第67話:決勝直前(リリィ・ハーシェルの場合)
「いいか!? 絶対に勝つんだ! 負ける事は断じて許されない! 分かっているな!?」
決勝戦へと備えて、控室で休息を取っているリリィに対して腹の出た中年教諭が捲し立てる。
その人物は紛れもなく、以前リリィに決勝で負ける事を暗に指示をした教諭である。
それが一転して、今はリリィに必ず勝つようにと苛烈に命令をしている。
だが、その指示は彼女の為ではなく自身の保身の為に他ならない。
公爵を始めとした多くの貴族が見守る前で、自分の選定した選手達が揃って平民に敗北した。
そうなれば彼の立場は学院のみならず、広い貴族社会に置いても失墜することになる。
平民の出とはいえ、決勝でリリィが勝てば多少の溜飲を下げてもらえるだろうと考えて、今この場でそんな言葉をぶつけている。
しかし、本来なら尊敬すべき立場であるはずの教諭からのそんな言動はリリィの心に影を落としていく。
自分を導いてくれる先生はもう居ない事実を彼女に嫌というほどに知らしめさせる。
「分かっています。必ず勝ちます……」
言葉とは裏腹に、この者たちの保身の為に戦わなければいけないのかと思うリリィの決勝に対する意欲はどんどん削がれていく。
一応の返事を聞いた教師はまだ怒りと焦りを顕にしながら退出していった。
リリィは心の中で本当にこれでいいのかと自問自答を繰り返したが、決勝の時間を迎えてもその答えが出る事は無かった。
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決勝の舞台の上で、これまでの人生で浴びた事のない大歓声がリリィを包み込む。
相対するのはまるで炎のように赤い髪を持つ同じ年頃の女性。
大会には田舎の学院の生徒として登録されているがその正体は魔王の長女であるアンナ。
どうせ自分は決勝で負けなければならないと考えていたリリィはこれまで反対の山で行われた試合を一つも観戦していなかった。
それでも準決勝でマイアが一蹴されたと聞いて、今から戦う相手が只者ではないと把握している。
大歓声は自分ではなく、向かい合った彼女へと向けられているのをひしひしと感じる。
加えて来賓席から自分へと向けられる嫌な感情にリリィは更に釈然としない思いを募らせていく。
それでも目の前にいる相手に敬意を払う為に歩み寄る。
リリィが握手を求めている事を察したアンナも彼女へと歩み寄る。
そうして互いの手が重なったその時――
リリィの脳にまるで電流が流れたような衝撃が走った。
彼女が対戦相手から知覚したのは重ねた手の感触でもなく、握手を通して伝わってきた実力でも無かった。
「どうして……」
「ん? 何か言ったか?」
「どうして貴方から先生の匂いがするんですか……?」
鼻腔をくすぐった嗅覚が脳を刺激して、言葉となって紡がれた。
「は? 何を言っているんだ? 匂い?」
いきなり意味不明な言葉を投げかけられたアンナは当然のように困惑の反応を見せる。
彼女は自分の袖に鼻を当ててその匂いを嗅ぐ仕草をする。
「私の! 私の先生の匂いです! 間違いようがありません! それがどうして貴方から!」
語気が強められる。
彼女はそれがフレイの由来の匂いだと確信していた。
授業中に、班での訓練中に、疲れて動けないと嘘をついておんぶしてもらった時に、そして隠れて彼が脱いだ上着を抱きしめた時に嗅いだその匂い。
それを自分が間違えるわけがない。
リリィはアンナへと更に詰め寄る。
数カ月ぶりに摂取した敬愛するフレイ由来のそれは彼女から理性を完全に奪ってしまっていた。
「匂い? 私の先生? ああ……そうか、なるほどな……」
対するアンナは、男女関係の機微によく通じているわけではない。
だが、その鬼気迫る表情と先刻フレイから聞いた元教え子という言葉を合わせて事情をすぐに察した。
「答えてください! 先生は今どこにいるんですか!? 貴方は私の先生の何なんですか!?」
「さぁな。だが……答えが欲しければ、その剣で私をひれ伏させてから聞き出せば良いだろう?」
腰に携えられた長剣を指して、目の前にいる相手から全力を引き出す挑発の言葉を繰り出す。
それはアンナが想像していたよりも何倍、何十倍の効果を発揮した。
「分かりました……。その言葉、後悔しても知りませんよ?」
アンナの挑発によって、先刻までリリィの胸中を占めていた鬱屈とした感情は一瞬にして全て消失した。
「ああ……楽しみだ」
対戦相手から純然たる敵意を向けられたアンナはその身体を身震いさせる。
試合開始に備えて、二人は所定の位置へと戻る。
向かい合う両者の耳にもう歓声は届いていない。
そうして決戦を告げる合図が会場に響いた。





