03:転送失敗してますが?
目が覚めた時、瑠璃亜はまだ自分が生きていることに心底ほっとした。
しかもどこも怪我をしていない、五体満足な状態である。ここが天国でなければ、気を失う間際まで一緒にいた男達が助けてくれたのだろう。
瑠璃亜は戸惑いながらも、改めて周りを見渡した。
ここはどうやら誰かの部屋のようだ。ベッドから起き上がると粗末ながらも箪笥や机、両開きの窓などが見える。外にはヨーロッパの古い街並みで見られるような漆喰とレンガ作りの建物。道もところどころ雑草が生えているものの、一応整備されている。…けれども。
(…ヨーロッパ、…じゃないよね。これはもしかしなくても異世界ってやつ…?)
瑠璃亜は気を失う直前、巨大な猪が目の前で討伐される様を覚えていた。
あんな獣が地球上で発見されたなど聞いたこともないし、欧米人のような顔立ちの人達が日本語を叫びながら剣を振り回すのも見たことがない。これが夢でないなら、自分はいわゆる異世界に迷い込んでしまったと信じるしかあるまい。
その証拠に空には二つの月。日本で見るよりも明らかに大きいそれが並んで浮かんでいる。
仕事も生活も、何もかも捨て置いてきてしまった瑠璃亜にとっては受け入れがたい事実だったが、来てしまったものは仕方ない。
どうやら言葉は通じるようだしと、まずは自分を助けてくれた村人に礼を言うべく、瑠璃亜は人を探して部屋を出た。
「あら、もう起きて大丈夫なのかい?」
階段を降りると、調理をする良い香りと共に穏やかな女性の声がする。見るとエプロンをつけた年配の女性が台所に立っていた。柔らかそうな赤毛にふくよかな身体つき。にこにこと人懐っこい笑みを浮かべ、如何にも気の良いおばちゃんといった感じだ。
瑠璃亜は好意的な対応にほっとすると、ぺこりと頭を下げた。
「はい、あの…ご迷惑かけてすみませんでした。ええと…?」
「私はタルマ。アンタもゴールボアの討伐に巻き込まれるなんて災難だったわねぇ」
タルマ。ゴールボア。
なるほど、固有名詞もちゃんと自動で音声翻訳されるらしい。
なかなか便利な機能だと瑠璃亜は内心感心した。
「…あの猪はゴールボアっていう名前なんですね」
「あら、あれは猪なんかじゃなくてれっきとした魔物よ」
「マ、マモノ…」
「ああ。この辺りじゃよく見かけるやつだけれど、…アンタ一体どっから来たのさ?」
「いやぁ…それがちょっとその…記憶が、曖昧…みたいで」
別の世界から飛ばされてきました、と言っても信じてもらえないだろうから悩んだ末の言い訳だったのだが、どうやらそれも大概だったらしい。タルマと名乗った女性はぽかんと口を開けると「それって、記憶喪失…ってことかい?」と信じられないような目で尋ねてきた。
「はぁ…、なんか、そうみたいです」
「アンタそれ、一大事じゃないの! 本当に何も覚えてないの?名前は?」
「名前は立花瑠璃亜っていうんですケド…」
「タツィ…ヴァーニャ? …ゥリアン?」
「瑠璃亜です」
「リアン?」
「…はい」
どうやら“立花”はこの世界の人達にはとても発音しづらい言葉らしい。
“瑠璃亜”はリアンとしてタルマに認識されたようなので、瑠璃亜はこの世界でリアンと名乗ることにする。いちいち無理して本名を呼んでもらうこともない。
「それにしても服装も見たことないし、倒れた時荷物も持ってなかったっていうし…、困ったねぇ。――リアン、名前以外に思い出せることはないのかい?」
「それが…本当に何も…」
うつむいて口ごもると、女性が気の毒そうに眉を下げる。
言うまでもなく方便なのだが、とは言えリアンがこの世界について何も知らないことには変わりない。記憶喪失ということにしておいた方が何でも遠慮なく聞けるし、下手に勘ぐられなくて済む。タルマには申し訳ないと思いつつも、この嘘はしばらくの間つき通すことにした。
「魔物の血の影響かねぇ…」
「魔物の血…?」
「ああ。魔物の血を大量に浴びたりすると、気分が悪くなったりする人がいるって話でね。…アンタも倒れた時血塗れだったから、慌てて浄化魔法をかけたらしいんだけど…、その影響が残っちゃったのかしらねぇ」
「ほぇ…」
(魔法…、そういうものまであるんだ。…魔物といい徹底してファンタジーの世界だなぁ)
そういえば、あれだけ血を浴びたというのに今はシャツに染みひとつない。元々あったコーヒーの汚れまで綺麗になっているところから、もしかすると浄化という魔法は洗濯以上の効果があるのかもしれなかった。たぶんこの世界の人々は、魔法を電化製品や日用品の代わりとして活用しているのだろう。異世界人の自分に会得は無理だろうが羨ましい話だ。
だが、今は出来ないことを嘆いている場合ではない。
必要なのは当面の食い扶持を稼ぐことだ。
「それで…あの。当面の間寝泊り出来る場所と、私でもお金を稼げる方法があれば教えてほしいんですが…」
リアンが尋ねると、タルマは顎に手を当てしばらく思案した。
困っている様子ではない。言うか言わないか、それを迷っているようだった。けれどやがて「うん」と何かを決めたように頷くと、上を指差してリアンに言った。
「もし狭くても良けりゃこの上に屋根裏部屋がある。ウチは宿屋だから夜は酔っぱらいでうるさいけど、それでも良ければ使いな」
「えっ、いいんですか!?」
「アンタみたいな顔立ちの良いお嬢ちゃんが記憶喪失なんて、危なっかしくて仕方ないからねぇ」
「あはは…それはどうも。…私なんて、至って平凡な顔立ちだと思いますけどね」
「何言ってんだい」
タルマは少しだけ眉をつり上げると、幼子に叱るようにリアンに向かって指を立てた。
「銀髪ってだけでも珍しいのに、そんなこと言ってたら簡単に攫われちまうよ?」
「…銀髪?」
いやいやおかしい。元より自分は生粋の日本人だ。髪は黒いはずなのだが…?
だがリアンは背中に流れる己の髪の毛を覗きこんでぎょっとする。それは確かにタルマの言うとおり、紫がかった綺麗な銀色をしていたからだ。触れてみると、元の黒髪とは似ても似つかない絹糸のような細さと滑らかさ。
慌てて窓ガラスに自分の顔を映し出してみると、そこには見たこともない少女がいた。
(なんじゃこれ―――!!!!)
しかも驚いたのは髪の色だけではない。その幼さだ。
言っても自分は社会人として3年間は働いていた。つまり成人はとうに越えている。
なのにこの見た目。これではどう見ても15、6歳ではないか。どうりで先ほどから服がゆるく感じるわけだ…。
リアンは歪んだガラスに映る自分の姿をまじまじと見た。銀髪に紫色の瞳…そして淡いサンゴ色の唇。森の中にいたら妖精か何かと勘違いしそうなほど浮世離れしている。なるほどこの容姿は確かに…いや、間違いなく可愛い部類だ。タルマが自分を心配するのも納得できた。
それと共に、ふと胸の内に疑問が湧く。
――自分は本当に元の世界から転移してきたのだろうか?
――それとも誰かの身体を乗っ取ったのだろうか?
もし後者だとしたら大変なことになる。
そして、もしそうだとしたら、…今自分の身体は一体どうなっているのだろう。そしてなぜ服だけが元のままなのだろう。
「本当に大丈夫かい?」
「あ、…はい…」
窓を見たまま黙りこくるリアンを心配したのだろう。タルマが台所から出てきて、慰めるようにリアンの肩に手を置いた。途方に暮れてタルマの顔を見上げると、安心させるように笑いかけてくれる。
「ひとまずその服は着替えた方がいいね。娘のお古があるから上で着替えておいで。ついでにフード付の外套も貸してあげよう。その髪は目立つからね」
「……はい。何から何まですみません…」
「いいってことよ。困った時はお互い様さね」
リアンは促されるまま二階に戻ると、タルマが用意してくれる服に着替えた。
渡されたのは簡素な七分丈のシャツにタイトなズボンだが、伸縮性が高いようで、着てみると思いのほか動きやすい。職場で履いていたはずの室内用のスリッパはどこかへ行ってしまったらしく、履物も革製らしきサンダルを譲ってもらった。
それにしても――、
(どれも大人用じゃないっぽい。…参ったなぁ、本当に子供になっちゃったんだ私…)
これからこの世界でたくましく生きていかなければならないというのに、まさかの子供。
早めに体力面をなんとかしないと、まともに働くこともままならなさそうだ。
(…それにこの幼児体型…)
リアンは目線を下げ、谷間のないぺったんこの胸元を見つめる。
元の世界では割と豊満で、一時期会社では『オッパイ眼鏡』などと影で呼ばれていたものだが、まさか転移してここまで跡形もなくなってしまうとは…。必要不可欠とまでは言わないが、それでもやはり女として生まれてきたからには今回もある程度のボリュームは欲しい。
…だが、いかんせんこのつるぺた。
今この身体が16歳程度なら、既に手遅れな気がしないでもない。
(…。牛乳たくさん飲んで頑張ろう…この世界にあるかどうかわからないけど)
そしてまた育つことを祈ろう。
リアンは真っ平らな胸を押さえると、もしこれが育たなかったらいっそ性別を偽って生活するのもアリかもしれない、と思ってため息をついた。
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