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老倉やかげの過去①




 これは今から10年前、当時小学六年生だった老倉やかげが野イノシシにタイマンを挑み、初めての敗北を経験した直後のことだ。


 時刻は早朝6時30分。老倉やかげの母である老倉老松(おいくらおいまつ)は朝食の準備をしていた。老倉母が作り終えた牛乳、目玉焼き、ウインナー、白米といったメニューをテーブルに並べていると玄関の開く音がした。どうやら娘が牛や畑の世話を終えて帰って来たらしい。


「やかげ~~。ご飯出来てるから手ぇ洗って食べちゃいなさい」


 老倉母は玄関まで届く大きな声で娘へと声をかけた。だが反応がない。いつもなら直ぐに『うん、わかった』という返事がくるのに。心配になった母はとてとてと玄関まで出迎えに行った。


 そこにあったのは泥だらけになり、目元を赤く腫らした娘の姿だった。母は驚き娘へと駆け寄る。


「やかげちゃん!?何があったの!?」


「やかげのパンチ……イノシシに効かなかったです」


 老倉母は瞬時に状況を理解すると共に絶句した。確かに、彼女もこの辺りにイノシシが出没することは知っていたし、彼女の管理する安納芋畑がその標的になるであろうことも承知した上で娘に畑の管理を任せていた。だが、それはあくまでも害獣の危険性や悪性を身をもって体感して欲しかったからであった。通常、野生動物はこちらから手を出さなければ襲ってくるようなことはまずない。


 昔から大人しく、引っ込み思案な娘だ。イノシシに遭遇すれば直ぐに逃げ帰ってくる、そうすれば危険はないだろう───そう母は考えていた。


 しかし、その大人しいはずの娘がまさか拳一つでイノシシに立ち向かうなどと誰が想像出来ただろうか。


 自身の教育不足で娘に何かがあったら───── 老倉母は背筋が凍った。


「けっ、ケガは!?やかげちゃん怪我はないの!?」


「はい。男の子が助けてくれました……」


「男の子……?あっ、そう言えば」


 老倉母は娘を助けたという男の子に心当たりがあった。通常、老倉家の敷地内にある老倉少女の安納芋畑に男の子等いるはずはない。だが今日に限っては違う。それは昨日、老倉母が夕食の用意をしていた時の事だ。

 ピンポーンというチャイムが鳴らされ彼女が玄関へ客を出迎えに行くとそこにいたのは娘と同年代くらいの少年だった。


『あら?あらあらあら?もしかしてやかげの友達かしら?』


 今年小学六年生になる愛娘であるがこれまで友人を我が家に招くという事は一度もなく、それ故に母として娘の交友関係を気に病んでいた。


『やかげ?誰それ?』


 どうやらこの少年は娘を訪ねてきたわけではないらしい。母は落胆した。


『ここ、老倉さん家だよね?明日の朝なんだけど畑の方に入らせてもらってもいい?カブトムシとかとりたくて』


『ああ、そういうこと。良いわよ、荒らさないようにだけしてね』


『うん!ありがとおばさん!』


 そんなやり取りがあったのを老倉母は思い出した。おそらくはあの時の少年がやかげを助けてくれたのだろう。あの少年は確か倉敷さん家の長男だったはず……


「お母さん……」


「うん?やかげちゃんどうしたの?」


 少年の家にお礼を言いに行かなくては、手土産は何が良いだろうかと悩んでいると聞いたことも無いような娘の声が聞こえた。様子がおかしい。いつもは堂々と無表情に言葉を述べるやかげが俯き、服の裾を掴み言い淀んでいる。


 イノシシの恐怖に身がすくんでいるのかとも思ったがどうやら違うらしい。その頬は上気しやかげ自身困惑しているようでもある。


(おや?おやおやおやおや?)


 見たこともない娘の表情ではあったが見覚えがないわけではなかった。母自身その表情を幾度となく浮かべてきたからだ。赤く染まり羞恥に身を焦がすかのようなその表情、まさに恋する乙女の表情に他ならない。


 母は歓喜した。友達もつくらず、趣味もなく、ともすれば自分自身にすら興味がないのでは思ってしまうほどに娘は達観していた。よく言えば精神年齢が高いと言えるのかもしれないが母としてはそれは違う。人を育てるのは他人との触れ合いだ。励ましあい、競い合い、時に傷つけ合って人は成長する、その過程をすっとばした達観など張りぼてでしかない─────それが母の持論だった。


 しかし、とは言っても他人との関係は母から強制するものでもないというのもまた老倉母の持論であり、故に母からできるのは『家の手伝いはしなくてもいいよ』と言うことくらいだった。まあそれでもやかげが安納芋畑だけでなく農場全体の手伝いを止めることはなかったのだが。


 しかしそんな娘がちょっと目を離した隙に恋する少女になっている。


(イノシシに襲われていた所に颯爽と現れて助けてくれた謎の少年……そりゃ恋もするってものね)


 俯く娘の前で老倉母は倉敷さん家の長男に親指を立てた。グッジョブ少年、お前がうちの婿だ。


「お母さん、何か……モヤモヤします」


「そっか、モヤモヤするか……うんうんモヤモヤするよね」


「……?母さんもモヤモヤすることあるんですか?」


「最近はないけどね。昔は父さんの事を思うとずっとモヤモヤしてたわよ」


 老倉母は若かりし日に想いを馳せた。懐かしい……あの時は夫を捕まえる為にあとを付け、交友関係、家族関係、趣味、将来の夢など全て調べ上げ少しづつ、少しづつ外堀を埋めていったっけか……あの時の努力があったからこそ夫を捕まえ幸せな家庭を築けている……こんな事を言えば夫は苦い顔をするだろうが母は本気でそう思った。


「父さん?父さんのことを考えてもモヤモヤしませんよ?」


「当ててあげる。やかげはそのイノシシから助けてくれた男の子の事を考えるとモヤモヤするんでしょ」


「!……はい」


「苦しい?」


「はい……」


「そっか。じゃあ治しにいかなきゃね。さっ!早くご飯食べちゃって!そしたらうんとお洒落して倉敷さんの家にモヤモヤを治してもらいに行きましょ!」



 






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[良い点] 面白い!続きが気になる
[良い点] >「ふざけんな!何が婚約者だ、お前が勝手にそう言ってるだけだろうが!俺のいないところで親父とお袋まで丸め込みやがって、とにかく俺は戻らねぇからな!」 これが、老松さんの差し金なのだという…
2021/07/09 21:41 退会済み
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