第62話:人間の世界で
「うっ……ちょ、ちょっと待った……」
身体の芯に猛烈な悪心を感じてその場で立ち止まる。
「どうしたフレイ」
そんな俺と違って平然としているアンナが顔を覗き込んでくる。
「ま、まだ吐き気が……」
「飛竜酔いとは……全く、だらしがないな……」
少し呆れるようにそう言うアンナ。
我ながら情けないとは思うが、飛竜に乗って移動するなんて事は人生において初めての経験なのだから仕方ない。
俺からすればむしろお前はよく平然としていられるなと言いたくなる。
しかし、その言葉を紡ごうとすれば別の物まで吐き出してしまいそうだ。
「これが人間の暮らす町か……」
アンナはそんな俺を他所に、キョロキョロと周囲を見回している。
屋敷のある場所から飛竜に乗ってやってきたここは魔族の領域ではなく人間の世界。
数ヶ月前までは俺が生きていたレイディア王国のヴィルダネス領にあるアルバの町。
ある点を除けば大きくもなく小さくもない普通の町だが、初めて人間の世界に触れるアンナはそんなどこにでもあるような町を見て子供のようにはしゃいでいる。
「あ、あんまり目立つような事はするなよ……。あ、遊びに来てるわけじゃないんだからな……」
口元を抑えながらアンナにそう告げる。
翼は折りたたんで服の中に隠して、魔法によって翼以外の竜人の特徴も擬態してある。
だからといってバレる可能性はゼロではない。
無論、この子が正体が魔族であるとバレてしまえば大きな危険がある。
その為にも細心の注意を払わなければならない。
今のところは田舎から出てきた微笑ましい若者くらいにしか見られてなさそうだが、これからどうやっても目立つ事になってしまうのだから。
「ああ、分かっているさ……」
そう言うアンナの顔にはまだ若干の陰りが見られる。
あの試験の日からもう二日が経った。
それでも敬愛していた父親にあそこまで言われた事は、いくらかの時間が経過したところで拭えるものではないらしい。
しかし、これを超えられればきっと認めてもらえるような成長をしてくれるはずだ。
「よ……よし、それじゃあ行くか……」
その心を労るように、肩をポンと叩いてやって目的の場所へと向かう。
わざわざ危険を冒してまで人間の町にこの子を連れてきた理由がそこにある。
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「ほう、なるほど……これが……」
その大きな建造物を見上げながらアンナが感嘆の声を上げる。
それは巨大なだけではなく、ある種の荘厳さも有している闘技場。
一見しただけでは普通な町を特別たらしめている建造物だ。
そして、この町が一年で最も盛り上がる祭典が今日からここで行われる。
フェルド武術大会。
それは国内の有望な若者を集めて行われる最大規模の武術大会。
……というのは表向きの触れ込みだが、まあそれは今どうでもいい事だ。
「出場登録は……あっちだな。行こう」
周囲を見回して受付を探すとすぐに見つかった。
如何にも力自慢というような風体の連中が列をなしている。
基本的には各校から推薦された学生が出場する大会だが、少数ではあるが自由登録の予選を勝ち抜いた者に与えられる出場枠がある。
どう見ても年齢制限を超えているような見た目の奴もいるが、盛り上がりを優先しているのか予選の登録に関してはザルだと言っていい。
今回、アンナにはその枠を利用してこの大会に出場してもらう。
「俺が言った事は覚えてるな?」
「ああ、ちゃんと覚えている……それは父上の意志でもあるからな」
アンナは神妙な表情で呟く。
魔王には俺の意図を全て伝えて、危険を承知の上で許可を貰った。
だが、アンナにはまたその意図の全ては伝えていない。
伝えた事はただ一つ。
とにかく優勝を目指して全力で戦え。それだけだ。
そんな事を考えながら列に並んでいると、すぐに俺たちの順番が回ってきた。
「はい、次の方、どうぞ~。って、え? あ、あの……出場希望の方ですか……?」
受付をしている若い女性は俺の風体を見て露骨に狼狽する。
長く伸びたヒゲに、分厚い眼鏡、不潔さを感じる雑多で長い髪の毛。
まるで山奥の秘境から降りてきたばかりのような擦り切れた服。
俺を知っている人間に見つかると困るので変装しているわけだが、若い女性にそういう反応をされると少し傷つく。
「あ、いや……出場するのはこの子で俺は引率です」
「あっ……そうですか、そうですよね。あはは……失礼しました……」
俺がアンナを指し示すと女性は安心したように笑った。
やっぱり傷つく。
それからは淡々と出場登録を済ませていく。
受付の女性はアンナの顔を好奇の目で何度もチラチラと見ている。
粗野な風体の連中ばかりの予選では、アンナくらいの見た目も整っている若い女性は珍しいのだろう。
しかし、それでも予選の登録は例年通りザルだった。
山奥の田舎にある小さな学校の生徒との情報だけですんなりと通過出来た。
「随分と簡単だったな」
「まあな、予選はこんなもんだ」
本戦になればあの学院の生徒や来賓の貴族連中も関わってくるので警備は厳重になる。
それでも毎年有力選手の当て馬にされて一回戦であっさりと消える予選上がりの選手にそこまで厳しい目は向かない。
「はーい、それでは予選はあちらで行われるので移動してくださーい」
登録を終えて待機しているとすぐに呼び出しがかかる。
そうして他の出場者らしき連中と一纏めにされて案内された先は、主会場である闘技場……から少し離れたところにある粗末な造りの小さな会場。
一日で造ったんじゃないかと思うようなその野ざらし会場では、ただ身体の大きいだけの男たちが雑な殴り合いを繰り広げている。
それを昼間から飲んだくれている中年の男たちが観戦し、周囲から野次を飛ばしている。
「それで、私の相手はどこにいるんだ?」
「まあ慌てるな。すぐに呼ばれる。そうしたら出番だ」
会場の様子を脇で眺めながら、逸る言葉を口にするアンナを諌める。
気持ちが逸るのは分かるが、焦りすぎても仕方がない。
今の状態でもう一度試験に挑んだとしても魔王は是とせずに、再試験の機会は得られないのだから。
「アンナさーん! 登録番号111番のアンナさーん! 出番ですよー!」
今すぐにでも戦いたそうにそわそわしているアンナを何度も落ち着かせていると、案内役の女性から呼び出しがかかった。
「ほら、言ってる間に出番が来たぞ」
「どうやらそうみたいだな。では行ってくる」
「まだ予選だからな。手を抜けとは言わないが、あんまり目立つような事はするなよ?」
「ああ、分かっているさ」
アンナは案内の女性に連れられて場内へと入っていく。
俺はその初戦がよく見える位置。
何かあった際にはすぐにアンナを連れて逃げられる場所へと移動する。
何の告知もなく、ただ偶然出会ったようにアンナと対戦相手が中央で顔を合わせる。
「おいおい、この女が俺の相手なのか? まじで言ってんのか?」
2メルトルもの身長がありそうな対戦相手の男が、その目の前に悠然と佇んでいるアンナを指差しながら言う。
アンナも女性としては高身長な方ではあるが、両者の大きさの差は一般人から見ればこれから戦うのが心配になる差だ。
「ほう、人間の男にもこれほど大きいものもいるのだな……まるでオーク族のようだ、うむ」
「あぁ? オークだと……誰に向かってふざけたこと抜かしてんだ、このアマぁ! ヤっちまうぞ!?」
感心するように頷くアンナは多分褒め言葉としてその表現を使っている。
だが男はその言葉を侮蔑と捉えたのか、アンナにこれでもかと顔を近づけて睨みつけている。
口調こそそっくりだが、その威圧感はあの男と比べると巨大な竜と草食小動物くらいの差がある。
アンナもあの時とは違い、全く動じる事無く男と向かい合っている。
「おうおう! やっちまえー!」
「いいぞー! ネーちゃん!」
「やったれニーちゃん! のしてからひん剥いちまえ!」
周囲から大量の下品な野次が飛ぶ。
アンナはそれを意に介することもなく悠然と佇んでいる。
真っ直ぐに見据えられたその瞳は目の前にいる男ではなく、もっと先を見ている。
「まさか、女だからって加減して貰えると思ってねーだろうな? 言っとくが容赦は俺の前に立った以上は容赦はしねーぞ? まあ……終わった後にベッドの上でなら加減してやらねーこともねーけどな。がっはっは」
「下卑た男だ。いつでもかかってくるがいい。格下相手にこちらから先に手出しするような事はしない」
「んなら……お望み通り! おらぁっ!!」
この予選に開始の合図は存在しない。
挑発を受けた男がアンナへと向かって真っ直ぐに右の拳を突き出す。
そして、空を切った。
「あぁ!? ど、どこ行きやがった!?」
アンナの姿を見失ったのか、男が前方をキョロキョロと見回している。
「ここだ」
「どこだ!?」
その言葉と同時に、男の背中にアンナの手刀が刺さる。
「むぅんぐぅっ!」
それを食らった男は、口から空気と共に奇妙な叫び声を上げた。
数秒前まで騒いでいた観客たちは一人残らず完全に沈黙してしまっている。
たった今目の前で何が起こった事に頭が全くついてきていないようだ。
静寂の中、全身から力を失った男が地面に倒れる音が響く。
それから更に数瞬の沈黙が継続した後――
観客が大きく沸いた。
「え、えーっと……と、登録番号111番、アンナさんの勝利です!」
案内役の女性の宣言も歓声に打ち消されてほとんど聞こえない。
まだ目立つなと言ったが……まあ、こうなるよな……。
中央で得意げに歓声を浴びているアンナを見ながら頭を抱えた。





