第7話:夢魔の情
その日の夜は、試験後の盛大な宴会とは真逆の慎ましやかな夕食の場が開かれた。
城主である魔王が病床に伏しているので当然だが、一方でエシュルさんはそんなことお構いなしにと料理や酒を勧めてきた。
雇い主の奥方の誘いを断るわけにもいかず、夫の付添に疲れの見えた彼女に同情する心もあったせいか久しぶりにひどく酔ってしまった。
昼間の飛竜酔いと合わさって、歩くのに苦労するほどの前後不覚。
それでもなんとか自分の足で部屋に戻った俺は、そのままベッドに倒れるように横になった。
色んな酔いと微睡みで気持ち悪いのか心地よいのか分からない感覚に包まれる。
自分の意識が夢と現実のどちらにあるのか。
そんなことすら分からない時間がひたすら続く中――
ふと、どこからか声が聞こえてきた。
「いい? イスナちゃん、これはまたとない最大のチャンスよ!」
「え、ええ……お母様……分かってるわ……」
知っているような知らないような二人の会話。
俺の部屋なはずなのに、誰だこいつらは……。
鍵は閉め……閉めてない? いや、閉めたはずだ……。
なのに部屋に入って来られるのは……。
平時と比べて思考速度が鈍重すぎて、なかなか答えへと辿り着けない。
その間にも二つの気配は何らかの事を進めていく。
「先生は責任感の強い人だから既成事実を作っちゃえば、きっとこっちに残ってくれるわ」
「き、既成事実……って、つまりそういうことよね……?」
「そう、お酒と秘薬の合わせ技で意識がトんでる間にドカンとやってオギャーよ! 貴方なら出来るわ!」
「ドカンとやってオギャー……う、うん……頑張るわ……」
「じゃあ、私はダーリンの部屋に戻るから女になった感想は明朝に詳しく聞かせてね! グッドラック!」
一つの気配が消え、部屋にはもう一つの気配だけが残された。
「貴方が……貴方が悪いんだからね……私がずっとアプローチしてるのに全く靡いてくれない貴方が……」
恨めしそうにそう言う声に続いて、するすると衣擦れの音が聞こえる。
素足で床の上を歩く音。
誰かが近づいてくる。
ぼやけた視界に映るのは深緑と肌色。
いつかどこかで見覚えがあるようなシルエット。
ベッドがギィっと軋む振動が身体と鼓膜を僅かに震わせる。
「いす……な……?」
重い瞼を薄く開いて、おぼろげながら掴んだ輪郭から連想された言葉を呟く。
「あれだけ飲んだのにまだ意識があるんだ……流石ね。ますます惚れ直しちゃう」
「おま……なに……のませ……」
とぎれとぎれの言葉をなんとか肺の奥から絞り出す。
酒か、それ以外の何かに依るものか身体が妙に熱い。
「よく分かんないけど……私たち夢魔に代々伝わる秘薬だってお母様は言ってたわね」
「なに……を……さす……に……おこるぞ……」
「うん、怒って。あの時みたいに……怒りのままに私をめちゃくちゃにして欲しいのよ」
ぼやけた視界の向こう側に、恍惚に打ち震える笑みがあるのが分かった。
「ふざ……け……」
「ふざけてなんてないわよ。私はずーっと本気よ。私を生まれて初めて本気にさせてくれた男性である貴方に全てを捧げたいって本気で思ってるのよ」
「だか……ら……それが……ふざ……」
「でも今日のところはとりあえず既成事実を作りに来たの」
体重の移動に、ベッドがまたギィっと軋む音を立てる。
まずい、身体が全く言うことを聞いてくれない……。
「まずは私の味を知ってもらえれば、きっといつかは……うふふ……」
弾む声と共に服に手がかけられる。
どうにか……を……。
「貴方が悪いんだからね……私のところからいなくなるなんて言うから……」
またも恨めしそうな声が身体のすぐ上から響いてくる。
はだけさせられて露出した素肌が発声に伴う呼気にくすぐられる。
今にも消えそうなか細い意識の中、体内でほんの少しずつ魔素を結合させていく。
行使するのは、極単純なルーンによる簡易な気付けと解毒の魔法。
「――ッ!!」
「きゃっ!!」
なんとか覚醒した意識でイスナの手を跳ね除けた。
「お、お前な……」
そのまま身体を起こして、冗談では済まない夜這いをかけてきた次女へと向き直る。
まだ身体が普段の何倍も重たい。
「今までは大目に見てきたけどな……流石にこれは……限度を超えてるぞ……」
まさかあれだけ釘を刺した昨日の今日、それも父親が倒れた日の夜に仕掛けてくるとは想定外だった。
しかも母親まで結託して薬まで盛ってくるとは……。
「あの秘薬の効果をもう解くなんて……やっぱり素敵……」
ポっと頬を紅く染めるイスナだが、もうそんなやり取りをしてる場合ですらない。
呆れよりも怒りの感情の方が超えてしまっている。
「イスナ、先に言っておくけどな……俺は本気で怒ってるぞ……」
更にまともな気付けと解毒の魔法を行使する。
それに伴って、ぼんやりとしていた怒りの感情もしっかりと輪郭を持ち始めていく。
「だって……」
「だってじゃない。いいか? 何度も何度も何度も言うが、俺は教師でお前は生徒だ。そういう事はしないし、するなって――」
そう途中まで言った時だった。
「だったら……」
端正な顔に浮かんだ深緑の瞳がジワリと滲む。
「だったら私のこの気持ちはどうすればいいのよぉ……」
そのままイスナはボロボロと大粒の涙を零して泣き始めた。
「今日、お父様が倒れて……もしかしたらいなくなるんじゃないかって怖くなって……無事で安心したけど、そしたら今度は貴方がいつかいなくなることがまた怖くなって……。どうすれば貴方の側に居られるのかって考えたらこうするしかなかったんだもん……」
「い、イスナ……?」
まるで爆発したかのような感情の発露。
これまでとは全く違うそれに、大きな怒りが一瞬で消えるほど戸惑う。
「教師と生徒なんて知らないわよ。好きなんだもん。好きになっちゃったんだもん。また首を締められてめちゃくちゃにされたいんだもん。なのに教師と生徒だからダメなんて言われたって全然納得できないわよ……」
「そ、そう言われてもな……」
「ただの肩書じゃない! なんでそんなものが私の気持ちより優先されるのよ! そんなのおかしい! そんなこと言って本当は単に私に女として魅力がないだけなんでしょ! それならいっそそう言ってくれた方が――」
「……分かった。分かったから泣き止め」
一糸纏わぬ身体にシーツを被せながら、すすり泣くイスナをなだめる。
これを子供の戯言だといつものように一蹴するのは簡単だ。
ただ、もしかしたら自分の中でまだ夢魔という種族に対する認識不足があったのではないかと考えた。
思い出すのは、いつかエシュルさんの言っていた『夢魔はとても情が深い種族』という言葉。
それが一人だけに向けられた状態が、最も優れた夢魔を生むと彼女は言っていた。
俺はそれが精々人間でも考えが及ぶ程度の感情の話として考えていた。
しかし、それがもし人間の俺には到底理解出来ないほどに大きなものだった場合はどうだろうか。
本来なら多数の異性を誑かして分散しなければならないほどに巨大な情。
それを向けているただ一人の相手から納得出来ない言葉で躱され続けている状況。
女心が分からないと言われる自分でも、それが絶大な苦悩になるのは明白だった。
「……今から言うことはお前の胸の内だけに秘めるんだぞ」
シーツの中でまだ嗚咽を漏らしているイスナへと告げる。
「正直言って、お前は魅力的だよ。とんでもなくな。美人だし……成績優秀で料理も上手くて妹の面倒見もいいし、魅力がないわけないだろ」
「……ほんとに?」
「ああ、本当だ。魅力的だからこそいつも迫られて困ってたんだよ」
しっかりと、今だけは一人の女性としてイスナと向き合う。
本来なら教育者が生徒に向ける言葉としてはあるまじき内容。
しかし、相手は人間ではなく夢魔だ。
もし教育要項に『夢魔の生徒から恋愛感情を抱かれてしまった際の対応』が存在していれば、これが最善だと判断してそのまま続けていく。
「でも、俺とお前はやっぱり教師と生徒だ。俺がお前の身を預かってる立場である間は絶対そういうことにはならない」
その言葉にシーツの下でイスナの身体がピクリと震える。
しかし、本当に伝えたい言葉は次だ。
「それにな……俺にはやるべきことがある。教師どうこうよりも、こっちが一番の理由だ」
「……やるべきこと?」
「ああ、今の俺はそのために生きてると言っても過言じゃないくらいのことがな」
「それってこの前言ってた……アルフ・ディメントって人に関係してること?」
「……そうだ」
言うべきか悩んだが、はぐらかさずに真実を告げる。
誤魔化しのない真実の理由こそが、今のイスナには必要ならば。
「それを成し遂げるまでは恋愛だとかを考える余裕はないんだよ。これはお前だからってわけじゃなくな。ずっと前からそう決めてることだ」
「じゃあ、それが全部終わって……教師と生徒の関係でもなくなったら私のことを一人の女として見てくれる?」
「ん……まあ……理屈の上ではそうなる可能性もあるかもな」
少し悩んだ末に、これも可能性の話としてはぐらかさずに答える。
「だったら私に手伝わせて!!」
「ちょ、おま! 身体! 身体隠せ!」
言葉の内容よりも、シーツの中から全裸のまま飛び出してきたことに慌てる。
「ねっ? 名案じゃない?」
「て、手伝うって……いきなり何を言い出すんだ……」
はだけたシーツを掴んで、再びイスナに被せながら言う。
「貴方の目的の達成が私の目的ってこと! 誰も損しないし、悪い話じゃないでしょ?」
一体どんな未来を思い描いているのか、さっきまで大泣きしていたのが嘘のように目を爛々と輝かせている。
「お前な……今度はそんなこと言い出して……」
「お父様はもう子供じゃないんだから自分の道は自分で決めろって言ってた! 貴方に尽くすのが、嘘偽り無く私が心の底からしたいことなのよ!」
迷いなく宣言するイスナを前に、頭を抱えながら考える。
俺の個人的な目的にこいつの未来を巻き込むわけには当然いかない。
しかし、既にある程度の事情を教えてしまった以上は――
「はぁ……分かった。それじゃあ少しだけ手伝ってくれ。その代わり、俺の言うことを今後は絶対に聞くんだぞ」
このまま拒否すれば、いつかまた今日みたいに暴走するかもしれない。
そうなった時に何をしでかすか分からない以上は手綱を握っておく方が今は安全だと判断した。
「うん、分かってる分かってる。私は貴方に絶対服従な愛の奴隷だもの。じゃあ決まりね!」
心の底から嬉しそうに腕をギュっと抱え込まれる。
しかし酔いや薬の効果、その他諸々による気疲れのせいで今は振り払う気力すら湧かなかった。
ちなみに翌早朝、何かを期待してウキウキで部屋にやってきたエシュルさんにはめちゃくちゃ説教しておいた。
本日コミカライズ版がニコニコ漫画でも更新されました。
https://seiga.nicovideo.jp/comic/56100
こちらはサイト内ランキングがあるので、是非お気に入り登録して応援してくださるとありがたいです。





