2-01 王子
次の日の昼下がり。
リーヴェはやけにそわそわしていた。
出窓にクッションを並べ、その上に座り、行儀悪く足を投げ出している。
珍しくペラペラと本をめくっているが、どう見ても上の空。ちなみに本は逆さまだ。
ギルは黙って部屋の隅に控えていた。リーヴェの様子が変なのは、今にはじまったことではない。
繕い物をするエミリが意味ありげに、ちらっとこちらを見たが、素知らぬ顔で受け流した。
……エミリの先日の誤解はまだ解けていない。
勤務後あたりに、もう一度否定しておこう……と考えていたところに、コンコンと扉をノックする音が響いた。
リーヴェはぱっと顔を上げて、勢いよく振り返った。
「失礼するよ、リーヴェ」
入ってきた美しい青年を見て、ギルは目を丸くした。だが素早く表情を消し、背筋を伸ばして最敬礼する。
美しい金髪と、曇りのないあざやかな青の瞳。引き締まった体躯に纏った、最上質の衣装。闇をあまねく照らす太陽のような、唯一無二の存在感。
聖女リーヴェを訪ねてきたのは、この国の次期国王にして救国の四英雄のひとり────"神剣の使い手"、クラウス王太子であった。
「……あれ、殿下じゃねえか。ハロに使いを出したのに」
「久しぶりだね、リーヴェ。ハロは星誕祭で殺人的に忙しいらしいよ。それで代わりに僕が来たんだ」
「ふーん、殿下は暇なのか?」
にこやかなクラウスに、リーヴェはいつもの口調でぞんざいに話しかけている。見ていたギルはひやひやした。どう考えても不敬だ。
しかし、クラウスが気にする様子はなく、それどころか親しげに苦笑して肩を竦めた。
「こう見えて僕もなかなか忙しいんだけどね。でも、ほかならぬ君の頼みだし、ハロも様子を見てきてくれって言うから。こっちに用もあったしね」
「そうか。わざわざありがとう」
「どういたしまして。そうそう、『下らない用事で呼び出さないでください』とハロから伝言だよ」
そう言って王子はくすりと笑った。
……クラウスの言う「ハロ」とはあの方だろう。ギルは、王宮魔術師の頂点に立つ、鬼人族の男を思い浮かべた。
年齢不詳の彼もまた、救国の四英雄のひとりだ。
「しょうがねえじゃん。あたしは魔術が使えないし、知らねえやつに頼めるかよ」
リーヴェは唇を尖らせて眉を寄せている。どんな「くだらない用事」を頼めば、あの高名な魔術師の代わりに、王太子が来るというのだ。
気になって様子を見ていると、リーヴェの白銀の瞳と目が合った。
途端に彼女は落ちつきをなくし、そわそわしはじめる。その頬が赤い。
「…………あー、聖騎士。お前はちょっと外してくれ」
「ええ、構いませんが……」
何だ。
こんな表情のリーヴェは初めて見る。
「あぁ、君が新しい聖女専属の護衛殿か」
王子はギルを見て、にこやかに笑った。
「彼女をよろしくね。リーヴェは口が悪いけど、本当はすごくいい子なんだ」
「殿下、余計なことを言うな!」
さらに頬を赤くしてムキになった聖女は、つかつかとギルに歩み寄り、ぐいぐい部屋の外に追い出した。
「お前は鍛練場にでも行ってろ!」
「護衛殿、またね」
にっこりして手を振る殿下に見送られ、ギルは廊下に押し出された。後ろを振り返ると、口を曲げたリーヴェが、扉をバタンと閉めるところだった。
「……何なんだ」
閉ざされた扉の前で呆気に取られていたギルは、何度か瞬きして我に返る。
ひとつ咳払いして、彫刻のような衛士に一礼すると、主に言われた通り鍛練場に向かった。
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吹き抜けの廊下を歩きながら、ギルはさっきの聖女の様子を反芻していた。
あの、リーヴェが。
暴れ馬のように粗暴で、おそろしく傍若無人な聖女が、頬を染めて恥じらっていた。自分の目が信じられない。
同時に…………あんなのでも年頃の娘だったんだな、と妙な感慨を覚えてもいた。
おそるべきじゃじゃ馬…………もとい聖女を乙女に変えたのは、クラウス王子なのだろう、とギルは直感的に思った。
あの、絵に描いたような完璧な王子に、ときめかない娘はいない。リーヴェも例外ではなかった、ということか。
王子様すごい。
無敵の王子パワーに感嘆しながら、同時に、ギルはなんとなく複雑な気分になっていた。そんな自分に少しばかり驚く。
……いや、これは子の成長を目の当たりにした親の心境。そうだ。そうに違いない。
己に言い聞かせながら、さくさく足を進める。
だが、彼の足はある地点でピタリと止まった。神殿の権威を欲しいままにする老人──神官長が側近を引き連れて、向こうからやってくるのが見えたからだ。
────猛禽類のような険しい顔つきの、痩身の老人。大神殿の長たる彼だが、ギルはこの老人が好きではなかった。
ゼラフィールの権力者に巧みに取り入り、神殿内の対抗派閥をいくつも潰して、大神殿の頂点に上りつめた男。実務の評価は高いが、黒い噂の絶えない人物でもある。
苦手な理由は、もう一つある。
神官長とリーヴェは非常に仲が悪く、迂闊に近寄ると、護衛のギルでさえ嫌がらせをされかねない。
見つかる前にとっとと逃げよう。
ギルはさっと方向転換し、吹き抜けの廊下から中庭の小道に足を踏み入れた。生い茂る木々に紛れた、その時。
彼らの話し声が偶然耳に入った。
「…………それで、クラウス殿下はいつ来るのだ?」
「もう神殿においでです。聖女の私室に寄っておられますが、そのあとでいらっしゃるかと」
「ふん、あの小娘を優先するとは私も軽んじられたものだ。だが、王子もいずれはこちらに引き入れてみせよう」
そんな会話が聞こえて、ギルは心底げんなりした。
権力欲の塊のような老人は、太陽のように公明正大なクラウス王子をも取りこもうとして、何やら画策しているらしい。
だが、四英雄の絆は、そう簡単には覆らないだろう。
クラウスは、仲間としてリーヴェを大切にしているように見えた。
……それにしても厄介だ。ギルはため息をつく。
世俗の一部である以上、神に仕える大神殿とて、全くの清浄ではいられない。ここにも醜い権力闘争の闇はある。
なるべく巻き込まれないようにと願っているが、聖女に仕える以上はそうもいかない。
鍛練場へは遠回りだが、このまま中庭を突っ切っていこう。
気配を消して、中庭の奥へ足を向けた時だった。
茂みの向こうから、小さな悲鳴が聞こえた。




