5-07 星海
────気がつけば、たった一人で美しい平原に立っていた。
「……ここは……?」
ギルは何度か瞬きする。
目の間にあるのは、見たことのない不思議な風景だった。
なだらかな平原を風が吹き抜けていく。
風が空気を揺らすたびに、キラキラと光の粒が流れていく。まるで空気そのものが輝いているかのようだ。
不思議なのはそれだけではなかった。辺りは真昼のように明るいのに、頭上の空に太陽は見当たらない。
光源はどこだろう……と額に手をかざし、上空をじっと眺めた彼は、それに気づいて目を丸くした。
広大な天空に、果てしなく大きな光のカーテンが、音もなくふわりと舞っている。
……子供の頃の、古い記憶。
たしか、絵本の挿絵で同じようなものを見た。酷寒の極地でしか見ることのできない、「オーロラ」という光がある、と。
それとよく似た光の束が、巨大な竜の翼のように虚空を閃いていた。
空に舞う光を茫然と眺めていたギルは、あることに気づいて再び目を見張った。
揺らめく光のさらに向こう、空全体を埋めつくすように、無数の星が輝いている。夥しい数の星と巨大な光のカーテン。それで、この場所は昼のように明るいのだ。
ギルは不思議な空を見上げて立ちつくした。
星の天蓋に見入っていたが、はたと我にかえる。本当にどこなんだ、ここは。
「…………"星海"へようこそ」
突然、後ろから声がした。
ぱっと振りかえると、一人の少年がいつの間にかそこに立っていた。
年齢は八歳くらい。知らない子だ。なのに、初めて会った気がしない。何故だろう……
少年を見つめていたギルは、彼の背中のあるものに気づいて息をのんだ。
「……………………天使?」
小さな背中に生えていたのは、真っ白な美しい翼。その一対の翼が、本物の鳥のように軽やかに羽ばたいていた。
「ここが"星海"なら……」
「うん。あなたのタマシイは、神さまのみもとにやってきたんだ」
戸惑うギルに、穏やかに天使が微笑む。
やはりそうか、と彼は腑に落ちた。ここはあまりにも現実感が薄い。どう見ても地上の風景ではなかった。
ふいに、あの死闘が脳裏に甦った。リーヴェを庇って、セラに刺されたこと……そして意識が暗転したことを。
あの時、自分は死んでしまったのだろう。
「仕方ない」という諦めと、「なぜ自分が」という感情がせめぎあい、嵐のように吹き荒れる。
慟哭が彼を支配し、やがて過ぎ去るまで、天使は黙って寄り添ってくれた。呼吸が落ち着くのを見計らって、天使は慰めるように、そっとギルに切り出した。
「あなたのなかまは、みんなぶじだよ。マモノも、もとの所にかえされた。ぼくは、あなたたちをここから見てたんだ」
「…………そうか」
「あなたは、すごくがんばったんだよね」
深い傷を癒すような優しい少年の声は、殺伐とした心に水のように沁みた。
天使の声には鎮静効果があるのかも……などと考えていると、相手と目が合う。天使は少し困った顔で笑った。
「……つよい心のこりのあるタマシイは、元のすがたで、こっちに来ちゃうんだ。今のあなたもそう。そんなタマシイに、のぞみのまま、マボロシをみせてあげるのがぼくの役目」
「幻……?」
「うん。心のこりのあるタマシイは、どこかに迷いでてしまうから」
思慮深い眼差しで、天使はギルを見上げる。
「あなたは、なにがみたい?」
問われて、暫し考えこむ。
脳裏にひとつの光景が浮かんだ。
「叶うなら…………王都の鐘楼から見た、夕暮れの景色を」
「わかった。すこしまってて」
天使が頷いた瞬間、草原にざあっと突風が吹いた。
思わず目を瞑る。次に目を開くと、鐘楼の天辺から王都の町を見下ろしていた。
────茜色に染まる町並み。平野に広がる田園と、彼方にうっすら浮かび上がる、聖峰クルカカーンの稜線。刻々と移り変わる、赤い夕空。
「…………綺麗だ」
無意識のため息が零れる。
記憶のなかの風景が、神の御業により、寸分の狂いなく目の前に再現されていた。幻と呼ぶには、あまりに完璧で────
最初にわき上がったのは懐かしさだった。同時に、胸につきりと刺すような痛みが生じる。
あの娘と二度、同じ景色を見た。しかし三度目はない。絶対に。
それに気づいてしまうと、心は軽くなるどころか、重石を乗せたみたいに沈んでいく。
本当に辛くなる前に、違う景色を見せてもらった方がいいかもしれない。そう考えた矢先。
「……ん、あれ?」
風景のどこかから、天使の戸惑う声がした。
どこに隠れているのだろう。
辺りを見回したギルの視界に──信じられないものが映った。
今まさに想い描いていた、美しい娘。
彼女がおそろしく不機嫌な顔をして、鐘楼の天辺を囲う壁の前にすっくと立っていた。
「リーヴェ様…………」
「ふっざけんな、勝手に死にやがって……!」
悪態をつきながら、リーヴェはつかつかとこちらに近づいてくる。
ギルは、つい身構えた。幻とはいえ、あの横暴な聖女が今にもどつきそうな勢いで怒っていたからだ。
……殴られる、と覚悟する。
けれど予想は外れた。
ぶつかってきたのは、固い拳骨ではなく。
軽い衝撃とともに、自分の背中に回されたのは、華奢でしなやかな腕。
だきしめられている。気づいた瞬間、ギルはバキリと固まった。
……幻なのに、ものすごくリアルな感触だ。
「護衛のくせに、どっか行くな。どアホ」
「…………」
天使ってすごい。
造形や感触はもとより、口の悪さまで完璧に再現している。
心のなかで絶賛しながら、小さな藍色の頭を見下ろすと、胸に額を押しつけていたリーヴェが、ふいに自分を見上げた。
リーヴェは、これ以上ないくらいに怒っていた。
けれど純粋な怒りを浮かべていてさえ、その清廉な美しさは、少しも毀損されてはいなかった。
光の結晶のような白銀の瞳に、吸いこまれそうだ。
その時、花のような唇が「……ばか」と呟いた。
あ、これはダメだ。と彼は思った。
すさまじい勢いで、ギルの中の何かが吹き飛んでいく。そうして最後に残った、傲慢な自分が囁いた。
最後だから許されるだろう、と。
本当のリーヴェが誰を想っていても、目の前の彼女は、自分に都合のいい幻なのだから。
無意識に体が動く。
小柄な体を強く引きよせて、彼は、花のように可憐な唇をふさいだ。
一秒、二秒、三秒。
「ぷはっ」
────顔をはなした瞬間、リーヴェは大きく息を吸いこむ。そして。
「……ッ!?」
ドン、と聖騎士の体が宙を舞った。
わけがわからないまま、反対の壁にしたたか背中を打ちつけ、床にドサッと落下する。
「…………いって…………」
「……調子のんなよ……?」
「………………」
地を這うような聖女の声に、ギルは視線を上げた。リーヴェは林檎のように真っ赤になって、拳を握りしめ、ふるふる震えている。
……なんだろう。なにかがおかしい。
「これって幻じゃ………………?」
「ちげぇわ!地上からわざわざ迎えに来てやったんだよッ!」
「!!?」
「パンケーキ焼いて食わせるって言ったのお前だろ、まだ果たしてねえぞ!約束は守れよな!!」
「…………え、」
たしかに、約束したけど。
お忍びの後からずっと、ひそかに「至高のパンケーキ」を模索中だったけど。
最近のゴタゴタで中断していて、完成しないまま死んだのも後悔してたけど。
「あたしはっ……お前のパンケーキずっと楽しみにしてて……でもいつまでも焼いてくれねえし……!なのに勝手にこんなとこ来やがって………!」
「…………」
しーんと静寂が落ちた。
いつの間にか、ギルの隣には天使が立っていた。
呆気にとられた聖騎士を、「よいしょ」と引っ張り起こした天使は、リーヴェを指さして、もげないか心配になる速度でブンブン首をふった。
「あれは、ぼくの幻じゃないから!」
「ウソだろ……」
幻だと思ってキスしたリーヴェは、本物だったらしい。




