番外編・ある聖女の幸福論
こちらの番外編は、聖女視点の一人称になります。
(本編は護衛視点・三人称)
《リーヴェ視点》
「長らくお待たせしてすみませんでした。……どうぞ、リーヴェ様」
目の前に、コトン、と置かれた白い皿。
その上に乗っているのは、見事にふわっとした、美しい狐色の、ほかほかと湯気の立つパンケーキ。
添えられているのは、ふわふわのホイップクリーム。そして、赤い宝石のような艶のある苺ジャム。
ごくりと喉が鳴る。甘くて香ばしいにおい。たまらねえ……!
「……よし」
あたしはぐっと気合いを入れた。
こんなパンケーキ、普段なら三秒で食える。でも今日はそんなもったいない食べ方はしない。
ナイフとフォークを手に取り、神聖な儀式のように、サクリと切れ目を入れた。
…………やらかい。ふわっふわ。断面のたまご色はもう、芸術の粋だろ……
一口分を切り取って、フォークを刺す。それを口元に運ぶ。
そんな一連の動作を、すぐ隣に立っている男──本業は聖女の護衛で、このパンケーキを作った菓子職人予定──は、ひどく緊張した面持ちで見守っていた。
+++++
────あたしの名は、リーヴェ。
姓はない。平民出身。そして元"野良猫"……路上生活の孤児だった。
すべての始まりは、国を襲った大飢饉からの、一家離散だった。
親に捨てられ孤児になったあたしは、たった六歳で、年の近い兄と放浪することになった。
生きるために、二人で何だってやった。でも、兄はある日、寝ぐらに帰って来なくなった。おそらくどこかで行き倒れたのだろう。
とうとう、あたしは一人になった。
八歳の時、あたしは娼館に拾われ、そこの下働きになった。寝床やご飯は与えられたけど、"野良猫"とはまた別の地獄だったと思う。今思えば、だけど。
そして娼婦になるか、逃げて別の道に進むか、迷っていた十歳の頃。
王都から訪ねてきた使者が、「あなたは神託で選ばれた聖女です」とあたしに告げた。
……意味わかんねえよな。娼婦になる予定の、無力な子どもがいきなり聖女とか。
本気で新手の人買いかと思ったわ。
翌日、王都の大神殿に連れていかれ、それから毎日毎日修行に明け暮れることになった。
修行は血反吐を吐くような厳しさだった。おかげで聖女の力は顕現し、神託の仲間と一緒に、"悪鬼"をブッ殺したっつーわけだ。
以上。
……まぁ、そのあとは、大神殿の聖女としていろんな仕事をこなしてきた。
でもさぁ。「三つ子の魂百まで」って言うだろ。あたしはまさにそれで。
"野良猫"時代に身につけた粗暴な立ち居振舞いは、強固な地になってて、大神殿の再教育は、ほとんど意味をなさなかった。
短時間なら猫をかぶれても、ずっとは無理。ボロが出ちまう。
そんで、「こんなんじゃ人前に出せない」とか言われて、神殿の奥で生活させられてたってわけだ。
こんな閉じこめられるとか、聞いてねえっつーの……!
というわけで、たまに神殿を脱走したり、護衛をおちょくって遊んだりしてた。しゃーない。不可抗力。
そんなある日。
果てしなくクソ真面目で、菓子職人になりたいあの男が、護衛候補としてやってきた。
あいつ、初対面で何つったと思う?
「無作法で、口の悪い、下品な小娘」だぜ?すっげえ笑ったわ。
今まで陰口ならたくさん叩かれてきた。でも初対面で、正面切って悪態をついたのは、こいつが初めてだった。
これは側に置いとくしかない。そう確信した。
それで……ギル・ガディットを護衛として抜擢することにしたんだ。
────ギルは、一言で言うと「なんか面倒くさいやつ」だった。
おちょくると正直に怒るし、わりとずけずけ物を言う。生真面目かつ不器用で、同時に、どこか自分の人生を諦めた感じがあった。若くて男前なのに、何となく枯れた印象があるのはそのせいだろう。
でも、根本的に、すげぇお人好しだよな。それを隠せてねえから、あたしみたいなのに捕まっちまうんだぜ。
少し拗らせた、面倒くさいお人好しの男。それがギルだった。
でも、正直なお人好しは嫌いじゃない。
世の中には、ニコニコしながら他人を踏みつけるやつとか、口ではおべっかを言いながら相手を見下すやつがたくさんいる。そういうクソどもを見慣れていたあたしには、この聖騎士がどこまでも新鮮に映った。
息が詰まる大神殿で、あの男の側なら、自然に息ができる。そんな感じ。
エミリは信頼してるけど、どっちかっていうと姉。ハロやバハートは兄。殿下はそもそも身分が違いすぎる。
でも、ギルは最初から対等だった。そのことにあたしは救われていた。
それを、本人は全然分かってないと思う。別に言うつもりもないけどさ。
────後はまあ、下働き時代の親友に殺されかけたり、勝手に死んだギルを"星海"まで追っかけたり、いろいろあった。
そんで、こいつとあたしは、恋人……婚約者……的な関係になったのだった。
そうそう。
ギルにパンケーキを食わせてもらう約束をしたのは去年の秋。半年待たされて、やっと実現した。それが今日。
あたしは本当に、心から楽しみにしてた。
ギルいわく、材料から厳選した上、焼き方も試行錯誤して、本人納得の「至高のパンケーキ」が完成したらしい。
どんだけ待たせんだよ……正直こだわりが過ぎて引くわ。そんだけ本気で菓子職人目指してるってことなんだろうけどさ……
まあいい。やっとこの日が来た。
あいつの努力の結晶が、今あたしの目の前にある。
この世でもっとも完成度の高い、完璧なパンケーキが、香ばしいバターの香りを振りまいていた。
++++++
たまご色の一切れを、もぐっと口に入れる。
……一口目からヤバかった。弾力がありつつ、ふわっととろけるような食べ心地。甘さもほどよい。上質な材料が使われているのは、"野良猫"時代に雑草ばっか食って舌がバカになった自分にも分かった。
本当に心をこめて作ってくれたことも、じんわり伝わってくる。
……不覚にも涙が出そうになった。こんなおいしいもん食ったことねえわ。天才か。
けど、フォークとナイフを握りしめ、無言でふるふる震えているあたしを見て、ギルは逆の方に勘違いしたらしい。
不安そうな顔で、おそるおそる尋ねてきた。
「……リーヴェ様、口に合いませんでしたか。こちらは下げましょうか?」
「ふざけんなッ、あたしは死んでもこの皿を守る!これを奪おうとするやつは全員ブッ殺す!!」
がばっと皿に覆い被さって、護衛をきっと睨んだ。
護衛は「はぁ……そうですか」といつもの白目になった。うるせーんだよ。
二切れ目は、クリームをつけてみた。
ふわっふわで冷たいクリームが、温かいパンケーキと一緒に口の中でとろけていく。これは新種の麻薬か。思考が飛ぶんだけど。
あたしの頭上で、天使が軽やかなダンスを踊った。
三切れ目。
「春まで待て」とギルがこだわり抜いた、苺ジャム。これをそっとつけてみた。
赤い宝石のような苺を纏ったパンケーキが、つややかに煌めく。
一気に口に放りこむ。苺の甘酸っぱさと、パンケーキのほんわかした甘さ、ふかふかした食感が、極上のハーモニーを奏でた。
すげえ。これはすげえ。もうそれしか言えない。
…………四切れ目から夢中で食べた。
味わって食うつもりだったのに、途中で我を忘れて、十秒くらいでぺろっと食べてしまった。
どうでもいいけど、あたしの言語能力はきわめて低い。だから現実のパンケーキ実況は、
「んめぇ!うっめぇーーー!」
をひたすら繰り返す、残念な生き物と化していた。うめーうめーって。羊かよ。
まあ、脳筋聖女だからしゃーない。
……つうわけで、約束は果たされ、あたしは護衛の焼いたパンケーキをあっという間に完食したのだった。
ふう、と満足げなため息をつく。横でお茶を注いでいたギルは、落ち着いた声で尋ねてきた。
「……リーヴェ様、次はチョコレートケーキとか焼いてみましょうか」
「えっ」
「主材料は仕入先が決まったので、今回ほどお待たせしないかと思います」
「食う!絶対食う!!」
「よかった。一ヶ月以上はかかるかもしれませんが、至高の逸品を焼いてみせます」
ほっとした顔のあと、護衛は爽やかな笑みを浮かべた。
そういえば最近、こいつはシケたツラをしなくなった。代わりに、晴れた日の春空に似た、穏やかな空気を纏うようになった。
ギルと出会ってあたしが変わったように、こいつもきっと鬱屈を振りきったのだろう。
ギルが屈託なく笑う姿を見ていると、とてつもない幸福が胸を満たしていく。
こんな日々が続くなら、あたしは聖女になってこの国を救って良かったと、心から思うのだ。
────そうして一ヶ月後。
ギルが新作ケーキを焼いたその日。どこから聞きつけたのか、空気読まねえ獅子の獣人が、なぜか同席してきた。そんでよりによってあの野郎、ホール半分を食いやがった。
あたしは、食いもんの恨みを許さない。絶許。
かくして、あたしとバハートの血みどろの喧嘩が勃発し、聖女の部屋が半壊して、なぜかギルも含めて全員エミリにこっぴどく叱られる結果になったのだった。
解せない。




