006 キノコ名で呼ばれたら
ヨシュアが輪の外周も外周から眺めた結果、どうやらドロシーは頭から飲み物をかぶったようだった。
(うわ、流石にあれはない)
ヨシュアも思わず不快な気持ちになる。
「ドロシー、大丈夫かい?」
シャルルがドロシーの顔を覗き込んでいる。
(最低だ。お前がかぶれ!!)
ヨシュアはドサクサに紛れ、シャルルに文句を言う。勿論心で。
「えぇ、ちょっとびっくりしたけど大丈夫です」
健気に笑みをつくるドロシーにヨシュアの心は更にズキンと痛む。
「ドロシー様……本当に大丈夫?良かったら、これをお使いになって」
顔色を悪くしたニーナがドロシーにハンカチをおずおずと差し出した。
「まぁ、ニーナ様ったら、何てお優しいのかしら。ねぇ、シャルル様もそう思うでしょう?」
頭からポタポタと雫を垂らしながらも健気に微笑むドロシー。
(くっ、この期に及んでまでニーナ嬢の為に婚約破棄に向けた演技をするなんて。ドロシー嬢、いい子過ぎるだろ)
事情を知るヨシュアは素直にドロシーの友人を思う優しさに心打たれた。
「確かに優しいと思う。しかし今は君のその状態の方が問題だ。中座して直ぐに着替えるべき。よし、行こう」
シャルルがドロシーの腕を引っ張る。
「えっ、シャルル様?何処へ?」
「気にするな。私に任せておけば大丈夫だ」
シャルルは気遣うような言葉をドロシーにかけた。
その表情はとても柔和で、周囲を何処か安心させる説得力のある笑みだった。
(僕にはあんな風に笑えない)
ヨシュアが負けを認めると、周囲の女子から甘い声が漏れ聞こえてきた。
「まぁ、シャルル様お優しいわ」
「それに頼もしいですわね」
「あんな風に気遣って頂けるなら、私も喜んでシャンパンを被りたい」
(こ、これが王子殿下のカリスマ性……)
ヨシュアは嫉妬する気持ちすら忘れ、ただただ周囲の女子をあっという間に夢中にさせたシャルルの存在に圧倒されかけていた。
「ヨシュア、見ろよあの目。まるで獲物を見つけた猛禽類のようじゃないか?」
隣に並ぶロイが小声でヨシュアにそう告げる。
「まさか。シャルル様は善意で……あれは確実に駄目な目だ」
ヨシュアはロイに同意せざるを得ない。
シャルルの目は確かに鋭く光り、獲物を狙うようだったからだ。
(まさかシャルル様の獲物はドロシー嬢!?)
キノコの事以外、わりとのほほんとした所のあるドロシーだ。自らが危険に晒されている事に気付いていない可能性がある。大いにある。
(まずいぞ。このままじゃ、本人が大嫌いだと公言する男に手篭めにされてしまう!!)
ヨシュアは焦った視線をドロシーに送る。
「大丈夫です。自分で寮まで帰れますから」
ドロシーは自分の腰に手を回すシャルルから距離を取ろうと必死に抵抗していた。
(良かった。流石に気付いたか。そっか、彼女はキノコの観察力にも長けているしな……)
ヨシュアは密かに胸を撫で下ろした。最悪助けるべきかと一時は焦った。けれどここでドロシーに声をかけるには、相当な勇気と覚悟が必要だ。
(権力には呑まれるのが一番。色恋で人生を棒に振るなんて馬鹿な奴がすること)
ヨシュアは自分にそう言い聞かせる。
「さ、ドロシー行こう」
無理矢理ドロシーを会場の外に連れ出そうとするシャルル。
「お待ち下さいシャルル様。ドロシー様は嫌がってます。離してあげて下さい」
ニーナがたまらずと言った感じで声をかけた。
(格好いいな。ニーナ嬢)
完全に蚊帳の外状態のヨシュアは呑気にそう思った。
「私の好意を嫌がる?」
「えぇ、嫌がっているように私には見えます」
シャルルは理解不能といった顔をニーナに向けた。
「全く君は可愛いね。嫉妬しているんだね?」
「していません。真実を述べているだけですわ。それに婚前前の女性とそんな風に密着するのは、道徳的にどうかと思います」
「あぁ、ニーナ。それは完全に嫉妬じゃないか」
「違います」
(負けるな、ニーナ嬢)
ヨシュアは遠巻きにニーナに声援を送る。勿論心で。
「そもそも、ドロシーにシャンパンをかけたのは君と行動をよく共にしているアンナじゃないか。つまり私が予測するに、嫉妬に駆られた君がアンナにドロシーを懲らしめろと指示をしたんじゃないのか?その結果がこれだろう?」
「そんな事していません。アンナ、そうよね?」
ニーナは背後に控えていたアンナにそう問いかけた。
アンナの手には空になったシャンパングラスが確かに握られている。
「わ、私は……」
ビクビクと震えた様子のアンナ。
「やめるんだ、ニーナ。君が私をどれほど愛してくれているかは承知している。そして私は出来る限り君のその熱い気持ちに応えているつもりだ。しかし嫉妬に駆られ、このような事を企む張本人である君が、一体どうしてアンナを責めるんだ?」
シャルルは威厳のこもった声でハッキリと言い切った。
(これじゃまるでニーナ嬢が悪者みたいじゃないか。あいつ確かに厄介だな)
ヨシュアは思い切り人影に隠れシャルルを睨みつける。
「アンナ様はニーナ様の指示に従っただけという事?」
「シャルル様がそう断言なさるのだからきっとそうよね。だとしたらニーナ様はやりすぎだわ」
「確かに、アンナ様が可哀相」
(信じるなよ!!)
ヨシュアは周囲の声に反論する。そして今度こそ心ではなく、きちんと口に出そうとした。
「ニーナ嬢はやっ――むぐぐ」
「おい、ヨシュア落ち着け。何正義ぶってんだよ。俺たちの言うことなんか誰も耳を貸すわけないだろ。相手は王子殿下なんだぞ」
ヨシュアの口元を押さえたロイ。その言葉にヨシュアはコクコクと頷く。
(確かに、この場で一番発言に重みがあるのは間違いない、シャルル殿下だ)
ヨシュアはロイの言葉こそ真実だとうなだれる。
(悔しいけど、シャルル様と僕とじゃライオンとひよこくらいの差がある)
ヨシュアは不甲斐ない自分を悔しく思う。しかしだからといって何か出来るわけではないと、その事もまた理解出来てしまう自分が更にヨシュアを苦しめる。
「すまない、ロイ。ついカッとなった」
「いや、気にするな。お前にしては珍しいけど、まぁ、気持ちは分かるし」
「ありがとう」
ロイのお陰で少しだけ冷静になったヨシュア。
「やめて、離して」
「騒ぐなんてみっともないぞ、ドロシー」
シャルルは嫌がるドロシーの耳元に口を近づけ何かを囁いた。
(近っ、離れろ変態!!)
ヨシュアは相変わらず心でシャルルを罵倒し、しかし今度は怒りで拳を握りしめる。
「わかったよね?じゃ、行こうドロシー」
「はい、シャルル様」
(えっ!?)
耳元で何かを囁かれたドロシーは急にしおらしく諦めたように抵抗をやめた。
(な、何だよ。何がどうなってんだ)
「みんな騒がせたね。私と彼女は今日はこれでお開きにするけど、君達はゆっくり楽しんでくれ。さぁいこうか。ドロシー」
「はい……お騒がせしちゃってごめんなさい」
泣きそうな顔でドロシーは静かに頭を下げた。
「一体何があったんだ?あんなに嫌がっていたのに」
ヨシュアの隣にいるロイも不思議そうな声を出している。
「いいなぁ、ドロシー様」
「私もシャルル様の寵愛を受けたいな」
「ふふ、あんたじゃ無理」
「ま、そうだけど」
ヨシュアの隣からはそんな呑気な女子の会話も聞こえてきた。
「では、みんな失礼する」
シャルルがドロシーの声を腰をグイと掴み人混みを掻き分けながら歩き出した。
(よくわかんないけど、僕には何も出来ないし……)
ヨシュアは色々と葛藤する気持ちと戦いながらも、結局はこの十六年の人生で身についてしまった「諦めること」を選択した。
(ごめん、ドロシー嬢)
ヨシュアは心で何も出来ない無力で意気地なしの自分を恥じる。そして諦める事を選択した今、金輪際、ドロシーの前に立つことは二度と出来ないと思い、ぼんやりと床を見つめる。
衣擦れの音が近づき、ヨシュアの前をドロシーが通り過ぎる。
「ヨシュ……モドキ……たすけ……」
(え、ドロシー嬢?)
微かな声で、けれど確かにヨシュアには聞こえた。
(でも、相手はシャルル様。だけど今のは絶対に僕に助けを求めていた)
でも無理だとヨシュアは床をジッと見続ける。
「行っちゃったぜ?ドロシー嬢のお相手は順当通りシャルル様か。俺、大穴狙いでお前にかけたのに。この役立たずめ」
ロイが恨み節を口にしながらヨシュアのオデコを指で弾いた。かなり痛かった。
「痛い」
「そうだろ。なぁ、お前ドロシー嬢が好きなんだろ?」
「別に僕は。それに僕が万が一彼女を好きだったとしてもシャルル様に敵うわけないだろ?」
ヨシュアは全力で自分を庇う。
そして立場の近い親友ならば、自分のモヤモヤとしたどうしようもない気持ちをきっと理解してくれるとヨシュアは思った。
「わかんないぜ?ドロシー嬢も案外お前の事気にしてたし」
「それは……」
(嫌われてはいないだろうけど。だってキノトモだから)
けれど、その事は誰にも言えない。
何故なら秘密結社だからだ。
「確かに俺達はシャルル様の足元にも及ばない目立たない地味な連中だ。けどさ、チャンスはゼロじゃない」
「ゼロだろ」
「いや、相手の趣味が相当変わっている場合、俺達だって選ばれる可能性はある」
「それ、レアケースだろ」
「つーかさ、俺らって金を無駄にしない生活を心がけてるじゃん?」
「当たり前だ。有り余るほど小遣いをもらっている訳じゃない。だから節約は大事だ」
(何でいま、その話なんだよ)
ヨシュアはロイに八つ当たり気味に苛々としてしまう。
「そう。俺は倹約家だ。そんな俺がお前に賭博で金貨を数枚ほど、お前に更に賭けたんだぜ?」
「は?馬鹿だろ」
ヨシュアは呆れた顔をロイに向ける。
金貨と言えば、通常大型貿易で使われる程の大金だ。
(ロイは僕以上に無駄使いを嫌がる人間。なのに何故そんな馬鹿げた金額を……)
「ってまさか!!」
「ま、そういうこと」
ロイの自慢げな確信を持った表情でヨシュアはハッキリと気付いてしまった。
(いや、僕はもう何となく知ってた。だけど怖くて、勇気がなくて、だから彼女の気持ちに気付かないフリをしてたんだ)
「僕が恨まれたら、君も巻き込む事になるかも。ロイ、すまない。でも僕は行く」
「ま、金貨が無駄になるよりはいいさ。一緒に恨まれてやるよ。頑張れよ、壁の染み!!」
「おう」
ロイが片手を上げた。ヨシュアはその手を自分の手の平で思い切り弾く。
パシンと大きな音が響く。その音に勇気をもらいヨシュアは全速力でホールの出口に向かったのであった。