10.知性なき獣①
十六夜の父・右京は海猫のスプーン亭の直接的な営業には関わっていないが、貿易業に従事する立場を活用して、特産品などを安く買いつけては食堂に提供していた。そのため海猫のスプーン亭の従業員からも「御頭」と呼ばれ慕われている。倉庫に備蓄されている穀物や酒などは、専ら彼が出生地である東の国から仕入れてきたものだった。
「さて、落とし前つけてもらおうか」
褐色の肌の男はサルマンと名乗った。彼は埃っぽいテーブルの上に両足を放り出して、葉巻たばこをふかした。ランタンの明かりが揺れるたび、艶っぽい顔立ちに深い陰影が刻まれる。
使われなくなった商館を改装した積荷倉庫で、一同は対峙していた。サルマンの周囲には黒いブレザー姿の男たちが控えている。差し向かいには右京、商人ギルドを代表して醸造業者の主人のドロンゴ、大工の棟梁のヤン・トン、そして十六夜といった面子だ。十六夜はギルドにとってまだ新参者であったが、偶さかその場に居合わせたこと、また当事者の息子であることから、喫緊の協議の頭数に入れられることになったのだ。ハッサンは十六夜に説き伏せられて、差し当たっての危険がないことを知らせるために宿に戻っていた。
「落とし前とはどういうことですかね。彼は有能な船長だ。あなた方の手を煩わせるような真似をするとは思えないが」
ドロンゴが強い口調で詰め寄る。酒屋を切り盛りする彼の腕は丸太のように太い。いかつい体躯に似合わず、栗色の髪と口髭は丁寧に切り揃えられている。
「そうだぜ。下手な言いがかりならよしてくれよ」
いかにもがらっぱちなヤン・トンは、見た目通りのぶっきらぼうな物言いをした。つるりと剃った頭のてっぺんまでしっかりと日に焼けている。いくつもの傷跡が走った腕を組んで、ヤン・トンはサルマンを威嚇する。サルマンは二人の高圧的な態度に鼻白んで、赤銅色の瞳を尖らせた。
「じゃあ言わせてもらうが。こいつの船が領海を侵したんだよ」
彼らが深刻そうに額を集めるようすを、戸口の陰からパコとニーナが見守っていた。十六夜には宿に帰るように言われていたが、口出しをしないことを条件に、無理を言ってこの場に留まっている。
「おかしいな。あの親父さんがそんなヘマをするとは思えないけど」
「何の話をしているのですか」
「あー、えっとね」パコが掻い摘んで説明する。「国にはそれぞれ固有の海域があって、勝手に入ることは禁じられているんだよ」
かつて海上を荒らし回っていたという海賊は、今となってはほとんどいない。サルマン率いる「砂薔薇の海賊衆」によって掃討されたからだ。
砂薔薇の海賊衆は海賊と称されてはいるものの、事実上の海上警備隊であった。彼らは特例として海域の垣根を超えて活動することを許されている。不審な船を追い払ったり、座礁した船を助けたり、水先案内を担ったりと、近海の保全に寄与する彼らのはたらきは枚挙に暇がない。ただし、その度に彼らは手数料と称して法外な報酬を要求するのだった。
今回は右京の貨物船が他国の領海に侵入してしまい、海賊衆に拿捕されるに至ったということらしいのだった。
「しかし大丈夫かよ、十六夜の奴。ああいう輩とはとことん相性が悪いんだよなあ」
「そうなのですか?」
「うーん、まあね。あいつはいつも、真面目が高じて馬鹿を見るっていうか」
パコが困ったように眉を寄せて笑った。
「しかし、サルマンさん」
ドロンゴが前に出る。
「何かの手違いで他国の海域に入ったとしても、害をなさなければ通航権が認められるはずです。国際法でそのように定められているでしょう」
「ああ、確かにそうだ。だかクラーケンを連れてきておいて害がないってのは、土台無理な話なんじゃねぇか?」
クラーケン。三者が口々にその名を呟く。視線を集めた右京は申し開きをするようすもない。
「こいつらの船、馬鹿でっかいクラーケンを船尾にへばりつけたまま、呑気に航海してやがったんだぜ。他国の領海に危険生物を持ち込むなんざ言語道断だ。俺様が通りがからなけりゃ、どうなってたことか」
サルマンは肩をすくめて紫煙をくゆらせた。
「返す言葉もない。しかし貴殿が引き剥がしてくれたお陰で事なきを得た。感謝している」
右京は深々と頭を下げた。硬い表情の十六夜も「父を、引いては船を救ってくれたことに感謝します。ありがとうございます、サルマン殿」と続ける。だがサルマンは鼻を鳴らすだけだった。
「感謝なんざクソの役にも立たねえ。あんたは国際法で裁かれることになるだろうよ」
「覚悟の上だ。皆が無事であればそれで良い」
「父上、そんな」
血の気のひいた顔で、十六夜が縋るように父を見た。
「パコ、クラーケンとは何ですか」
ニーナが小声でパコに尋ねる。
「べらぼうに大きいタコのことだよ。いや、本当に無事でよかった。必死に撒こうとして、誤ってよその領海に入っちゃったってとこかなあ」
タコならば港で見たことがある。足がたくさんある不気味な魚のことだ。どれくらい大きいのだろう。ニーナは想像した。広場の時計塔くらいだろうか。そんなものが非力な人間の手に負えるとは到底思えない。
何よりニーナはサルマンという男のことが気に食わなかった。横柄な態度に、厭らしい含み笑い。全てが神経を逆撫でする。難しいことはニーナにはわからないが、少なくとも今この場で、十六夜の顔を曇らせているのはあの男なのだ。そう思うと無性に我慢がならなかった。
「待ちなさい」
ニーナが声を上げると、一斉に男たちの視線が集まった。ニーナはつかつかとサルマンに歩み寄る。
「ニーナ殿……?」
「サルマン。私はあなたが気に入らない」
「何だ、女」
サルマンが細い眉を不快げに跳ね上げる。
「ニ、ニーナちゃんっ、駄目だって」
慌てて追い縋ってきたパコがニーナの袖を引く。しかしニーナは止まらない。
「つまり、大きなタコが全て悪いのでしょう。ではタコを裁けばそれで終わりでは?」
「おいおい、頓珍漢にもほどがあるぜ」
心底馬鹿にしたようにサルマンがにやつく。ドロンゴとヤン・トンは顔を見合わせ、十六夜は言葉を失っている。右京だけは表情を変えることなく、じっと前を見つめていた。
「あんた邪魔だな。話をする価値もねぇ。おい、摘み出せ」
サルマンが顎をしゃくると、黒服の男たちが動き出す。彼らがニーナに手を伸ばそうとしたとき、パコが慌てて割って入った。
「ちょ、ちょっと待ってください! 一つよろしいでしょうか」
首筋に冷や汗を滲ませたパコが、まっすぐにサルマンを見た。