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穴があったら入りたい

作者: 渚 孝人

「穴があったら入りたい」という気持ちになったこと、たぶん誰しも一度はあるのではないだろうか。

これは僕が中学生だった時に起きた不思議なお話である。


中学生の頃、僕は毎日中央線に乗って通学していた。僕の学校は男子校だったため女の子と付き合っているやつなんてほとんどおらず、唯一の出会いの場所は塾だった。

ある日の通学中、僕はたまたま塾で同じクラスの女の子(美希さんとしておこう)が同じ車両に乗っているのを見つけ、どきどきしながら

「あの、良かったら時間合わせて一緒に通学しない?」と誘ってみた。

結果はまさかのOKで、僕は有頂天になった。


その次の日以降一緒の通学が始まったわけだが、美希さんはなぜかいつもそんなに楽しそうな感じがなく、今になって考えてみるとどう考えても全くの脈なし状態だった。しかしうぶな中学生がそんなことを分かるはずもなく、ある日の通学中、僕は

「良かったら、今度、デートとかどう?」と誘ってしまった。

すると美希さんは、

「あー、ごめんね。私実は付き合ってる人がいるの。だから無理。それから、一緒の通学も今日で最後にしよ?」と言うと、彼女の学校がある荻窪でさっさと降りて行ってしまった。


付き合ってるやついたのかよ!という気持ちと、周りのみなさんからの痛いくらいの憐れみの視線を受けて、僕は顔が真っ赤になってしまった。TPOを考えずにデートに誘ってしまったせいで、朝の満員に近い中央線だったからギャラリーはとにかくたーくさんいた。下手したらウインブルドンのセンターコート並みの注目度だったかも知れない。


僕は消えてしまいたいという気持ちを抱えたまま、中央線に乗ったまま固まっていた。学校がある吉祥寺に着いた時もとてもじゃないが降りる気分になれず、そのまま椅子に座ってぼうっとしていた。

中央線はそのままどんどん進んでいき、立川や八王子を過ぎると僕のことを憐れみの視線で見ていた会社員のおっさん達も、自分の職場の駅に着いて次々に降りて行った。


気が付くと、車内には僕を含めて数人しかおらず、中央線はよく分からない山の方の駅についた。

僕はやっと少し安心してホームに降りたが、今さら引き返して授業を受ける気にはなれず、今日は熱を出したことにしよう、と決心してその駅でぶらぶらして過ごすことにした。


そこら辺を歩いてみて分かったことは、この駅の周辺にはとにかく何にもない、ということだった。

何にもないけどマックとコンビニならある、というならまだ分かるのだが、そこには本当に何にもなかった。ただ民家が数件あってカラスが鳴いているだけだ。よく考えてみたら駅に駅員すらいなかったような気がする。東京にこんなド田舎みたいな駅があったのか、と驚いたが、まあ傷心を癒すには逆にうってつけかも知れない、と考え直して僕は山道を歩き始めた。


歩いている内に僕はさっきの人生最大級に恥ずかしい体験を思い出して、誰も見ていないのに真っ赤になってしまった。

「ほんとに穴があったら入りたいくらいだわー。」とつぶやいてふと前方を見た時、僕の目の前には本当に穴があった。


どうせマンホールのふたが開いてたかなんかだろ?とみなさんは思うだろうけど、それは明らかにマンホールなんかではなかった。だいたい砂利だらけの山道にいきなりマンホールなんてあるわけがない。


その穴はだいたい直径1mくらいの大きさで、そこだけがまるでブラックホールみたいに真っ黒になっていた。

「なんだこれ?」とつぶやいて、僕はしゃがみこんでその穴をのぞきこんだが、奥は真っ暗で何も見えない。穴のふちを触ってみようとしたが、なぜかその穴にはふちというものがなく、伸ばした手は空を切ってしまった。


普段の僕だったら(というかまともな神経をした人なら)、そんな気味の悪い穴からは一目散に逃げるか、警察に相談するかしただろうと思う。だけど、その時の僕はまさに「穴があったら入りたい」状態だったから、僕は迷ってしまった。これはもしかして、はずかしーい体験をした僕のために誰かが用意してくれた穴なんではないかと。

それに僕は結構なファンタジー好きで、ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」もよく知っていたから、うさぎの穴に落ちたアリスみたいに、すげー楽しい体験が出来るかも知れない、と思ってしまった。


僕は少しの間迷っていたが、やがて目を閉じて神経を集中させると、背負っていたカバンを前向きにかけなおして、その訳の分からない穴に飛び込んだ。

しばらくして僕が思ったのは、

「あれ?まだ落ちてる、もしかして?」ということだった。

ハリー・ポッターとかにも深い穴に落ちるシーンあったけどさ、せいぜい数十秒だったじゃん、と僕は思った。僕はその時すでに、少なくとも3分以上は落ち続けていた。

いやいや、いくらなんでも深すぎだろ、地球の真ん中にこんなとんでもなく深い穴があったら、そのうち中心のマグマみたいな層に到達して、自分は熱でどろどろに溶けてしまうんじゃないだろうか、と僕はだんだん不安になってきた。


しかし、僕は地底っていうやつには全く届く気配がなかった。というかこんなとんでもないスピードで落ちていたら下から風を感じそうなものだったが、それすらなかった。むしろ宇宙空間にただよってる、と言った方が近いかもしれない。


そうだ、これはむしろ宇宙だ。と僕は思った。さっきの穴だって穴と言うよりはむしろブラックホールだったし、ここは地底じゃなくて宇宙と言った方が近い。でも宇宙だったら周りは真空のはずだ。そういえばさっきから耳がすごいキーンとしている。僕は宇宙に連れていかれて、爆発してしまった可哀想な犬の映像を思い出した。僕もあんな風に爆発してしまうのだろうか?


そんなことを考えているうちに、僕は暗闇の中に立っていた。どすん、もなかったし、すとん、もなかった。気が付いたら立っていたのだ。懐中時計を見ながら慌てて走っているせっかちなウサギもいない。

「なんなんだよ、ここ。」と僕は自分から落ちたにも関わらず悪態をついた。


下手に動いてとんでもない目にはあいたくなかったので、僕はしばらくその場所に立っていた。段々耳が慣れてきて分かったのは、その場所の近くでゴオーという音がしているということだった。僕はゆっくりしゃがみこんで、自分が立っている場所をそっと触ってみると、そこは土のような感触がした。

「なんだ、宇宙じゃないみたいだな。」と僕はつぶやいた。


そこら辺を歩き回って分かったのは、僕がいるのは円形の広場みたいなところで、ゴオーという音がしていたのは中央に流れている川のようなものである、ということだった。

川、と書くとそれ単なる下水道じゃないの?と言われそうだが、その川は明らかに下水ではなかった。下水よりもっとずーっと汚い。下水が富士山の天然水くらいに思えるくらい汚い、と言えば伝わるだろうか。それにその水は、信じられないくらい臭かった。鼻が180度曲がってしまうのではないかと思ったくらいだ。


それに、もし下水道だったら細い道に立っているはずだが、僕がいる円形の広場はむしろ東京ドームくらいあるんじゃないかというくらい広かった。僕は念のためミスターが微笑んでいる看板を探してみたが、もちろんそんなものはなかった。


「やばいなあ、とんでもないとこに来てしまったみたいだ。」と僕は誰に言うでもなくつぶやいた。ネットでよくある異世界というやつだな、と思った。大体ああいう話の主人公たちはろくでもない目にあって、まあどう考えても幸せな結末はない。

その時、懐中電灯の光のようなものが遠くから照らされている事に僕は気が付いた。その光は2本あり、そんなに強くはないがどう考えても僕に向けて当てられているらしい。


僕はその光に思わず目を細めた。長いこと落ちているうちに目が暗闇に慣れて光に反応するようになってしまったらしい。その2本の光は段々強くなり、僕のすぐ近くまで来て、止まった。

「おー、めっずらしいねえ、子供がこんな所にくるとはねえ。」と誰かが言った。ワンピースに出てくる海軍大将黄猿みたいな声だ。

「あれじゃねえですか、山登り中に、間違えて落ちちまったっていうやつ。」と野太い声で違うやつが言った。


僕は訳が分からないままその光のほうを見ていたが、そのうち見えてきたのは、2人の作業服を着たおっさんだった。一人はモミの木みたいにひょろりと背が高く、もう一人は背が低くてずんぐりと太っている。どちらの着ている作業着も原型が分からないレベルで汚れていて、顔はすすみたいなもので灰色になっている。まあこんな汚ねえところに長いこといたらそうなるか、と僕は思った。僕に当てられているその2本の光は、2人がかぶっているヘルメットに付けられたライトから出ている光のようだ。


「君、なにしてるのかねえ、こんな所で。」と背の高い方が言った。

「そうだそうだ。」とずんぐりした方がうなずいた。


僕は向こうの考えているストーリーに合わせてしまうのが一番早いだろうな、と思い、

「いやー、実はですね、すごい景色の綺麗な所だなあ、って感動しながら歩いてましたら、足元に穴が開いていることに全く気が付かなくてですねえ、ははは。」と言って頭を掻いた。

「ほう。」と言って背の高い方のおっさんは少し怪しむような顔になった。

「妙だねえ。あの穴は普通の人はぜーったいに落ちないような仕組みになってるはずなんだけどねえ。」


あ、なんかまずい流れになってる、と僕は思い、逆に質問してみることにした。

「えーっと、普通の人は落ちない、ってのはどういうことなんですか?」

太ったほうのおっさんが、それを聞いて

「ぼうやはあの川はみたのかい?」と尋ねてきた。

「え、あのとんでもなく臭い川のことですか?」と僕は言った。


「そうあの川のことだ。あ、名前を言うのを忘れちまってたな、俺はボブっていうんだ。そしてこの人がのぶさんだ。」と太ったおっさんは言った。

いや、のぶとボブって日本人だか外人だかはっきりしろや!と僕は思ったが、状況的に2人を怒らせるとろくなことにならなそうだったので「なるほど~、覚えやすいですね!」と笑顔で言った。


のぶさんは川を指さして、

「この川はね、世界中の人々の怒りや憎しみ、悲しみと言ったあらゆるネガティブな感情が流れ込んでできたものなんだよ。」と言った。

僕はそれを聞いて、シンプルに

「は?」と思った。


たぶんこの人は冗談を言っているか、この場所に迷い込んできたガキに嘘を教えてからかっているのだろう、と僕は思った。僕はしばらく2人のうちのどちらかが、「うっそ~」と言って笑い始めるのを待っていたが、のぶさんは川を見つめて物思いにふけり、ボブさんは腕組みをしてうんうんとうなずいているだけだった。


え、何それ、ガチなの?の僕は思った。

確かに、言われてみるとこの川の汚さはマジで尋常ではない。さっきも言ったように下水が天然水に思えるレベルの汚さだ。だが、もし世界中の人々のあらゆるネガティブな思いが流れ込んでいるとしたら?


そこまで考えたが、やはり、いやさすがにないでしょ~!と僕は思った。

てゆうか何で人間の感情が水になるわけ?そんな理論化学の授業で習ってない。

僕は首を横に振り、自分が正気であることを確認した。大丈夫、こんな訳の分からんおっさん達にだまされるほど自分はおかしくはない。


「へえ~、そーなんですかあ。」と僕はだまされたフリをして感心してみせた。

のぶさんは僕を見て、

「君もここに迷い込んできたということは、とんでもなくネガティブな気持ちになっていたはずだ。でなければあの穴を見つけられるはずがない。」と言った。


ぎくっ!と僕は思った。

やべえ、もしかしてあの顔から火が出るほど恥ずかしい体験によって、ネガティブな気持ちになってたからあの穴を見つけてしまったのだろうか?そう思っているうちにまたあの恥ずかしい気持ちが心の中に蘇ってきた。


その時だった。僕が信じられない体験をしたのは。

僕のちょうどおへそのあたりから、灰色か黒のようなゆらゆらとしたけむりのようなものが出てきて、目の前のとんでもなく汚い川に入って行ったのだった。

僕は自分が見ているものを信じられず、呆気に取られてそれを見ていた。


ボブはそれを見て、

「ほらぼうや、ぼうやの何かのネガティブな感情が、川に注いでいるだろう。」と言った。

何なんだこれは、と僕は思った。でもなぜかは分からないが、それは不思議と嫌な感覚ではなかった。

むしろなぜかすっきりして、心が晴れ晴れしてくるくらいだ。


のぶさんは僕を見て、

「気分が晴れてくるだろう。この川はね、見た目にはとても汚くみえるけれども、聖なる川なんだよ。人々のあらゆる負の感情を受け止めて、洗い流してくれるのさ。」と言った。

何だそれ、ガンジス川みたいだな、と僕は思った。でもさすがのインドの人たちも、この川を見たら恐れをなすだろうな、と思った。


「この川は一体どこに流れて行くんですか?海ですか?」と僕は尋ねてみた。

ボブは僕を見て、

「そっかそっか、それを言ってなかったね。案内しよう。」と言ってのぶさんと2人で川に沿って歩き始めた。


僕は2人について歩いていたが、何しろ東京ドームくらい広い広場なので、なっかなか端まで着く気配がない。疲れたなあ、と思って歩いているうちに、一向は何やら巨大な機械の前にたどり着いた。

その機械は縦横高さそれぞれ10mくらいあり、やたらたくさんの部品が着いている構造がかなり複雑そうなもので、あの汚い川の水がやばいくらいの勢いで流れ込んでいた。


「うわー、なんなんですか、このでっかい機械は?」と僕は尋ねた。

「この機械はね、この川の水を受け取ってアメに変えてくれる機械なんだよ。」とのぶさんは言った。

アメ?と僕は思った。


「アメって、あの、地上にふってくる雨のことですよね?」と僕は、さすがにあの舐める飴の方ではないよな、と思いながら聞いてみた。

「違う違う、あのよく舐める飴のほうだよ。」とボブは当たり前のように答えた。

えー!そっちのアメかよ!!と僕は思った。

いやいや、飴作ってるっていう割には全然出てくる気配がねえじゃねえかよ、と思い、

「あの、その飴はいつできるんでしょうか?」と僕は尋ねた。


のぶさんは腕を組んで、

「そのうちに出来るだろうから見ていなさい。」と言った。

僕たち3人はそれからしばらくの間、その巨大な機械がうなりをあげている前で、何もせずにただ待っていた。10分が過ぎ、15分が過ぎたが、特に何も起こらない。ただうるさいだけだ。

僕は嫌気がさしてきて、

「あの、そろそろですか?」と尋ねたが、2人に怖い顔で睨まれて、すんません、と言ってちょっと落ち込んだ。


明らかに30分以上が経過したあと、突然その機械の轟音が止まり、ぽっこんという可愛い音がして、小さなアメが機械の一番下から出てきた。出てくる所だけをみると、10円を入れて回すとガムが出てくるガチャガチャと同じ構造だった。

のぶさんはそのアメを拾い上げ、僕に見せてくれた。


そのアメは黒かった。黒かったというよりは、真っ黒だった。どす黒い、漆黒と言った方がより近いかもしれない。

うわー、世の中のあらゆる負の感情を詰め込んでぎっちぎちにしたら、こんなやべえ色のアメが出来ちまうのか、と僕は震えあがった。よくそんなものこの人は素手で触れるな、と僕はのぶさんに感心してしまった。


ボブは事もなげに、

「どうだ、ぼうやも舐めてみなよ。おいしいよ~。」と言った。

僕はまた、

「は?」と思った。

今日一日頭のおかしい発言を数多く聞いてきたつもりだったが、その中でも一番イカレタ発言だよこれ、と思った。なんで明らかにこの世で(ここがこの世かどうかは置いておいて)一番やべえアメを好き好んでなめなきゃいけねえんだよ。というかおいしいって舐めたことあるのかよあんたらは。


「いやー、遠慮しときますわ~。」と僕は笑顔で言った。

しかしのぶさんは真面目な顔で、

「いや、君も舐めてみた方がいい。これは立派な社会勉強だ。それにボブも言っているように慣れてくるとなかなか美味い。」と言った。

誰か助けてくれえ!と僕は心の中で叫んだが、もちろん誰も助けに来てはくれなかった。さっきも言ったように微笑んでいるミスターもいないみたいだ。


僕は遠慮するように手を振りながら笑顔であとずさりしていたが、のぶとボブは真面目な顔で僕に詰め寄って来る。しばらくそれが続いていたが、そのうちに壁際に追い詰められてしまった。

もうだめだ、あかん、この世の終わりだ、と僕は思った。やっぱりあの穴に入る前に思い直して学校へ行くべきだったのだ。人生で最大級の恥ずかしい経験をしていたせいで、頭がどうかしていたのだ。ええい、ここまで来たらこのアメをなめてどうにでもなればいい、と僕はやけくそになった。


「じ、じゃあペロッとなめるだけ。」と言って、僕はのぶさんからそのやばいアメを受け取った。

持ってみると、意外にそんなに重くはない。僕はダンベル並みの重さを予想していたので、拍子抜けしてしまった。

恐る恐る少しだけ、ペロッと舐めてみた。


ん?と思った。

何か味がしない気がする。だが次の瞬間、僕はこの世のものとは思えないほどのマズさに猛烈な吐き気がこみ上げてきて、

「おええええええ、まっず~!!!!!」と叫んで持っていたアメを放り出した。

やっぱりやべえ味じゃねえか、と僕は心の中で悪態をついた。舐めてるとそのうち美味しくなってくる?味覚完全にぶっこわれてるだろ、ありえねえよ。


その時までの僕の中のこの世で一番マズい食べ物は、誕生日の時に姉さんが作ってくれた黒焦げのパンケーキだったが、そのアメはその一位の記録をぶっちぎりで更新した。姉さん良かったね。このアメを舐めたあとに、そこら辺のおっさんが吐き捨てたガムを拾って食べたら、たぶんトリュフ並みに美味しく感じるに違いない。そう確信できるような味だった。


しかし2人は僕を心配するどころか、

「おい、なに放り投げてんだ!」と言って慌ててアメを拾い上げた。アメの方が大事なのかよ。

僕は息も絶え絶えに、

「あの、水ないですか?口をすすぎたくて。」とボブに言った。

ボブは川を指さして、

「水ならそこにあるやん。」と言った。


ちがわい!その水で口すすいだら逆効果に決まってるだろ!ていうかなんで今更関西弁なんだよ、大学から上京してきた感じ?と思いながら、

「できれば、ミネラルウォーターみたいなのがいいです。」と言った。

するとのぶさんが、ごそごそとペットボトルの天然水を取り出して渡してくれた。

いやどこで手に入れたんだよ、どう考えてもここら辺自販機ないでしょ、と思ったが、とにかくありがたく頂いて何度も何度も口をすすいだ。


ようやく口のなかにまともな感覚が戻ってきたので振り返ると、のぶさんはさっきのアメを口に入れて美味しそうに舐めていた。

やべえよこの人、と思ったが僕は愛想笑いをしてペットボトルをのぶさんに返した。


のぶさんはアメをなめながら、

「さっき君にはこれを舐めてみるように勧めたがね、実は口に合わないのは分かっていた。実は我々2人はとんでもない変わった味覚を持っているということで選ばれてここに送り込まれてきたんだよ。」と言った。

いや口に合わないの分かってて舐めさせたのかよ、いい加減にしないとさすがに怒るぞ、と思ったが、ふと疑問に思って

「選ばれてここに送り込まれてきた?」と僕は尋ねた。


「そうだ。我々は地上の食べ物が口に合わなくてね、ここで作られたアメを食べることで生きているんだ、その代わりほかのものは何も食べなくても生きていける。」とボブが言った。

「我々が食べないと、何日かするとこのアメは爆発して、あらゆる怒りや憎しみが地上の人々に降り注ぐことになるんだ。」とのぶさんもうなずきながら言った。


えー!爆発?だからさっき僕がアメを放り投げた時にめっちゃ慌ててたのか、とようやく僕は理解した。

僕はその時、もしかしてこの2人はとんでもない偉人なのかも知れない、とふと思った。

この2人がアメを食べてくれるからこそ、世の中の人々は怒りや憎しみ、悲しみ、恐怖、嫉妬、嘆き、といったあらゆる負の感情を忘れることが出来るのかもしれない。完全に忘れることは出来ないにしろ、負の感情というものは時間とともに和らいでいく。この2人がいなかったら、世の中は戦争だらけ、殺人だらけ、犯罪だらけになってしまうのかも知れない。


僕は改めて2人の冴えないおっさんをしげしげと眺めた。そして背負っていたかばんを手に持ち、

「いつもご苦労さまです。」と言って深々と頭を下げた。

のぶさんはそれを見て、

「いやいや、われわれも人々の負の感情がないと生きていけないから、お互い様だよ。最近じゃネットが発達したおかげで、みんなお互いに罵詈雑言を書き込むだろ?そのおかげでアメがたくさん作れて助かってるんだよ。」と言った。


なんだかそれ喜んでいいのか何なのか分からないなあ、と僕は微妙な気持ちになったが、その時やっと、ここでずーっと時間をつぶしている訳にはいかない、ということを思い出した。

「あの、実はほんとは今日学校でして、地上に戻る方法とかって分かりますか?」と僕はどきどきしながら尋ねてみた。よくある異世界ものだったら、ここで「戻る方法はない!」とか言われて一生この黒いアメを食べて生きる悲惨な人生になるパターンだ。


しかしボブは後ろを普通に指さすと、

「あそこに壁についてるはしごがあるから、登れば帰れるよ。」と言った。

まじかよ、すごいシンプル、と僕は思った。

でも待てよ、ここに来るときとんでもなく長い時間落ちてたことを考えると、登って帰るのってそれより遥かに大変なんじゃ、と思って僕は冷や汗をかいてきた。


「えーっと、それ、どのくらいかかります?」と僕は尋ねてみた。

「心を集中することが大切だ、変なことを考えながら登っていたら、一生かけてもたどり着かないだろう。」とのぶさんが言った。

変なことってなんだよ、と僕は思ったが、そこに突っ込んでも仕方がないので、

「分かりました。ほんとうに色々教えて頂いてありがとうございました。勉強になりました。」と言って、僕は2人と握手した。優しい手の感覚が伝わって来て、この人たち本当に良い人たちなんだな、と改めて思った。


僕ははしごに手をかけて、よいしょと登り始めた。縄ばしごみたいなぐらぐらなものを予想していたが、頑丈な作りになっているみたいで、全体重をかけても全然大丈夫だ。僕はたまに後ろを振り返って2人に手を振りながら、そのはしごを登り続けた。しばらくすると、2人は豆粒みたいに小さくなって見えなくなった。


その後もはしごを登り続けていたが、どんだけ登っても一向に地上に着く感じがしない。

うわー、やっぱりかよ、と僕は思った。ここから飛び降りればまたあそこには着くんだろうけど、そうしたらまた同じことの繰り返しである。僕は諦めてまた登っていたが、そのうちに今朝の電車の件をまた思い出してしまった。

うわー、恥ずかしい!と言おうとしたが、よーくよく考えてみると、自分がもう全然恥ずかしいと思っていないことに気が付いた。むしろ笑い話として披露できるくらいだ。


え、なんでだろ、と思って、あ、そういえばあの川に吸い取ってもらったんだった、と思い出した。僕は思わず笑顔になって、ありがたい、と思った。あのどうしようもない気持ちを取り除いてもらったんだから、もう変なことを考えて悪態をつくのはやめよう、と僕は自然とそんな気持ちになった。

その時だった。まばゆい光が僕を包み込んだのは。

気が付くと、僕は普通にいつもの教室で授業を受けていた。教壇では担任の岡田がデカい声で話している。

「え~、今日は織田信長の・・・ん?田中??お前いつの間にそこに座ってたんだ!?」と岡田は口をあんぐりと開けて言った。

周りのみんなも、呆気に取られて僕を眺めている。


あー、これそういう感じなのね、と僕は理解して、

「すいません~!遅刻したのバレないようにこっそり忍び込んで座ったんです!」と言った。

僕の席は一番後ろのはしっこだったので、何とかそれでごまかせたようで、

「ったくー、遅刻って言っても限度があるだろ、もう午後だぞ!」と言って岡田に出席簿で叩かれたが、何とかそれで許してもらうことが出来た。

「よし、じゃあ本能寺の変は何年か言ってみろ。」

「えーっと、イチゴパンツで1582年ですか?」

「覚え方まで言えとは言っていない。」

教室が笑いに包まれ、俺の突然の出現はどうやら忘れてもらえそうだった。


あれはどう考えてもやっぱり夢だったんだよな、と僕は思った。何から何まで常軌を逸していて、とても現実とは思えない。ただ自分は午後になるまで一体何をしていたんだろうか?振られたショックでそこらへんをさまよっていたのだろうか?その点だけが気がかりだったのだが、それも数日のうちに忘れてしまった。




僕がその不思議な出来事を突然思い出したのは、高校生になって、雨で部活がなくなって早く家に帰った日のことだった。

家に着いた僕は、

「母さーん、いるー?」と大きな声を出したが、返事はなく、どうやら買い物に出かけているらしい。

2階でなにやらごそごそ音がするので、不思議に思って和室の襖を開けると、普段は田舎に住んでいるのだが、たまに顔を見せる祖母が窓辺に立って景色を見ていた。


「なんだ、ばあちゃんか、帰って来てたのね。」と僕が声をかけると、ばあちゃんは振り返って、

「おや、たかしかい。ずいぶん早く帰ってきたわねえ。」ともごもごしながら言った。


僕は祖母の話し方に何だか妙な違和感を感じて、

「ばあちゃん、もしかして何か食ってる?」と尋ねた。

祖母は少しの間固まっていたが、やがて観念したように、

「そうさ、これを食べていたんだよ。」と口の中からどこかで見たような黒いアメを取り出した。


僕は我が目を疑って、

「ば、ばあちゃん、それ、もしかして・・・」とつぶやいた。

祖母はそんな僕を見て、

「おや、たかしは知っているのかい。そうだよ、人間の怒りや憎しみが詰め込まれたアメだよ。」と言って、そのアメをまた口に放り込んだ。


僕は思わず後ずさりをして、

「も、もしかしてばあちゃんの歯がいつも黒いのって、おはぐろのせいじゃなくて・・・」と言った。

祖母は事もなげに、

「そうさ。お前の両親はとんでもなく仲が悪くてねえ。私がこうしてアメを食べていなければ、2人はとっくに離婚して、お前は片親になっていただろうよ。感謝しな。」と言った。


そして祖母は真っ黒な歯を僕に見せて、にーっと笑った。


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