2-04 酒肴
祭初日の脱走と最終日の"星華の夜"で、リーヴェはすっかり満足したようだ。
しばらく平穏な日々が続いた。
主が大人しいことに不安を覚えつつ、それに慣れてきた頃。
嵐は、唐突にやってきた。
宿舎にあるギルの部屋に。……それも、真夜中に。
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コツコツ
深夜、窓を叩く音がした。
眠りを妨げられたギルは、重い瞼を擦りながら音のした方を見た。
鳥か何かだろうか、と窓の外に目をやる。
そして────硝子越しにこちらを覗きこむ、見慣れた人影を認めて、ひゅっと息をのんだ。
「………っ!」
あれは悪夢だろうか。それとも亡霊か。
心臓が止まりそうな恐怖にギルを陥れた、怪しい影の正体は、
────聖女リーヴェだった。
就寝したはずの主が、夜の闇にまぎれて窓の外にいる。それだけでもぞっとするのに、もっと恐ろしいのは、この部屋が三階にあるという事実。
いったいどんな怪談だ……
「おい、開けろ!」
硬直した護衛に痺れを切らした亡霊……もとい聖女は、ガタガタと力ずくで窓を開けにかかった。
あ、これは本物だ。
ギルの金縛りが解けた。
「お待ちください、今開けますから……!」
慌てて鍵を外して窓を開けると、リーヴェは壁の僅かな凹凸に手足を引っかけ、器用に回りこんで部屋の中にするっと入ってきた。
「お邪魔しまーす」と能天気に入ってきた娘に、さすがにギルもぶち切れた。
「貴女ってひとは……こんな夜中にいったい何を考えてんですかッ!!!」
「いい酒が手に入ったから、お前と飲もうと思って。ほらこれ」
リーヴェはけろっとした様子で、背負い袋から酒瓶を取り出す。そして、ひひひ、とあくどい笑顔で瓶に頬擦りした。
「そんなことで……」
真夜中、男の部屋に窓からやってくるのか。恥じらいとか常識とか、ないのかこの聖女は。いやないんだろうな……
聖騎士はがくりと膝から崩れ落ちる。そんな彼を見て、聖女は唇を尖らせた。
「だって、一人酒とかつまんねぇじゃん。ほんとは下町の酒場とか行ってどんちゃんやりたいけど、ハロとバハートに『夜は一人で出歩くな』って止められてんだよ。仕方ねえだろ」
「そのお二人って……」
「この国の魔術師長と騎士団長。あ、グラスある?」
グラスある?じゃない。
魔術師ハロと騎士バハートといえば、"悪鬼"を倒した四英雄のうちの二人だ。
その彼らを呼び捨てとは、さすが聖女……いやそっちじゃない。
今の話が本当なら、夜中にこの女と二人きりになるのは非常にまずい気がする。
「そのお二人的に、貴女が聖騎士の宿舎に忍びこむのは有りなんですかね……」
「大丈夫じゃねぇ?礼拝堂の屋根に上った時は、別に怒られなかったぜ」
そうかそれなら安心だ。
いや何が。
とにかくリーヴェをここから追い出さないと……。ギルはぐっと眉を寄せて語気を強めた。
「あのですね……オレじゃなくて、エミリ殿と飲んでくださいよ。うちはお断りです!」
「やだよ。あいつ酔うとヘラヘラ笑いながら服脱いで全裸になるし。あっちこっち吐くし」
「……今のは聞かなかったことにします。リーヴェ様も吹聴したらダメですよ」
エミリ上級神官の名誉のために。
……その後もあれこれ理由を述べたが、リーヴェを追い返すことはできなかった。結局ギルは「一杯だけ飲んだら帰ってくださいね」と約束させ、諦めて棚からグラスを二つ取り出した。
透明なグラスに、コポコポと注がれる琥珀色の液体。
それをくいっと傾けたリーヴェは、見た目は美女なのに……仕草は完全にオッサンだ。
なんて残念な聖女だろう……
「っかー!生き返るぜぇー!」
口元をぐいっと拭う聖女の姿に、ギルはこめかみを押さえた。
「もうちょっと聖女らしくしたらどうですか……」
「あたしは別に、聖女になりたくてなったわけじゃねぇし。今すぐ返上したっていいくらいだぜ」
ふん、とリーヴェは心外そうに鼻を鳴らす。
「丁度良い。お前の身の上を聞いたお返しに、あたしの話を聞かせてやる」
グラスをくるくると回しながら、聖女は不遜な笑みを浮かべた。
「あたしは元"野良猫"なんだ」
美しい唇からさらりと出てきた言葉に、理解が追いつくまで、わずかな間があった。一瞬、グラスを傾ける聖騎士の動きが止まる。
"野良猫"。
それは、路上生活の孤児を意味する隠語だ。そこから始まったリーヴェの過去は、壮絶としか言い様のないもので……淡々と話す主を、ギルは信じられない思いで見つめた。
────リーヴェが六歳になったばかりの頃。
大規模な飢饉がゼラフィールを襲った。ギルもはっきり覚えている。あの時、王都の民もみな、食うに困っていたのを。
生活が立ち行かなくなったリーヴェの家族は、一家離散したらしい。その後、年の近い兄と放浪して辿り着いた町で、同じような境遇の仲間と盗みをしたり、野草を食べながら生活していたという。
ある日、リーヴェに優先して食べ物を分け与えていた兄は、寝ぐらに帰って来なくなった。そしてリーヴェは完全に天涯孤独になった。
兄は、どこかで行き倒れたのだろう。彼女は淡々と言った。
八歳の時、リーヴェは娼館の下働きとして拾われた。
最低限の衣食住は保障されることになったが、顔立ちが整った少女は、いずれ娼婦になって客を取らねばならない。
諦めて娼婦になるか、逃げて別の過酷な道を選ぶか。どちらにするか決めかねていた矢先。
「十歳だったかな。神殿から迎えが来たんだ。神託があったからお前は聖女になれ、と突然言われた。何の冗談だと思ったぜ」
リーヴェは皮肉っぽく唇の端を上げた。
「……聖女が娼館にいたなんて外聞が悪いからな。神殿が金をやって、そこは強引に閉鎖させたんだ。あの場所に思い入れなんて全くないけど、ひとつだけ、心残りがある」
微笑を浮かべた娘の内心は、うかがい知れない。ランプの光に照らされたリーヴェの表情は、今まで見たことのない、静かなものだった。
「そこに、あたしと同じような境遇の、下働きの親友がいたんだ。今もクラウス殿下に頼んで探してもらってるけど、やっぱなかなか見つかんねぇな」
リーヴェは娼館を去る時、その親友の少女に「いつか迎えにいく」と約束したのだという。
「あいつに言われたんだ。『力は弱い者のために使ってほしい』って」
元気だといいけど。ぽつりと呟いて、女は窓の外の闇を暫く見つめた。
あぁ、それでか。
ギルはようやく腑に落ちた。リーヴェが街に出て、人助けをやめない理由。彼女は、親友との約束を律儀に守ろうとしているのだ。
「……しめっぽい話は終わりだ」
くいっと酒を煽って、聖女はニヤリと笑った。その表情は、すでにいつもの彼女である。それからは取りとめのない話が続いた。
「……てかさー、あいつらとの約束破ったら、きっついお仕置き食らうんだわ。バハートの拳骨って地味に痛えんだよ」
「騎士団長の拳骨……」
「あとこれ。ハロの作った指輪。この指輪から雷が出てビリビリする」
「魔術師団長の雷撃……」
考えるだけで嫌すぎる。
「貴女は不死身なんですか……」
「んなわけねぇだろ。バカかお前」
いやお前がな。と思ったが、賢明な聖騎士は口に出さなかった。
ひとのベッドの上で、主は堂々と胡座をかいていた。その人差し指に、魔石の指輪が明りを弾いて光っている。
脱走の時、リーヴェが姿を変えるのにも使ったこの指輪は、魔術師長の手作りで、複数の魔術が刻まれているらしい。
「……その指輪、見てもいいですか?」
「あぁ、いいぜ」
リーヴェは無造作に右手を差し出す。外すのは厳禁らしい。ほっそりした手を取って、角度を変えながらじっくり石を眺める。
「……たしかに、魔石に変容の魔術と雷撃が刻まれてますね」
「すげぇなお前。魔方陣が読めるのか?」
「多少は。"朱炎"は対魔術師の訓練も受けますから」
「なるほど。あたしはさっぱりだ」
胸を張るリーヴェに半眼を返す。そしてもう一度魔石をじっと見て、「ん?」と首を傾げた。
「もう一つ魔方陣が付与されているようですが……何だろう」
目を凝らしても、二つの魔方陣に隠れてよく見えない。結局何なのか判らないまま、ギルは主の手を離した。
その後、酒盛りはお開きとなり、リーヴェはギルが止めるのも聞かず、窓から帰っていった。
────そして翌朝。二人の主従は、何事もなかったように顔を合わせた。
昨夜の酒盛りは誰にもバレてない。聖騎士は心底ほっとした。だが、それが大間違いだったと気づくのは、数時間後のこと。




