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01.ニーナ

「ほら、これが御所望の薬よ」

 森の魔女は硝子の瓶を机の上に置いた。瓶の中身はいかにも怪しげな青色の液体で満たされている。十六夜は薬瓶を恐る恐る手に取って、眼鏡のブリッジを押し上げた。

 十六夜のカラスのような漆黒の髪は伸び放題で、後ろで一つに括られている。同様に前髪も長く、そのうえ瓶底眼鏡をかけているため、両目はほとんど覆い隠されている。シャツの上に着込んだ濃紺の羽織りはこの地域では見かけないものだが、足もとはよくある黒いズボンと編み上げブーツという格好だ。傍目にも、容姿に頓着しない主義であることがよくわかった。

「おお、これが狼の正体を暴くための秘薬か。して、どのように使うのだ」

 魔女は芳醇な赤葡萄酒の色をした唇をゆるく曲げた。赤らんで尖った爪の先が、焦らすように宙を攪拌する。

「聞いて驚きなさい。この薬は狼の血と混ざり合うと、そりゃみごとな金色に変わるのよ」

「なんと面妖な! ……待てよ。どいつが狼かわからないのに、どうやってその血を手に入れろと言うのだ」

「あら、そんなことはあたしの知ったこっちゃないわよ」

「なっ……町中の者に頭を下げて血を貰って歩けとでも言うのか? そんなやつは蚊か辻斬りくらいのものだろうが」

「ツジギリってなに? ともかく、あたしはお望みの品を渡したんだから。後のことはあんたたちで知恵を絞って考えなよ」

 十六夜は口の端を引き攣らせながら、距離を置いて見守っているパコを見やった。助けを求める視線に気づいたパコは、明後日の方向に目を逸らす。

「おい」

「言っとくが僕は一介の料理人だからな。知恵を絞るとか煮るとか焼くとか、そういうのは門外漢だよ」

 パコは涼しい顔で口笛を吹いた。十六夜とは反対に、パコの出立ちには洒脱さがあった。金髪に流行りのキャスケットを被り、首もとのボタンを深めに外した麻のシャツにベストを着込んでいる。

 友のそっけない返事に十六夜は歯噛みする。納得はいかないが、魔女は確かに約束を果たした。初めに交わした契約書にも「甲は乙の提供する商品について一切異議申し立てを行わないものとする」と明記してあるのを、先ほどわざわざ確認させられた。こういうものは決まって、きちんと目を通さずにサインをする方に責任がつきまとう。十六夜も商売人の端くれとして、この手のことには細心の注意を払っているつもりであったが、このときばかりは気が逸っていた自覚がある。何しろ、狼にまつわることなのだから。

「致し方あるまい。あいわかった。苦心してみることにしよう。魔女よ、感謝する」

 十六夜は不平を飲み込んで財布を取り出した。ゆるやかに波打つ髪を掻き上げて、魔女は差し出された紙幣を勘定する。

「毎度ありぃ。かなり強力な薬だから、ごくわずかな血痕に対しても大いに反応するわよ。あ、そんなことより! 新作を読ませてもらったわよ、センセ」

 領収書にサインをしながら魔女が顎をしゃくってみせた。見ると、ベルベットの椅子の背もたれに読みかけの新聞が打ちかけられている。

「おお、如何であったか。今作は渾身の出来栄えであったと自負している」

 前のめりになる十六夜をよそに、魔女は白けたようすで顎にペンの尻を当てる。

「あ、そ。しかし随分夢見がちな物語ねえ、箒に乗って空を飛ぶなんてさ。動力源は何なのよ。蒸気? 火力?」

「なんと無粋な! 無論、魔法の力に決まっているだろう」

「非科学的ねえ。時代錯誤なんじゃない? あれを読んで、うちの店に無茶な注文をつけにくるお客が増えたらどうしてくれるんだか。うちは単なる薬屋なんだから。あんまり酷いと迷惑料取るからね」

「くっ、君には浪漫というものがわからんのか」

「うーん。魔女の方がよっぽど現実主義だな、センセイ」

 だんまりを決め込んでいたパコが、気遣わしげに十六夜の肩を叩いた。

「さ、用も済んだし、そろそろお暇しようじゃないか」

「ああ。日が落ちると魔女の森は迷いの森に変ずるからな」

「帰りの列車がなくなるからだよ。じゃあ今日はありがとね、森の魔女さん。今度お礼に頬っぺたが落ちるビスケットを焼いてくるね」

 懐中時計をポケットに仕舞ったパコは、魔女にウィンクを送って帽子を被り直した。それに倣って、十六夜も着物の懐に薬瓶を仕舞い込んで頭を下げる。

「魔女よ、もし本当に迷惑を被ることがあれば言ってくれ。では失敬」

「はぁい、今後ともご贔屓に!」

 二人が店を後にするのを見守って、魔女はランタンに火を灯した。所狭しと並ベられたガラス瓶や鉱物類が光を反射する。橙色の光を宿した瞳が、来るべき混沌を憂えて伏せられた。

「あたしに出来るのはここまでね。あとはあんた次第よ、狼ちゃん」


***


 森の入口から魔女の店までの道は、しっかりと舗装されていて歩きやすい。夕刻になると魔女と契約しているカラスがガス灯を点けて回るため、日が落ちても足もとに不安を覚えることはない。

 生い茂る緑の天蓋の隙間から、細い三日月が薄っすらと浮かんでいるのが見える。月が満ちると、十六夜は部屋から一歩も出てこなくなる。

「そんなにしょげ返るなって。中にはあんたの小説を好きだと言ってくれる乙女もいるかもしれないだろ」

「そうだな……いやそうではない。今俺が考えているのは、狼のことだ」

 パコの軽口を受け流し、十六夜は伸び放題の前髪を掻きむしった。

「人に成りすましているであろう狼を、如何にして見破ったらよいのか。『狩り』の後に町にやってきた者を洗い出せば、あるいは……」

「片っ端から尋問していくってのか? 逆にあんたが捕まるぞ。第一、事件からこっち、いったいどれだけの人が移住してきたと思ってるんだよ。百や二百じゃ利かないぞ」

 意気込む十六夜とは対照的に、パコは呑気に跳ねた毛先を弄っている。

「お前、真剣に考えていないな?」

「そりゃ信じてないもん。あんなのいたずらに決まってるんだからさ」

「何故そう言い切れる」

「え? だってそりゃあ……あれ、こんなところに焚き火の跡がある」

 話の途中で、パコが草むらに屈み込んだ。舗装された道の脇に、焦げた薪が放置されている。

「ここ魔女の私有地だよね。勝手に誰かが野営してたのかな。バレたら罰金を取られるよ」

「既にカラスが魔女に報告しているのではないか?」

「いやあ、カラスはちゃっかりしてるからなあ。契約外の仕事はしないと思う」

 薪はまだ少し燻っていて、闖入者がこの近くにいるであろうことを示唆していた。十六夜は周囲を見渡したが、不審な影は見当たらない。

「ああ。だがしかし俺たちには縁のないことだ。油を売ってないで、早く行くぞ」

「……待った。何か聞こえない?」

 やおら立ち上がったパコが耳をそば立てる。十六夜も耳を澄ませるが、風が木々をざわめかせる音しか聞こえない。

「何も聞こえんぞ」

「歌だよ。女の子の歌声。ほら、向こうの方から」

 パコは森の奥へ続く小道を指差した。そのまま十六夜の返事を待たずに歩き出す。

「おい、パコ。どこへ行く。深入りすると迷いかねんぞ!」

「平気平気、そんなに遠くないよ。とっても綺麗な声だから、きっと絶世の美女に違いない」

「お前、女に目がないのにも程があるぞ!」

 パコの後を追って、十六夜は鬱蒼とした森の奥へと分け入った。木立の間を縫いながら、左耳に手を当てる。微かにではあるが、女の歌声らしきものが鼓膜を震わせた。

「……あまり達者ではないな」

「うんうん。なかなか愛嬌があるじゃない」

 獣道を通り抜けていくと、やがて開けた場所に出た。そこには小さな泉が湧いており、畔に生える樫の木に古ぼけたランタンが吊るされている。

「誰もおらんではないか」

「おかしいな、確かにこの辺りから聴こえたはずなんだけど……」

 すると何の前触れもなく泉の水面が盛り上がり、飛沫と共に一人の少女が顔を出した。

「ひぇっ、びっくりした!」

「なな、何奴!」

 ひしと身を寄せ合う二人の男を、少女はじっと見上げた。静脈が透けるほど白い肌に、濡れそぼつ白い髪。身体中のどこもかしこも新雪のように真っ白な中、釣り上がった両目だけが黄金に光っている。少女は水から上がってきて、顎までの短い髪を振り乱した。不釣り合いな黒いワンピースが身体に張りついて、華奢な線を浮かび上がらせている。

 十六夜は呆然として少女を見つめた。濡れて露になった丸い額。扇のような睫毛。気品のある相貌の少女が獣のように水を浴びているさまは、十六夜の目にひどく神秘的に映った。

「い、泉の女神、か?」

「ばか、どう見ても人だろ。水浴び、かな? 最中に邪魔してごめんね。素敵な歌声が聴こえてきたもんだからつい……君の名前は?」

 パコに問いかけられ、仄かに色づいた小さな唇が花開くように解けた。

「ニーナ」

「いい名前だね。僕はパコ、こっちは十六夜。よろしくね」

 パコが帽子を胸に当てて一礼をする。十六夜は横合いからパコの脇腹を小突いた。

「お、おい、女神の水垢離を邪魔立てをするものではない。不敬だぞ」

「引っ搔き回すなよ。この子、この森が魔女の私有地だって知らないで勝手に野営してたんでしょ? 僕らが注意してあげないと、罰せられちゃうよ」

 小声の応酬を交わす二人を尻目に、ニーナはワンピースの裾を絞りはじめる。見かけに寄らず張りのある太腿が露わになり、十六夜は狼狽して目を背けた。

「なんと破廉恥な! ニ、ニーナ殿といったか。ここは魔女の土地だ。無断での滞在は禁じられている。速やかに立ち去った方が身のためだ」

「ここに住んではいけないのですか?」

 金色の眼が真っ直ぐに十六夜を見る。

「そうだ。いたずらに魔女の機嫌を損ねると、恐ろしい目に遭うやも知れんぞ」

「……そうなのですね。分かりました」

 ニーナは素直に首肯した。十六夜とパコは揃って安堵の息を吐く。

「それでは、あなた方が私に新たな住処を用意なさい」

「え?」

 あまりにも突拍子もない要求に、二人は顔を見合わせた。


***


「で、思わず連れて帰って来ちまったというわけだね!」

 女将は小山のような体を揺らして笑った。

「もちろん、うちは構わないよ。ちょうど猫の手も借りたいと思っていたところだしね。でも本当にいいのかい? 見たところあんた、いいとこのお嬢さんみたいだけど」

 ニーナはしなやかな白い髪を梳りながら、こくりと首を縦に振った。

「うーん。打っても響かない感じがすごいけど、本当にわかっているんだろうか」

 パコは神妙な顔つきで腕を組んだ。

 森の泉で出会った少女は、帰る宛てがないと言った。理由を聞いても今ひとつ要領を得ず、ひとまずねぐらに連れて帰ってきた次第である。

「もし声をかけたのが僕たちじゃなかったらと思うと、ぞっとしないよ。ならず者の類だったら、今頃口にするのも憚られるような酷い目に遭わされてたかもしれないんだから」

「いいことしたじゃないのさ。困ってる娘を放っておくような息子に育てた覚えはないからねえ!」

「あいたっ」

 女将はパコの背中を手加減なしに叩いた。涙目でむせ返っているパコの手に、鉄製の鍵を握らせる。

「宿舎の二階の奥の部屋が空いてるから、好きに使いな。パコ、この宿の中を案内しておやり。厨房のことは気にしなくていいから」

「ありがとうございます、女将さん。ニーナちゃん、こっち。ついておいで」

 パコが先導すると、ニーナは無言のまま後についてきた。


 「海猫のスプーン亭」は青珊瑚町に古くからある宿屋だ。 玄関を入るとロビーがあり、宿泊客はここで受付を済ませる。奥に進むと食堂兼酒場があり、カウンター席の向こうには調理場が広がっている。料理人であるパコは、専らこちらに詰めていることが多い。ロビーの右手から階段が伸びており、その先は客室だ。四部屋ずつ向かい合って合計八部屋。そのうち一つは物置だ。廊下の突き当たりからは渡り廊下がのびていて、本館と宿舎を繋ぐ構造になっている。

「ここが僕たちが住んでいる宿舎だよ。一階は共用ルームだから自由に使っていいけど、読んだ本は必ず元の場所に戻してね。裏口からは庭に出られるよ。洗濯物は庭に干してるんだけど、如何せん量が多くってさ。お向かいのパン屋さんの壁との間にも吊るさせてもらってるよ」

 パコは立て板に水の如くしゃべり続けながら、ニーナに気さくな笑顔を向ける。紫色の瞳のふちにある泣きぼくろが、彼に色男然とした雰囲気を纏わせているが、ニーナは別段何の感情も抱いていないようだった。パコの説明を聞いているのかいないのか、舎内をきょろきょろと見回しながら黙々と後ろをついて回っている。

「ここ、二階の奥の部屋がニーナちゃんの部屋だよ。手前の部屋は他の住み込みの女性が使ってるから、明日紹介するね。三階には僕たち男衆と女将さんが住んでるけど……ちゃんと鍵がついてるから安心してね! もし部屋で誰かとデートしたいってときには、表のプレートを裏返しにしておいてくれたら誰も邪魔に入らないから」

 ドアプレートを裏返すと「放っておいて!」という文句が刻まれている。ひとしきり話し終えて、パコはほぼ無反応のニーナに向き直った。

「えーっと、何かご質問は?」

「住み込みの使用人が、私の世話をするのですか?」

「おっと、そうきたか」

 パコは眉間を押さえた。ニーナは相変わらず表情を変えないまま、小首を傾げてパコの答えを待っている。

「ニーナちゃん、ここに住んでるのはこの宿で働いている人たち。使用人じゃないんだ。君も明日から、僕たちと一緒に働くことになるんだよ。働かざる者食うべからず、だからね」

「働く? 働くとはどういうことですか?」

「えっと、薄々そんな気はしてたけど、君はさっき自分が拇印を押した契約書をまったく読んでないよね?」

「先程の紙切れのことですか。当然です。私は文字が読めませんから」

「やっぱり。ああ、返す返すも君を拾ったのが僕たちで良かったなあ……これが不逞の輩だったら、とんでもなく寝覚めの悪い展開になってたところだよ」

 その場にへたり込みそうになるパコを、ニーナは不思議そうに見つめる。

「まあいいや。仕事のことも諸々のことも、これからゆっくり教えていくから。とりあえず、今日はもう休もう。疲れたでしょ?」

 パコが部屋を開けると、ベッドと机と椅子、バスタブが備えつけられた簡素な空間が現れた。

「今日からここが君のお城だよ。もしも僕とデートしたくなったら気兼ねなく言ってね! いつでも大歓迎だから」

 パコはオイルランプに火を入れ、部屋の扉の横にあるフックにかけた。艶やかな金髪に縁取られた中性的な面立ちに、ふと影が差す。紫の瞳がニーナを窺い見る。

「ニーナちゃん、あのさ……うん。やっぱりいいや。じゃあ僕は失礼するね。チャオ、お姫さま!」

 パコはわずかに垣間見せた躊躇をかき消すように、投げキッスをよこして部屋を出て行った。


 一人になったニーナは、窓を開けて外の風景を見下ろした。灯台の明かりが遠くに見える。夜の海は凪いでおり、水面に三日月が映りこんでいた。

「人の形で長くいるのは久しぶり」

 自らの白い指先を眺めながら、ニーナは独り言つ。青白い月の光が円やかな頬を濡らしている。満月をふたつ並べたような双眸が、夜闇に爛々と光っていた。

「いったいどこにいるのですか、爺」

 小さな問いかけは、潮風に乗って消えていった。

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