第48話:大局観
「あのー? イスナ姉さん?」
フィーアが対面にいる姉の顔を覗き込む。
一方のイスナはまるで凍ってしまったように尻尾すらピクりとも動かさない。
目を大きく見開いて盤面を見つめたまま固まってしまっている。
「も……」
「も?」
「もう一回よ! 今のは手加減しすぎたのよ!」
イスナが人差し指を立てた手を突き出して、フィーアに再戦を申し込む。
「え? もう一回って、これはどうすればいいんですか?」
そんなイスナと対照的に、フィーアはこの一戦がもう終わっていることにすら気がついていない。
「これはお前の勝ちだだから、もう一回駒を並べ直して再戦だとさ」
「え? 私、勝っちゃったんですか? イスナ姉さんに?」
フィーアは勝った実感が全くないのか、嬉しさよりも困惑の方が遥かに大きそうにしている。
「た、たまたまよ! 次は手加減無しなんだからね!」
「は、はい!」
負けて再戦を求めている側とは思えないイスナの圧に押されてビクっと身体を震えさせたフィーアが再び駒を並べ始める。
その手付きは初心者そのものだ。
さっきのはただの偶然だったんだろうか……。
そう考えながら、次の一戦が始まるのを見守る。
「いくわよ!」
「は、はい……」
溢れんばかりの血気を剥き出しにするイスナと、それに押されて若干怯えているように見えるフィーア。
しかし、手番が進むにつれてその表情はあっという間に逆転していく。
駒の打たれる音が鳴る度に、イスナの頭と尻尾の位置が徐々に下がっていく。
その高さはイスナの勢いと連動しているのか、椅子の高さを下回った頃には盤面は見るも無残な有様になっていた。
「な……無い……」
そして、尻尾が床に着くと同時にイスナの王は逃げ場を失った。
「あれ? これも終わりなんですか?」
「ああ、フィーアの勝ちだな」
今回はさっきよりも早く終わった。
「も、もう一回……」
イスナが震える声でフィーアに再戦を申し込む。
しかし、その次の一戦は更に短い時間で終わった。
もちろん、フィーアの勝利で。
イスナは整った顔を残念すぎるくらいに呆けさせて盤面を見つめている。
この盤上遊戯の実力は地頭の良さであると言われている。
フィーアの座学の成績は総合的に見ると平均かそれを少し下回る程度だ。
平均を大きく上回っているイスナの方が単純な学力という面では大きく優れているのは間違いない。
しかし、この一局の結果に関しては真逆どころか、まだ初心者にも拘らずフィーアがイスナを圧倒した。
これが偶然ではないなら、まずはその実力の正体を確かめる必要がある。
「フィーア、一つ聞いてもいいか?」
放心状態のイスナはとりあえず放っておいて、盤の上にあの時の状況を再現していく。
「え? はい……。どうぞ……」
「この場面なんだが」
それはイスナとの一戦目。
「どうしてここに魔法使いを打ったんだ?」
劣勢かと思った場面で打たれ、その後の大逆転の起点となったあの一打について尋ねる。
「えっと、それは、そのですね……ん~、なんと言えばいいのか難しいです……」
フィーアは頭を抱えながら、なんとかその意図を言語化しようとしている。
「思ったままに言ってくれて構わないぞ」
「あの……なんとなく、そこにそれがあるのが一番収まりが良い感じがしたといいますか………」
「収まりが良い?」
そう言われてから改めて見ても、俺にはただの奇妙な一手にしか見えない。
しかし、その一手が後に盤面を完全に支配したのも確かだ。
「はい……、そうとしか言えなくて……その……ごめんなさい……」
フィーアが申し訳無さそうに謝罪してくる。
しかし闇雲に打ったわけではなく、何らかの感覚に基づいているのは分かった。
「交代! ダーリン、交代!」
フィーアの言葉について考えていると、いきなり正気に戻ったイスナが俺の服を掴んで揺すってきた。
「なんだその呼び方は……」
「お願い! 仇をとって!」
初心者のフィーアに負けた事がよっぽど悔しかったのか、目に涙を浮かべながら懇願してくる。
大げさな言い方だが、目の前でこんなものを見せられては一打ち手として黙っているわけにはいかないのも確かだ。
「じゃあフィーア、次は俺とやってくれるか?」
「えっ? は、はい! お、お手柔らかにお願いします……」
椅子に座って向かい合うと、フィーアは緊張からか硬さを感じる動作でお辞儀をした。
しかし、今の俺にはそれが可愛らしい見た目の皮を被った得体のしれない何かに思えてくる。
「よし、それじゃあフィーアの先行でいいぞ」
そうして俺とフィーアの一局が開始した。
交互に駒を打つ音が鳴り響く。
手堅い定石通りの打ち筋の俺に対して、フィーアは型にはまらないこれまでに見たこともない打ち筋で対応してくる。
それは一見すると、初心者特有のめちゃくちゃな打ち回し。
だがそれはまるで、外の世界での重荷から解き放たれて盤上の世界で楽しそうに飛び回っているようにも見える。
だからと言ってそうやすやすと負けてやるわけにもいかない。
もしこれがフィーアの才能の一端だというのなら全力でぶつかってやるのが礼儀だ。
一進一退の膠着状態が続き、勝負は中盤戦にさしかかった。
この状態だと勝負は長くなりそうだ……と考えた矢先――
フィーアがいきなり勝負をかけてきた。
俺の王に対して、早くも詰ませる為の攻勢をかけてくる。
流石に早すぎる。まだ詰まない。
そう判断して、ひたすら受けに回る。
これを凌ぎきれば俺の勝利はほぼ確定的だ。
自軍の駒を総動員して受け続ける。
押し切られる?
いや、まだ足りないはずだ。
必死で受ける俺に対して、フィーアは表情を変えずに淡々と駒を打ち続ける。
そして、長く激しい攻防の末に――
「……終わった?」
盤を見つめるイスナが小さな声でどちらにでもなく呟いた。
「ああ、終わった」
死屍累々の戦場跡と見紛うほどの激しい戦いが繰り広げられた盤面。
結果はなんとか受けきった俺の勝利で終わった。
しかし、ほんの僅かな差――まさに紙一重での勝利だった。
手のひらが汗で濡れている。
盤上の戦いとはいえ、一対一の勝負でここまで疲弊したのはいつ以来だろうか。
心的な疲労により呼吸が乱れている俺に対して、フィーアはまだこの場で何が起きたのかよく分かっていないような表情で盤を見つめている。
この子にもう少しの経験があれば負けていたのは俺の方だった。
それは逆に言えば、それ以外の能力だけでここまで追い込まれたとも言える。
もう数度、いや早ければ次は敵わないかもしれない。
再び盤面を見ながら、さっきフィーアが言っていた『収まりが良い』という言葉を思い出す。
この類を見ないめちゃくちゃな盤面は、ひたすらその感覚に身を任せて作られたのが分かる。
しかし、その感覚がどういうものであるのかはフィーアとの一局を終えた今でも全く理解出来ないし、これから理解出来る気もしない。
だが敢えてそれを言葉にするなら『人智を超えた大局観』とでも呼ぶべきだろうか。
それこそが彼女に与えられた才能に違いない。





