーナは彼と対話するための言葉や知識を持たなかった。そのことが今まで感じたことのない、得体の知れないもどかしさを生んでいる。
「よお」
煩悶するニーナの前に、サルマンが現れた。ニーナはキッと男を睨み上げる。唇を愛刀の形に曲げて、サルマンは身を屈めた。プラチナブロンドの三つ編みがはらりと肩からこぼれる。ニーナの耳もとに口を寄せ、サルマンは揶揄するように声を潜めた。
「あんた、獣臭ぇな」
全身の毛が逆立った。ニーナは反射的に爪を立てようとしたが、サルマンにひらりと躱される。
「おっと。暴力に訴えるとは感心しねぇな。この町の人間が一番嫌うことなんだろ?」
「黙りなさい」
「ふん。所詮は知性なき獣、か」
赤銅色の瞳に失望の色が浮かんだ。屈辱のあまり、全身の血が焼き石をくべられたかのように沸き立つ。
「私への侮辱は許さない」
「おいおい、事実だろ。今あんたは一時の激情にまかせて、あいつがしたことを水の泡にしようとしたんだぜ?」
サルマンは顎をしゃくって、右京から熱烈な抱擁を受けて苦笑いしているパコを指し示した。ニーナははっとして爪を引っ込める。サルマンの機嫌を損ねれば、せっかく纏まった話を反故にされてもおかしくないのだ。
「ま、心配しなくたって、んなこと吹聴して回るほど俺様も暇じゃねえ」
サルマンはすっかり興味を失った風に、睨み上げてくるニーナに背を向けた。
「つまんねぇ女」
ニーナの胸中に、サルマンの言葉が焼き入れられたように刻まれた。
──所詮は知性なき獣か。