第52話:添い寝
「ふぁ……、そろそろ寝るか……」
夜、自室で翌日の準備を終えると同時に程よい眠気が襲ってきた。
椅子から立ち上がり、ベッドへと向かおうとした時――
コンコンと入り口の扉が数度叩かれる。
誰だと問いかける前に、向こうの方からゆっくりと扉が開かれる。
「イスナか、どうしたこんな時間に」
扉の向こうから現れたのは、黒く薄いドレスのような寝間着に包まれたイスナだった。
最近は夕食後に居着いていたが、今日はてっきり例の本に夢中で来ないと思っていた。
「……権利を行使しにきたのよ」
「権利?」
よく分からない言葉を口にしたイスナに対して聞き返す。
風呂上がりなのか、その白い肌はほのかに上気して紅く染まっている。
「……っこ」
「っこ?」
「抱っこ!」
イスナは更に顔を赤く染めながら声を張り上げる。
すっかり忘れてしまっていたがそんな約束をしていた。
「もうこんな時間だぞ?」
既に日付が変わっているような時刻だ。
「ええ、そうね」
そう言いながらイスナはすたすたとベッドの側まで歩いて行って、その端へと腰を落とした。
引き下がる気はないというのがはっきりと感じられる。
「ったく……仕方ないな。ほら……、さっさと来い」
仕方なく受け入れる準備を整える。
実際、他の姉妹やロゼ達に見られて恥ずかしい思いをするよりはここでサクっと終わらせておいた方がマシというのはある。
「何言ってるのよ、貴方がこっちに来るのよ」
「は? なんで俺が……って、おい! 何で俺のベッドに横になる!」
イスナは俺のベッドに横になったかと思えば、もぞもぞと掛け布団の中に潜り始めた。
「なんでって、約束したじゃない」
「いや、だからしてやるって……」
「あら、どっちがするなんて私は言ってないけど?」
布団から顔だけを出して、したり顔を向けてくる。
確かに、どっちがどっちにするとまでは言っていなかった。
「まさか、そのまま眠る気か……?」
「もちろん、正当な権利だもの。ほら、早く早く」
ニコニコと嬉しそうな笑顔を向けながら、手招きをしてくる。
「あのな……俺は一応お前らの教師を任されてるんだぞ。生徒と同衾なんて出来るわけないだろ……」
抱っこと聞いた時は精々いわゆるお姫様抱っこくらいの事を想像していた。
それくらいならまだ許容範囲内だと思って許諾したが、一緒に寝るのは流石に許容範囲外だ。
「あら、生徒に不健全な小説を読ませるのはいいのに?」
「ぐっ……。しかし、それとこれとは……」
「約束した事は守ってくれると信じて頑張ったのに……」
「ぐぐっ……」
確かに約束はした。
イスナは俺がフェムの相手をしている間に想像以上によくやってくれた。
もしイスナがいなければサンは未だに魔法の初期訓練をやっていたかもしれない。
今、理がどちらにあるかと言われれば……
「……分かったよ」
「ほんとに!?」
イスナが目を爛々と輝かせながら、勢いよく状態を起こす。
「一緒に寝るだけだからな。 それ以上は何もないぞ? 何か変な事をしたらすぐに追い出すからな?」
「うんうん、分かってるから早く早く。風邪引いちゃうわ」
そう言って、嬉しそうに布団の端を持ち上げて誘ってくる。
そんな寒そうな格好をしているからだろうがと言う気力すら湧いてこない。
けれど約束してしまった以上は仕方ない。
重い足取りでベッドまで歩き、ゆっくりと身体を既にイスナが入っている布団へと潜らせる。
「ほら、もう少し向こうに行け」
「無理よ。これ以上動いたら落ちちゃうわ」
本来はどう見ても一人用のベッドだ。
二人で寝るには手狭すぎるので否応なく身体がくっついてしまう。
イスナはそんな事もお構いなしに俺の腕を取って抱きついてくる。
右腕が形容しがたい謎の柔らかさに包まれる。
「はぁ……男の人の匂い……」
隣から恍惚の声が聞こえてくる。
「あっ、臭いってわけじゃないのよ? むしろいい匂いっていうか……」
「いいからさっさと寝ろ」
「……はーい」
明日も朝から訓練だ。
無駄な夜ふかしをしている時間は無い。
薄暗い部屋の中で、目をつぶると世界は真っ暗闇に包まれる。
「……ねぇ」
目を閉じてから何分か経った頃に、イスナが肩の辺りを突いてくる。
「……何だ?」
渋々ながら返事をする。
「私が初めてここに来た時の事、覚えてる……?」
「ああ……」
こいつが初めてこの部屋を訪れてきた時。
それはつまり、俺とこいつの関係が一夜にして百八十度変わった日のことだ。
あれは忘れようと思っても忘れられる出来事ではない。
「実はあの時ね。貴方の事をここから追い出そうと思ってきたのよ」
「そうか」
あの時はかなり嫌われていたので何の不思議でもない。
だからこそ、あの時の変わりようには驚愕した。
今でこそ慣れたが、当初は夢でも見ているのかと思った。
「何か弱みを握ってやろうと思って、貴方の記憶に侵入して……」
神妙な口調で当時の心境を語り続けるイスナ。
記憶への侵入をされていたのには全く気づいていなかった。
あの時とっさにイスナを攻撃してしまったのは記憶域への攻撃に対する本能的な防衛反応だったのかもしれない。
「それで、見ちゃったの……」
「……何をだ?」
「貴方の心の奥底にある……真っ黒な感情を……。ねぇ、あれは一体何なの?」
そう言われて、心臓が跳ねるように大きく脈動する。
大きく息を吸って感情を押し殺す。
「さぁ、知らないな」
「嘘よ。そんなはずない」
腕に纏わりついた圧力が強まる。
柔らかい感触に紛れて、畏敬のような感情が伝わってくる。
「あれは貴方を追い出した奴らへの憎悪?」
違う。
あいつらの事を憎んでいるかと聞かれればそれは認める。
しかし、俺の根源にある感情が向けられている先はあいつらではない。
「貴方が人の世界を離れて、私達の先生になったのもあれが原因なの?」
その通りだ。
目的の為に、使えるものは全て使うとあの夜に決めた。
たとえそれで正しい道を外れたとしても。
「ねぇ、教えて……貴方の事を全部知りたいの……」
懇願するような声。
興味本位などではなく心の底から俺の事を知りたがっているのが伝わってくる。
「……俺にはやらないといけないことがある」
それは本来ならば言うべきではなかった言葉。
だが誰かに聞いて欲しかったのか、それともこの子達にはそれを知る権利があると思ったのか。
そのどちらかは分からないが、気がつけば口から漏れ出てしまっていた。
「……やらないといけない事?」
「ああ、そうだ。その為に俺は今ここにいる」
ここだけじゃない。
あの学院に居たのも全てはその為だった。
「それは何なの?」
「……それは言えない」
「どうして?」
「言う必要がないからだ」
「……いじわる」
そう言って不貞腐れるイスナ。
少し口が滑ってしまったが、全てを言うことは出来ない。
これは本質的には俺だけの問題でこの子たちには直接的な関係はない。
俺が今やるべきはただ、魔族の将来を担うこの子たちを鍛え上げること。
そうすれば奴らが作り上げた支配のどこかに綻びが生まれるはず。
生まれた綻びからあの日の出来事に纏わる情報が手に入るかもしれない。
「ほら、さっさと寝ろ。明日も早いぞ」
心の中で計画を反芻しながらイスナに告げる。
「……はい」
イスナはこれ以上の追求は出来ないと考えたのかあっさりと引き下がった。
そのまま更にぎゅっと腕に力を込めて、俺との身体の距離を縮めてくる。
右半身に優しい温もりを感じると、全てを明かすことの出来ない自分に引け目を感じてくる。
それからまた数分が経過すると、今度は隣から安らかな寝息が聞こえてきた。
右腕を救出しようかと考えたが、がっちりと抱え込まれたそれは完全に固定されてしまっている。
起こさずに外すことは出来なさそうだ。
起こさないように首だけを動かして、心地よさそうに寝ているその顔を見る。
全てはこの子たちの成長にかかっている。
第一の関門である試験はもうすぐそこだ。





