2-02 恋敵
「きゃっ」
中庭の奥から悲鳴が聞こえて、聖騎士の青年は足を止めた。
声のした方の藪を回りこむと、明るいライムグリーンがぱっと目に入る。よく見ると、木の下に踞った若い令嬢のドレスだった。
「やだ、もう……」
こちらに背を向けたまま、令嬢は泣きそうな声で呟く。ギルは慎重に歩み寄って、「……どうされました?」と声をかけた。
すると、令嬢はビクリと肩を震わせて、ゆっくりと振りかえった。
ギルは思わず目を瞪った。振りかえったその令嬢が、息をのむほど美しかったからだ。
豊かな亜麻色の髪は優雅に背を流れ、大きな闇色の瞳は磨かれた黒曜石のように煌めいている。
あどけない、少女のような顔立ち。そこに落とされた、右の小さな泣き黒子。それがほどよい色気となって、彼女の美貌を引き立てていた。
つい見とれたギルを、令嬢は、困り果てて助けを求める表情で見上げた。
「見苦しいところをお見せしてしまって、申し訳ありません。実は、お庭を散策していたら供とはぐれて、それで慌てて……転んでしまいましたの」
「なるほど。失礼ですが立てますか?どこか痛むところがあれば、治癒で治して差し上げますが」
我に返ってそばに屈むと、相手は「まぁ」と呟いて目を丸くした。
「あなたは……聖騎士様でいらっしゃるの?」
「ええ、そうです」
「わたくし、どんくさくて本当にダメね。あの、治癒をしていただくほどではありませんが、主礼拝堂まで案内して頂けると助かりますわ」
「もちろん構いませんよ。ご案内しましょう」
手を貸して立ち上がらせると、令嬢の足首で何かが光った。牙のような形の深紅の飾りがついた、細い金の鎖のアンクレットだ。
娘が立ち上がると、その飾りは長いドレスの裾に隠れてしまう。
……美しい令嬢と、獣の牙のような形の装飾品。あまり似つかわしくない組み合わせだ、と内心首をかしげる。
貴族の間で流行っているのだろうか。
だが、ギルは女性の装飾品にうとい。それ以上気にとめず、「こちらです」と令嬢をエスコートした。
令嬢をともなって主礼拝堂に着くと、入口でクラウスと鉢合わせた。リーヴェとの用事は終わったらしい。
短い訪問だったな、と思っていると、向こうから声をかけられた。
「アドニア嬢。姿が見えないと供の者から聞いて、探しに行こうと思っていた」
「申し訳ありません、殿下。お庭を散策していたら、はぐれてしまいまして……こちらの聖騎士様がご案内してくださって、戻って来れましたの」
「ああ、リーヴェの護衛殿か。また会ったね。彼女を助けてくれてありがとう」
ほっとしたように言って、クラウスは令嬢の細い手を取って引き寄せる。そしてギルをにこやかに紹介した。
「アドニア嬢、彼は聖女専属の護衛なんだ。さっきリーヴェのところで会ってきたんだよ」
「まぁ、聖女様の……」
アドニアは、大きな目を零れ落ちそうなほど丸くさせた。
「わたくしもいつか、四英雄の聖女様にお会いしてみたいと思っておりますの。とてもお強くて、誰より高潔でいらっしゃるそうですね」
アドニアは無邪気にギルに笑いかけた。強い……はそうだろう。高潔……もそうかもしれない。
「……リーヴェ様は少々人見知りですが、素晴らしい御方です」
型通りの返答をすると、クラウスは横を向いて咳払いした。その肩がかすかに震えている。
嘘をつくのは後ろめたいが、仕方ない。これも主のためだ。
ギルが二人に愛想笑いを向けた、ほんの一瞬。
輝いていたアドニアの瞳の奥に、暗い光がふっと浮かびあがった。
思わず、黒い瞳を探るようにじっと見つめる。だがそれは、泡沫のようにすぐ消え去った。
気のせいだろうか。……それにしては、妙に引っ掛かりを覚えた。
「彼女が大神殿を見たいと言うから、ついでに連れてきたんだ。……いつかリーヴェにも会わせてあげよう」
茶目っ気のある笑顔を見せて、王子はアドニアを愛しげに見つめた。そして「では失礼するよ」と言って、仲睦まじい様子で立ち去った。
一礼して二人を見送ったギルは、緊張を解いた。先ほどの違和感はかすかに残っていた。だが、単に気のせいかもしれない。
彼はそれを、自分の胸の内に留めておくことにした。
そういえば。
改めて鍛練場に向かって歩きながら、ギルは最近耳にした噂を思い出していた。さる夜会で、クラウス王子が身分の低い令嬢を見初めた、という噂だ。
その令嬢がさっきのアドニアだろう。
あれが主の恋敵。
うーん、とギルは唸った。いかにも庇護欲をそそる、あの美しい令嬢とクラウスの寵愛を競っても、わが主に勝ち目はない気がする……
そもそも、素の聖女を好きになる男がいるのだろうか。いるとしたら、よほどの特殊性癖の持ち主に違いない。
聖騎士はそんな感想を抱いた。……近い将来、自分がその「特殊性癖」になってしまうなど夢にも思っていない。
「……次の非番になったら、リーヴェ様に菓子でも買って帰ろう」
庭を歩きながら、聖騎士は呟く。それが、恋敵が現れたリーヴェの慰めになればいいが。
+++++
…………神殿の奥まった場所を改装して造られた第二鍛錬場は基本、聖女専用になっている。
十歳で大神殿にやってきたリーヴェは、この鍛練場で神術や剣術の特訓を受けたという。
ギルも今はこちらを使うことが多い。第一の方だと、ほかの聖騎士にリーヴェのことを聞かれて煩わしいし、こっちならリーヴェがひょっこり現れて手合わせすることになっても、問題ないからだ。
……特に、あの女好きの同僚はしつこい。あいつはいつか冥界に落ちる。
しばらく無心で剣を振っていると、エミリを伴ったリーヴェが顔を出した。
裾が長くゆったりした白いローブから、動きやすい騎士服のような上下に着替えている。
「……よぉ。殿下は帰ったぞ。というわけで、手合わせしようぜ!」
「ええ、よろしくお願いします」
肩をぐるぐる回して柔軟をはじめた彼女に、ふと尋ねてみる。
「リーヴェ様、殿下に頼んだ用事って何だったんですか?」
「秘密だ!」
きっぱり答えを拒否された。予想通りだったので、もう一つ気になったことを聞いてみる。
「リーヴェ様とお会いになったあと、殿下は誰かと約束があると仰ってましたか?」
「特に何も言ってなかったぜ。なぜそんなことを聞く?」
リーヴェが怪訝な顔をした。
───今頃、クラウス王子は、アドニアを伴って神官長と会っているはずだ。
だが、リーヴェが知らないなら、わざわざ耳に入れる必要もない気がした。天敵や恋敵の話など、あまり聞きたくはないだろう。
彼はそれを表情には出さず、「いえ、何でもありません」と返す。そして、リーヴェに模擬戦用の剣を渡し、「でははじめましょう」と一礼した。
────気になる事が多かったせいか、今日はまったく奮わなかった。普段ならリーヴェから三本に一本は取れるのに、一本も取れずに終わってしまう。
「だらしねえな。お前、弱くなったんじゃないか?」
「今に見てろと言っておきます」
……勝ち誇ったリーヴェの顔は、頬を引っ張りたくなるほど憎たらしい。だが、聖騎士は軽口を返すだけに留めておいた。




