わらび餅②
暗くて、臭くて、汚くて、息苦しくて、足の踏み場もないほどに散らかった部屋で一人の少女が泣いていた。
赤ん坊のようにえんえんと泣き喚くのではなく、堪えるように声を押し殺し涙を流している。
泣きじゃくる少女の身体は色白というには余りにも青白く、もう何週間も着替えていない服からは悪臭が放たれていた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
少女は嗚咽とともに誰に言うともなく謝罪の言葉を呟いていた。いや、誰ともなくではない、きっとその言葉はこの場に居ない彼女の両親に向けられている。
彼女が自室に引き篭るようになって一年が経っていた。初めは彼女の両親も落ち着けば直ぐに出てくるだろうと考えていたし、彼女自身、こんな生活は一ヶ月として続けられないだろうと思っていた。
だがいつまで経っても彼女は部屋から抜け出すことが出来なかった。
一ヶ月、二ヶ月、三ヶ月と引き篭って行くうちに、段々と引っ込みがつかなくなっていた。今出ていってどんな顔をして両親に会えばいいのか、どんな顔をして学校に行けばいいのか、そんなことを考えれば考える程に外に出られなくなり気づけば一年が経っていた。
2月10日、本日の日付だ。
中学3年生である彼女は本来なら受験シーズン真っ只中だ。だが今更もう遅い、今になって部屋を出たとしても一年間勉強などしてこなかった彼女が受験できる高校などありはしない。浪人は決定していた。
最終学歴中卒。今のご時世、中卒の、それも女性を雇ってくれる企業がどれだけあるというのか、雇って貰えたとして引き篭もりの彼女にその仕事を続けることができるとも思えない。
彼女の人生はこの先真っ暗だった。少なくとも彼女は自分に生きる価値はないと、ここまで育ててくれた両親に申し訳が立たないと考えていた。
死のう-----そう覚悟を決めていた。
死を迎え入れる日程も既に決めていた。今から一週間後に彼女はこの自室で首を吊って死ぬ、そう決意していた。それが怖くて、申し訳なくて、彼女は一人この部屋で泣いていたのだ。
ピロリンっという音と共に彼女のスマートフォンが点灯した。少女は涙で滲んだ視界の中、微かなスマートフォンの明かりを頼りにそれを掴んだ。
«桃太郎さんが配信『お前らの悩み俺が解決してやるよ』を開始しました»
スマートフォンにはそう通知が届いていた。それを見た少女は直ぐに部屋の中心にある小さなテーブルに向かい、その上に載るノートパソコンを立ち上げる。
スマートフォンに通知のあったページへ飛ぶと少女より少し年上の男性の声が流れ始めた。パソコンの画面には少女より2~3歳ほど年上の男が缶ジュースを飲みながら楽しそうに話す姿が映し出されていた。
引き篭もりとなった彼女の唯一の楽しみ、それがこの名も知らぬ男性が定期的に投稿する動画や生配信を見ることだった。
画面の中の男は粗暴な態度で自身の動画を見ているであろう者達に声をかける。
「俺がお前らの悩みを解決してやっから何でも言ってみろ」
男がそう言うといくつかの文字列が右から左へと流れていった。男はジュースを飲みながら横目で、だがしっかりとそのコメントを吟味し一つのコメントに目をつけた。
『若ハゲでのせいで女からモテません。どうすればいいですか?』
「テメエがモテねえのをハゲのせいにしてんじゃねえよ!!周りの人間をもっと見てみろよ!ハゲてても結婚できてるやつはいくらでもいるだろが!お前がモテないのはハゲだからじゃねえ、頭部以外の面でもお前に魅力がねえからだよ!」
配信を見ていた少女は少しだけ噴き出した。
(あはは、どうしてそうなるのよ。普通、悩みを聞くって言ったらその解決策か何かを提案するものでしょ。やっぱりこの人イカれてる)
少女の感想はもっともだった。普通ならば自身の配信に集まってくれた視聴者達を逃すまいと、配信者達は歯に衣を着せ、耳障りのよい言葉を並べて媚を売る。ましてこの男のような罵声を浴びせてしまえば下手をすれば炎上、少なくともリスナーの減少は避けられない。だがこのコミュニティは違った。配信者の心無い言葉に対して非難するどころか彼に好意的なコメントが多く寄せらていたのだ。
『正論』『やめろ、その言葉は俺に効く』『ただの罵倒で草』『まあハゲはデメリットではあるけど致命傷かと言われると……いややっぱ致命傷かもしれねえわ』
『そうですよね……ハゲてても他でカバーすれば良いんですよね。ありがとうございます!俺ちょっと今から筋トレしてきます!』
視聴者だけではない、悩みを相談し罵声を浴びせられた本人さえも彼に感謝の言葉を告げていた。
(私も……この人に相談すれば自殺しなくて済むのかな……)
そう考えた時には既に少女の指はキーボードへと向かっていた。カタカタと、自身の不安と恐怖を指先に乗せ言葉を紡ぐ。
『中学三年、引きこもりです。このままだと最終学歴が中卒でこの先の人生が詰んでしまいます。どうすればいいですか?』
決意を込めて並べた文字列を送信した。
(お願い……届いて……届いて……わたしを助けてよ、死にたくないよ……)
「おっ面白そうな悩みきてんじゃん、『中学三年、引きこもりです。このままだと最終学歴が中卒でこの先の人生が詰んでしまいます。どうすればいいですか?』だってよ」
少女の救済を求める文字列は配信者の元へと無事に届いた。少女は固まった。もし、もしもこの人にまでもう人生詰んでると言われてしまえば本当に終わりだ。直ぐにでも首を吊ろうと少女は決意した。
「おいお前ら、最終学歴が中卒だと人生終わりなんだってよwww」
しかし、そんな少女の決意とは裏腹に、配信者の発した言葉は軽く、少女の悩みを嘲笑うかのようなものだった。
「ちょっと中卒の奴ら手ぇあげろよ」
『ノ』『ノ』『ノ』『ノ』『ノ』
「やっぱりな、結構いんじゃん。んでお前ら今の人生どうよ?まあ色々あるんだけどそれなりに楽しくやってんじゃねえの?」
『おう、それなりに楽しいよ』『別に普通に生活してるよ。嫁と子供もいるぜ』『仕事って選ばなければ何でもあるしな』
「な?コメントでもあったけど選ばなけりゃ土方でも何でも仕事なんざいくらでもあんだよ。お前は全然詰んでねえよ」
軽くて、無責任な言葉だった。だけど彼のその言葉を聞いていると少女の心に重くのしかかっていた不安が少しずつ取り除かれていった。まるで少女の眼から溢れる涙とともに不安が排出されているかのような感覚だった。
涙で霞む視界の中、少女はなおもキーボードを叩く。
『女なので土方は無理です』
「だったら俺みてぇに配信者になればいい。配信者がだめなら家政婦でもあんだよ。もしそれでも、だめなら俺が嫁に貰ってやるよww」
『おいこら、それはちげーだろ』『お前老倉ちゃんに言いつけるからな』『お前もう女は懲りたとか言ってたじゃねーか……』
暗闇の中、少女は声を上げて泣いた。だがそれは苦しくて悲しくて辛いからではない。将来への不安、死への恐怖から開放された安心から溢れ出た涙だった。そしてその涙がかれる頃、少女には一つの目標ができていた。
「わたしも動画配信者になる」
少女、北長瀬咲花が動画配信者、『わらびもち』へと姿を変えた瞬間だった。
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北長瀬咲花こと、わらびもちが動画配信者としてデビューして1年。ゲーム実況業界ではかなりの知名度を誇るようになった彼女は一人の配信者を探していた。
『桃太郎』。あの日彼女を絶望から救ってくれた男だ。北長瀬は自身を絶望から救ってくれた桃太郎に直接お礼を告げようと何度も彼との接触を試みた。だがダメだった、幾度彼にメールを送ろうと返信がくることは一度もなかった。ならばと探偵を雇ったこともあったが男の足取りを掴むことは出来なかった。
この人は本当に実在しているのか?もしかしてネット上に生きる幽霊のようなものなのでは?そんな突拍子もないことを考え始めていた時だった。
彼女が所属するMCNの担当者にどうしてもと連れて来られたパーティー会場に彼女が探し続けていた男はいた。
桃太郎を見つけた彼女は走りだし、気づけば彼の腰に抱きついていた。
「好き!!」
お礼を言うはずだった北長瀬の口から溢れたのはそんな二文字の言葉だったという。