3-01 脱走、再び
「うがぁあア゙ぁ゙ァ゙ァ゙…………」
大神殿の廊下に響き渡る、低い唸り声。
聖騎士ギルは、魔物の雄叫びのような不気味な声にビクッとした後、さっと周囲に視線を走らせた。
だがどこにも異変はない。
それなら……と前を行くリーヴェに目を向ける。
すると彼女は、建物の柱を殴ろうとして、「ぐぬぬ……」と必死に耐えていた。
やはり、さっきの不気味な声はリーヴェが発したものだったらしい。
「よく耐えましたね。偉い偉い」
称賛に値する忍耐だ。この主にしては。
ギルは、淡々とリーヴェを誉めておいた。
……この光景、実は今週三度目になる。
王都に紛れる魔の正体は、依然、判然としない。そのためハロとバハートは、理由を言わないまま、リーヴェに暫く外出するなと約束させていた。
しかしリーヴェは、大神殿にこもりきりなのが本当に性に合わないらしい。ストレスが爆発して、柱や壁を破壊するのも時間の問題だ。
以前バハートが言っていた通りだ。
「うるせえよ……。お前はいいよな、非番で時々街に行けるんだからさぁ」
美しい白銀の瞳が恨みがましくこちらを見上げる。
ギルが街に出た時は、主の気が紛れるようにと、流行りの菓子を買ってきては彼女に渡していた。
リーヴェも嬉しそうにしていたけれど、やはり、自由に出歩く護衛が羨ましかったのだろう。
前回の脱走からの日数を頭で数える。
今回は十分持った方だ。
聖騎士は、不機嫌な顰め面をじっと見下ろした。
「…………」
「なんだよ。なんか文句あんのか」
「リーヴェ様は最近、脱走を控えていらっしゃいますよね」
「そりゃあな。ハロとバハートがやめとけって言うし。理由を言わないからモヤモヤするけど」
主は不満げに顔をしかめた。
誰であれ、理由もわからず閉じこめられたら辛いだろう、とギルも思う。
主には息抜きが必要だ。そう決心した彼は、ここ数日、ひそかに調整に当たっていた。
「……先ほど、魔術師長閣下と騎士団長閣下、エミリ殿から許可が取れました。明日の午後、外の空気を吸いに行きましょう。ただし神官長には秘密ですが」
「え、ほんとに!!?ぃやっっったぁーーっ!」
不機嫌の骨頂から一転。
やっほーい!と叫んで、リーヴェは兎のようにぴょんぴょん跳ね回った。ギルは慌てて周りを確認し、小声で主を嗜める。
「落ち着いてくださいよ……!神官長派に見咎められて、監視がきつくなったら困るでしょうが!」
「何だよ、ちょっとくらい喜んでもいいじゃねえかよ。ケチ」
ぴたっとはしゃぐのを止めたリーヴェは、じとりとギルを睨んだ。
しかしその頬は緩んでいる。
「オレが一緒に行きます。勝手に離れてどこかに行かないでくださいね。あと、危ないことに首を突っ込まないこと」
「了解ー!」
歌うような、ご機嫌な声が返ってくる。
主に喜んでもらえたなら、骨を折った甲斐があった。護衛は小さく苦笑した。
占星術で「王都に魔が入りこんでいる」という占が出たことで、それを伏せたまま、聖女リーヴェは脱走を止められていた。
だがリーヴェにも限界がある。
ギルは、英雄二人とエミリに、「近いうちに聖女が大神殿が破壊しかねない」と切々と訴えて、条件付きの外出許可をどうにかもぎ取ってきた、というのが事の次第である。
ちなみに、リーヴェと激しく仲が悪い神官長には一切相談していない。
うきうきと歩くリーヴェの後ろ姿を見ながら、ふと、ギルの心に疑問が浮かぶ。
神官長がリーヴェを厭っているのは、彼女の出自以外にも理由があるのだろうか……
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脱走……もとい、お忍び当日。
今日は、朝から秋晴れの良い天気となった。
「不在の間よろしくお願いします、エミリ殿」
「あとで土産を買ってくるからな!」
「はい、楽しみにしていますね。……ギル殿と一緒ならリーヴェ様も無茶なさらないでしょうし、お二人ともお気をつけて行ってらっしゃいませ」
にこやかに手を振るエミリに見送られ、ギルは転移の呪符を発動した。これは、ハロから貰ったものだ。
以前リーヴェが脱走に使った呪符も、彼がこっそり渡したものだったという。
……なんだかんだ、"お兄様方"はリーヴェに甘い。
足元の床に、複雑な紋様が描き出されていく。
青白く明滅する光が消えた瞬間、二人は王都の街角に立っていた。
「では、どこに行きましょうか」
尋ねると、リーヴェはむっと眉を寄せた。
「その話し方やめろ」
「…………わかったよ。どこに行きたい?」
「それでいい。行き先は、歩きながら考えようぜ」
満足そうに笑った彼女は、軽やかな歩調で表通りへと足を向けた。
その髪も瞳も、今は平凡な薄茶だ。
見慣れないからか少し違和感がある。しかし、本来の色はどうしても目立ってしまうので、魔術で偽装する必要があるのはギルもよく承知していた。
服は庶民的な白のブラウスにキルトのスカート。そして秋らしく肩にショールを羽織っている。
どこから見ても普通の町娘の装いである。
ギルもそれに合わせて、町に行くときの私服を着ていた。
「リーン、特に行きたいところがなければ、王都で流行ってる揚げ菓子の店に行かないか?揚げたてが美味しいから、今まで買ってこれなかった」
「何それ!行く!」
「こっちだ」
目を輝かせるリーヴェを促して、ギルは大通りの方へ向かった。
目的の店の前には、十人ほどの行列ができていた。
店主は大柄な男で、厳つい手に似合わない繊細な手つきで、次々とタネを油に放りこんでは、焼き色を見ながらひっくり返していく。
奥方らしき女性は、揚げた菓子を紙に包み、代金と引き換えに客に包みを渡していた。
「……あの店主は元騎士だ。引退したあと、第二の人生であの店を始めたらしい」
「へえ……どうりで体格がいいと思った」
感心しながら店主を眺めていたリーヴェは、ふと何か言いたげにギルを見上げた。けれど彼女が躊躇っている間に、二人の順番が回ってきた。
ギルが代金を払い、包みを二つ受け取って、その一つをリーヴェに渡す。
「ほら、リーンの分だぞ」
「うわ、いいにおいがする!」
彼女は目をキラキラさせて、包みを開けた。
砂糖がまぶされた、ふんわり膨らんだ一口大の菓子。それをひとつ口に入れるとパフンとしぼむ。外はサクサク、中はふんわり。砂糖の甘味もほどよく、とても香ばしい。
「面白いなこれ!」
口の周りに砂糖をつけたリーヴェは、子どものようにぱくぱくと菓子を口に運んでいる。
「時間が立つとしぼむんだ。揚げたてが一番美味いんだよ」
「なるほどなー、すげぇ」
リーヴェが大袈裟に感心しながら食べていたからか、通りすがりの子どもが、立ち止まって彼女をじっと見上げた。
視線に気づいたリーヴェは、軽く首をかしげる。
「これ、食いたいのか?」
「……うん!」
「いいよ、持っていきな」
幼い男の子は、リーヴェから残りの菓子を嬉しそうに受け取ると、「じゃあお姉ちゃんにこっちをあげるね!」と言って、赤い紙で出来た筒のようなものを差し出した。
それをリーヴェに渡して、にこりと笑った少年は、少し離れた場所にいた母親の方へ走っていく。
「どうやって使うんだ、これ」
瞬きするリーヴェの手元を覗きこんだギルは、小さく笑った。
少し長めの、尖った円錐形をした玩具だ。尖った方の先には細い紐がぶら下がっている。
彼はその紐を指先でつついた。
「……この紐を引っぱったら、幻惑魔術が発動する仕掛けになってる。何が仕掛けられてるかは、引っぱってみるまでわからないんだ」
「へぇ、面白そうだな!」
にいっと笑ったリーヴェは、即座に玩具を空に向けて、「えいっ」と紐を引っ張った。
パン!
軽い破裂音。同時に、彼女の頭上に、幻影の流れ星がきらきらとすべり落ちてくる。それはさながら冬の夜の流星群のようだった。
「すっごい!綺麗だな!」
その光景を見ながら。
ギルは、不思議な感情に囚われていた。
流星をまとった聖女は、息をのんでしまうくらい、純粋に美しかった。まるで"魅了"にかかったかのように目が離せない。
無邪気にはしゃぐリーヴェが、こちらを向いた。
彼女の透明な薄茶の瞳が、自分の姿を認めて、きゅっと細くなる。胸が締めつけられるような苦しさを覚えて、ギルは自分が息を止めていたことに気づいた。
そこで我に返った。
……いや待て。おかしいだろ今の。あの脳筋聖女だぞ。常に傍若無人で横暴な……!
平静を装うギルの内面は、穏やかさとは程遠い。激しい動揺が、夏の嵐のように心を揺さぶった。
だが、リーヴェは、護衛の葛藤にまったく気づかず、幻の星をつついたり、指で弾いて呑気に遊んでいる。
子どものように無邪気にはしゃぐ姿に、ぐらぐら揺れていた心が平静を取り戻していく。
今のは気の迷いだ。そもそも、彼女が愛しているのはクラウス王子ではないか───
自らに言い聞かせると、なぜか余計に胸が痛くなった。ギルは惑いを振り切るように、その痛みごと感情を意識の底に沈めた。




