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種は花に憧れる

「新入り? 僕の班に?」

「お前に話してんだから、そうに決まってんだろ」

 こんな時期にか、と首を傾げる蒼依に対し、隣を歩く話し相手はからかうような、呆れたような声音で答えた。身長差のせいで表情はうかがえないが、恐らく小ばかにしたような笑みを浮かべていることだろう。

 勇ましい声が聞こえる。どこからだろうと窓に目を向けると、庭園を越えた先にある訓練場の扉が開いているのが見えた。昼前ということを考えると、『種』や『芽』といった下級隊員たちが訓練を行っているようだ。

「僕の新しい部下とやらも、今は訓練中か」

「かもな。けど俺さまが見た感じ、戦闘には不向きそうな体格してた。風に煽られただけで折れるんじゃねえかってくらい細くてさ」

「それがなんで僕の班に」

 大人数の編成の班もある中、蒼依の班は自分と部下二人だけという、極めて少人数だ。というのも蒼依が引き受ける任務は危険なものが多く、残ったのが二人しかいないのである。彼ら以外は別の班や部門に移るか、〈機関〉そのものを辞めるか、あるいは命を落とした。

「知らねえよ。とりあえず現場経験でも踏ませるかって判断じゃねえの? お前や俺さま達もそうだったろ」

「もう二十年近く前のことだぞ。覚えているわけがない。そういう来栖は覚えているのか」

「それなりに」

 ていうか、もう二十年もいるんだな、お互い。と来栖が懐かしむものだから、蒼依も思わず〈機関〉に入った頃のことを思い浮かべた。あの頃はがむしゃらに幻獣を滅ぼすことばかり考えていたし、今もあまり変わっていないような気はする。

 あごひげを撫でながら物思いにふけりかけ、ふと違和感を覚えた。

「どうして僕がその話を知らないんだ」

 新入りが入ってくるのは蒼依の班なのだから、真っ先に自分が説明を受けていなければおかしい。それを何故、来栖の方が先に掴んでいたのか。

「だってお前、一昨日まで休暇取ってたじゃねえか」

「……ああ、そうだな」

 蒼依は無意識に首筋を撫でた。襟で隠されたそれを見るたびに、休暇中に起きたことは現実なのだと自覚させられる。ここにある印は、誰にも――特に〈機関〉の仲間たちには――知られてはならない。

「つまり僕以外の『花』には周知の事実というわけか」

「そういうこと。お前が復帰するまで他の班に入りもせず、ずっと健気に待っててくれたんだぞ? 可愛がってやれよ」

「〝アザミの誓い〟も済んだのか?」

「一週間前にな」

〈機関〉に入隊する際に必ず行われる誓いの儀式だ。決して裏切らない、逃げ出さない、幻獣を必ず滅ぼすことなどを、首領やヨサカ支部の幹部数人の前で誓うのだ。

「俺さまも研究部門を統べる身として立ち会ったわけだ」

 蒼依は何気なく来栖を見下ろした。〈機関〉の上級幹部であることを示す黒服の上に、裾を擦ってしまいそうなほど長い白衣をまとっている。襟できらりと輝くのは、研究部門に所属している証である金の丸いバッジだ。

 ほらこれ、と彼に紙の束を押し付けられ、反射的に受け取って中身を確認する。例の新人についての情報が詳しく書かれていた。

「立川ユズ……女の子? 名字が僕と同じだな」

「俺さまも初めは驚いたけど、そうそう珍しい名前でも無えかって」

「確かにそうだ。……出身はヨサカ。珍しいな、国内出身の新人なんて。年齢は十六歳か」

「身長は俺さまより少し高いくらいだった」

 このくらい、と彼は頭の上で手を動かす。おおよそ一六〇センチくらいだろう。来栖は蒼依と同い年なのに一五〇センチと男にしてはかなり低く、童顔のせいもあってよく未成年に間違われている。さらに薄紅色の髪は尻を隠すほど長いものだから、性別すら間違われることもある。鈍色の髪を短く刈っただけの自分とは大違いだ。

「昼の三時くらいにお前の部屋に顔合わせに行くって聞いたぜ。乳娘と犬頭は?」

「ミレールとエランか? 二人とも調査に出向いているが、それくらいには戻ってくるだろう」

「んじゃ、二人にもそこで紹介してやれ」

 それまでにこの資料を読みこんでおかなければいけない。自分の班に入ってくる新人なのに、蒼依が何も知らないのでは格好がつかない。

 それにしても。

「ユズ……ユズ……? どこかで聞いたような気がする」

 最近だろうか。いやもっと前か。それすらもあやふやだ。

 資料には体型や身体能力について記載されているものの、顔立ちの情報はなにも書かれていない。きっと直接会えば思い出すだろうと思いながら、蒼依は研究棟に向かう来栖と一言、二言交わして別れた。


 幻獣覆滅機関――通称〈機関〉には、五つの序列がある。上から『大輪』『花』『蕾』『芽』『種』と呼ばれ、蒼依は『花』つまり上級幹部にあたる。己よりも上の立場となると、世界各国の〈機関〉を統べる『大輪』だけだ。

「新人なんて久しぶりですね。ちょっと楽しみです」

「どうせ一週間もしないうちに脱落すると思うっすけどね、俺は」

 うきうきと、あるいはげんなりと新人に対する評価を述べたのは、蒼依の部下であるミレールとエランだ。来栖から「乳女」「犬頭」と散々なあだ名で呼ばれていた二人である。数年前に蒼依の班に配属された二人の序列は『芽』だ。

「分からないじゃない。意外と根気強く残って、あたしたちの可愛い後輩になってくれるかも知れないわよ」

 ミレールは新人の配属に好意的なようだ。同じ女性、それも年が近いとあって、素直に新人の入隊が嬉しいのだろう。顔合わせが待ちきれないのか、体を揺らすたびに、夕焼け空に似た橙色の波打つ髪と、半分以上露出した豊満な胸がたゆんっと音をたてそうなほど弾んだ。初めは目のやり場に困ったものだが、今は慣れた。

「そうやって期待して、今まで何人いなくなったと思ってんだ。入って一日もしないうちに死んだ奴だっていたのを忘れてんじゃねーだろうな」

 ふんと鼻を鳴らし、エランは渋い表情を浮かべた、はずだ。

 というのも、来栖のあだ名通り、彼の頭は犬のそれであり、いまいち表情が読み取りにくい。正確には犬ではないらしいが、よく間違われるせいか最近は否定する様子も見かけない。

 顔は灰色の毛で覆われているが、首からの下の筋骨隆々とした褐色の肉体は人間だ。

 エランは人間の母と幻獣の父を持つ、半幻獣という特殊な存在である。

「蒼依さんはどう思います?」

「いなくなるか残るか、現時点では何とも言えない」机に肘をつき、組んだ指の上で首を振る。「僕もまだ会ってないんだ。配属先が僕の班だってことも、ついさっき聞かされた」

「あー、この間まで休暇だったからっすか」

「そういうことだ。だからお前たちへの説明も、こんな直前になってしまった。僕がいない間、二人は任務に行っていたんだろう」

「ええ。幻獣ラミアの討伐のためにちょっと外国まで。報告書はそこの棚に入れておいたので、確認しておいてくださいね」

 了解した、と答える代わりにうなずく。蒼依の同行無しに二人で任務を終えたとなると、そろそろ『蕾』への昇進も視野に入れておくべきか。

「こいつ危うく幻獣に食われかけたんすよ」

「は?」

 エランの思わぬ報告に、蒼依はつい目を丸くした。己の失態をこんなところで告げ口されると予想していなかったのか、ミレールは「ちょっと!」と顔を赤くして相棒の肩を殴っている。

「食われかけた、とはどういうことだ」

「ほ、報告書にはちゃんと書いてあります! うそ偽りなく!」

「そうでないと困る。で? 討伐自体は成功したんだろうな」

「抜かりなく!」

「俺がいなかったら危なかったけどな」

「そっ、そういう蒼依さんはどこに行ってたんですか?」これ以上、失態について追及されたくなかったのだろう。ミレールが強引に話を変えた。「お土産話とか聞きたいです!」

「俺も気になってたんすよ。初めは一週間だったのが二週間に延びたくらいなんだから、よっぽど楽しいところにでも行ってたんでしょうね?」

「………………」

 ミレールは緑青の、エランは赤銅色の瞳を蒼依に向けている。幻獣討伐などの任務時にはあまり見せない、年相応の輝きがあまりにも眩しい。

 休暇とはいうものの、〈機関〉から離れていた二週間、まともに休めたのは三日間程度だ。それ以外は――――

「……ちょっと、鍛錬を」

「えっ、せっかくのお休みだったのに?」

「休みだからといって怠けるわけにはいかないだろう。休みだからこそ、普段は足を伸ばさない場所で色々と試してきただけだ。だからこれといった土産話もない」

「えー、残念」

「けど蒼依さんらしいっすね」

 ひとまず納得してくれたようで、蒼依はひっそりと安堵していた。誤魔化すのはあまり得意ではない。具体的になにをしていたのかまで問われたら、答えに窮するところだった。

 ノックの音がして、ミレールとエランが振り返る。蒼依は扉に視線を向け、「入っていい」と素っ気なく促した。

 しばらく反応が無かったが、やがておずおずと扉が内側に開いていく。あまりの慎重さがうっとうしいのか、エランが長い耳を煩わしげにぴくぴくと揺らした。

 意を決したのか、「えいっ」と可愛らしい掛け声とともに扉が全開になった。あまりの勢いに反動で戻っていってしまい、今度は「うわっ」と情けない声が聞こえてくる。

 一瞬だけ見えた姿は、本来の身長よりも縮んで見えた。

「……ミレール、開けてやれ」

「はーい」

 ミレールが扉を引くと、廊下に立ち尽くしていた少女がぱっと顔を上げる。鼻の頭が赤くなっているのは、扉に強打したからか。

「し、失礼、します……」

 一言で緊張していると分かる声音だ。ミレールに導かれるように蒼依の前までやって来た少女が、今回配属された立川ユズ、張本人だろう。飾り気のない下級隊員の隊服をまとい、赤みがかった茶髪は肩の上で切りそろえられて内側にくるんと巻いている。幼い光の灯る瞳は赤紫色、ふっくらとした薄紅色の頬は幼げな印象を与える。

「初めまして、今回立川班に配属されることとなりました、『種』の立川ユズです!」

 ところどころ声が裏返りそうになりながら、彼女はしっかりと名乗った。

「まだまだ戦い方も知らない未熟者ですが、なにとぞよろしくお願いいたします」

「ああ、よろしく。事前に聞いていると思うが、僕が『花』で隊長の立川蒼依だ」

 蒼依に続き、ミレールとエランもそれぞれ名乗る。ユズは何度も「よろしくお願いいたします」と首がもげてしまいそうな勢いで頭を下げていた。

「あなたはどうして〈機関〉に入ったの?」と問うたのはミレールだ。「ちなみにあたしは母親を幻獣に殺されたからなんだけど」

「わ、私はその、子どもの頃に幻獣に襲われて……死にそうだったところを助けてくれた方がいて。その方に憧れて〈機関〉に入ったんです」

 ちらりとユズの目が蒼依に向けられる。かと思うと、恥ずかしそうにすぐに逸らされて、意味が分からずに蒼依は首を傾げたが、まあいいか、とすぐに考えるのをやめた。

 一通りそれぞれ武器はなにを使っているかとか、どんな風に戦っているかを説明した後、「早速だが」と意識的に硬い声音に切り替えて、部下三人を順番に見やる。

「まずはこれを見てくれ」

 別れる間際、来栖から預かっていたものを部下たちに提示する。彼らはじっとそれを見つめ、

「糸っすか?」

 とエランが言い当てた。

「恐らく。だが普通の糸じゃない。エラン、『悪意の香り』は?」

 糸を差し出すと、彼は鼻先を近づけてすんすんと匂いを嗅いだ。すると一秒もしないうちに「かなりにおうっすね」と気持ち悪そうに舌を出した。

「近頃、港の方で行方不明者が相次いでいると聞いた。この糸は被害者の体に絡みついていたものだそうだ。『悪意の香り』がするなら、ほぼ間違いなく幻獣が関連していると考えていいだろう」

「糸を使う幻獣、ですか。何がいたかな……」

「被害者とやらは敵の姿を見てないんすか?」

「暗闇だったから見ていないと証言しているらしい」

 資料によれば、雲の多い夜に道を歩いていたところ、急に束のような糸が降ってきて体を拘束したという。幸い被害者は刃物を所持していたため、なんとか糸を切り裂いて逃げ出せたそうだが、抵抗している間も強い力で引っ張られていたらしい。

 これまで行方不明となっているのは十人ほどいるが、そのほとんどが女子供だ。消えた時間は夕暮れ以降で、突然糸がからみついてきたとしても、混乱してあっという間に連れ去られてしまった可能性がある。

「今のところ誰も見つかっていないんですよね?」

「ああ。敵の目的も不明だ」

「次は全員でそれを探る感じっすか」

「いや、エランとミレールには別の件を頼みたい」

 来栖からは別の資料も受け取っている。二人にはそれを渡し、資料を確認次第すぐに出発、討伐後には速やかに報告するよう命じて退室させた。あとに残ったのはいまだ緊張しっぱなしのユズだけだ。

「それじゃあ僕たちも行くか」

「えっ、ど、どこにですか?」

 そう問いながら、予想がついていたのだろう。「糸の幻獣捜しだ」という蒼依の一言に、それほど驚いた様子は見せなかった。


 ヒトウは『ヨサカ第一の都』とも称され、港には諸外国からの商船や、海路を利用する旅人たちが集う。次第に港近くには異人街が出来上がり、その一帯だけはヨサカでありながら異国の雰囲気が楽しめる観光地化してきている。

「昼間に調査した通り、犯行は主に異人街で行われている。とは言っても人通りの少ない裏道や、街のはずれがほとんどだ」

「人目を避けているからですか?」

「だろうな。この辺りは陽が落ちると一気に暗くなって人通りも絶える。口でも塞いでしまえば、悲鳴を上げてもがこうが誰にも気づかれないだろう」

 蒼依は黒い手套に包まれた指先で糸をつまみ、月明りに透かした。白々とした光を受け止めて淡く輝くさまは芸術品かと思うほど美しいが、角度を傾けると残照のように毒々しい紫色が顔を覗かせる。

 犯行は主に夜間だ。蒼依はユズを引き連れて異人街に向かい、昼間のうちに痕跡や証言の確認を行った。しかしこれといった成果はなく、今のところ来栖から受け取った糸だけが唯一の手掛かりだ。

「あの、隊長」

 初任務でいきなり現場に連れて来られ、かなり緊張しているのだろう。ユズの声は小さく震えていた。

「敵が幻獣だった場合は、この場で討伐するんですか?」

「そうだな」と蒼依は腰に佩いていた太刀の柄に触れた。〈機関〉は遠い異国発祥の組織であり、刀を武器としているのは蒼依くらいだ。エランとミレールもそれぞれフランベルジュと杖を愛用している。

「だが感情に任せて討伐してはいけない。今回は特にな。なにせ行方不明者がいる。彼らが今どこにいるのか聞きだし、場合によっては案内させてから〈核〉を壊す。ああ、〈核〉というのは幻獣の心臓ともいえるもので」

「だ、大丈夫です! 隊長が復帰されるまでの間に、幻獣についていろいろと教えていただきましたので!」

「ならいい」

 彼女の手には武骨なナイフが握られている。蒼依が復帰するまでは毎日訓練を行っていたそうだが、扱いに慣れているとは思えなかった。

 敵がいつ現れるとも分からない。蒼依は周囲に気を配ったまま、声量を限界まで落とした。

「〈核〉は幻獣によって異なる場合があるから、必ずよく見極めること。闇雲に攻撃してばかりではこちらの体力も消耗する。特に新人の場合は」

「分かりました」

「あら?」

 不意によく澄んだ声が聞こえ、蒼依は警戒しながら素早く振り返った。が、そこにいた人影が誰なのか理解した途端、わずかに表情を緩める。

「……ルコ」

「こんなところでどうしたの、蒼依さん?」

 ふふ、と、紅を刷いた口元に優美な笑みを浮かべ、細い道の先からルコと呼ばれた女が近づいてくる。白いブラウスに真っ赤なスカート、豊かな黒髪を彩る血のように赤いリボンは、今朝見かけた時とまったく変わっていない。

 ――瞳は、萌葱色。ちゃんと本性を隠しているな。

 見分け方はここ数日で身についている。無意識に確認してから、蒼依は小さく息をついた。

「任務だよ。君こそ、ここで何を」

「〝お買い物〟に行ってたのよ。そろそろ帰ろうかしらって思ってたところだったの」

「え、えっと……?」

 気安く話す二人の関係が分からなかったのだろう。ユズが困惑しきった眼差しで蒼依とルコを交互に見つめている。その様子がルコの母性をくすぐりでもしたのか、彼女はユズに音もなく近づいて柔らかく微笑んだ。

「白服ってことは『種』か『芽』ね。若々しくてやる気に満ち溢れていて、うふふ、誰かさんとは大違い」

「え、あの……」

 ルコの細い指がユズの頬を撫でる。どこか艶めかしさが漂うルコの雰囲気に圧倒されたのか、ユズは何も言えないまま完全に固まっていた。その様子が見ていられなくて、蒼依はため息をつきながらルコを無理やり引きはがした。

「あまりからかってやるな。今日配属されたばかりの新人なんだぞ」

「ごめんなさい。あまりにも可愛らしかったものだから」

 謝ってはいるが、反省していないに違いない。

「隊長、あの、この方は……?」

「……僕の妻だ」

「えっ」

 なぜ驚かれたのかよく分からないが、事実を述べたまでだった。

 ルコには帰るよう促したが、「いやよ」と即座に拒否された。「面白そうだもの、様子を見させてもらうわ」

「僕だけならともかく、今日はユズもいるんだぞ。そんな理由で留ま――――」

 ルコへの苦言は途中で途切れた。直後、蒼依は「来い!」とだけルコに指示し、勢いよく駆け出す。突然の指示に初めは戸惑っていたようだったが、一秒ほど遅れて走り出す音が聞こえてくる。さらにその後から軽やかな音が続き、ルコもついてきたのが分かった。

 ――二つ、いや三つ先か。

 先ほど蒼依の耳がとらえたのはくぐもった悲鳴だった。以前であればよく注意していなければ聞こえなかったかも知れないが、今の蒼依の聴覚は常人のそれではない。恐らくルコも聞き取っていたはずだ。

 それまで潜んでいた細い道から飛び出し、三つ先にあった別の道に駆け込む。まるで迷路のように入り組んでおり、土地勘のない者であれば一分と経たず迷ってしまうだろう。だが蒼依にとってヨサカ、特にヒトウは昔からよく知る場所だ。徐々に近づく声を頼りに、素早く通路を駆けた。

「!」

 やがて辿り着いたのは、三方を住宅に囲まれた行き止まりだった。

 そこに、一人の女がいた。正確には、上半身だけ人間の女が。

 腰から下に伸びているのは蜘蛛のそれだ。かなり巨大な上に丸々と太り、毛むくじゃらの八本脚に怖気を覚えたのか、追いついてきたユズが息をのむ気配がする。物々しい下半身と違い、上半身はルコに負けず劣らずの美しさだ。纏っている着物はかなり上等品に見える。

 女の両手からは糸が伸びており、何本も縒り合わさって頑丈になったそれは年頃の少女の全身に絡みついていた。鼻と口を糸に塞がれたからか、それとも恐怖のあまりか定かではないが、少女は意識を失っているらしくぐったりとしている。

「何者だ」と問う女の声は、細い喉に似合わず低く、雄々しい。

 蒼依は問われると同時に太刀を抜き、駆け出していた。真っ先に少女をつなぐ糸を断ち、次いでそばにあった木箱を踏み台にして跳びあがると、躊躇いなく女の首を刎ねた。

 首の断面から毒々しい紫色の体液が噴き上がり、宙を飛んだ首が地面に転がる。ひゃっと短い悲鳴を上げたのはユズか。実戦経験は皆無なのだから致し方ない。

「呆気ないな」刀身に付着した体液を振り払い、残された女の体に近寄る。「幻獣なのは間違いない。アラクネか、あるいは絡新婦(じょろうぐも)か……」

「隊長っ!」

〈核〉の位置を探ろうとした矢先にユズが叫ぶ。振り返ると、道の先に月明りに照らされた人影が見えた。

 たった今、首を刎ねた女と同じ輪郭だった。

 そしてユズと、そのそばでこちらを観察していたルコの体に、毒々しい紫色の糸が巻き付いている。

「やだ、情けない。油断して首を斬られるなんて」

 嘲りを含んだ声が人影から発され、地面に転がったままの女の首が「うるさいっ!」と怒鳴り返す。

「仕方ないじゃない、家まではもうすぐそこだったんだもの!」

「それが油断だって言ってるのよ、分からない子ね」

 二人を拘束しているのは、別の蜘蛛女だった。幻獣が疑似家族を作る事例はままあるし、喧嘩している女たちもその一例なのかもしれない。

 蒼依は少しずつ再生を始めていた初めの蜘蛛女の胸を太刀で貫いた。〈核〉があるのはここか、もしくは蜘蛛の胴体部分だと見当をつけたのだ。女は甲高い断末魔をあげ、次の瞬間には全身が石のように変化し、崩れ落ちる。〈核〉を破壊されたからだ。

「容赦ないのね、〈機関〉の人」

「ここ最近の誘拐事件はお前たちが引き起こしていたものか」

 ええそうよ、と女が蠱惑的に微笑む。女は拘束したユズとルコを己の前に引き寄せた。蒼依が攻撃してこないよう盾にしているのだ。蜘蛛の体をしているのに舌は蛇のように長く、女はそれでユズの頬をべろりと舐めあげる。ナイフを使えば糸だって切れるはずなのに、彼女は恐怖で得物の存在を忘れているらしかった。

「攫われた人々はどうした。どこに隠している」

「とっくにここの中」と女は腹をさすった。「若い女って瑞々しくて美味しいのよ。どろどろに溶かして呑みこむの。でも歳を取ってたり、男は駄目ね。まずくてとてもじゃないけど食べられない」

 来栖から預かった誘拐事件の資料を思い出す。糸から逃れられた被害者は、確か男だった。本人が刃物を持っていたこともあり、蜘蛛女たちから逃げることに成功したのだろう。

 他にも男や年配者を捕らえることはあったが、縊り殺して捨てたと女は嗤う。この一帯は蜘蛛女たちの〝狩猟場〟で、夜間に立ち入るものは片っ端から捕えていたと。

「やけにべらべらと喋ってくれるんだな」

「あなたも殺してあげるからに決まってるでしょう」

 女は口をすぼめ、唾を吐くようにして糸を吐き出した。素早くかわすと、背後の壁に張り付いた糸は一瞬で蜘蛛の巣のように広がった。食らっていれば一瞬で拘束されていたことだろう。

 蒼依はすぐさま女に近づき、先ほどと同じように首を刎ねようとする。だが女はユズを蒼依の前に掲げて後退し、こちらが怯んだ隙に上に糸を吐くと、民家の屋根に飛び乗った。

 ユズを盾にされては攻撃できない。だが女の両手は二人を拘束しているおかげでふさがっているし、唯一蒼依に攻撃できる口も、糸を吐けば次に攻勢に転じるまで時間がかかる。

 ――問題ない。

 頭の中で女を狩る場面を思いえがいて頷く。気を失っている少女を壁に寄りかからせてから、蒼依は少女に巻き付いていた糸の一部を切り取り、それを躊躇いなく飲みこんだ。

 全身の血液が沸騰したように熱くなる。この感覚は休暇中に何度も経験したが、しばらく慣れそうにない。一瞬だけのそれをやり過ごすと、蒼依は左手の手套を外し、腕を伸ばしてから民家の屋根を仰いだ。

 その手のひらから、純白の糸の束が伸びた。

 強度を確認して、糸を素早く引っ込めながら自分の体を持ち上げる。最後は大きく揺さぶった反動で屋根に跳び上がると、別の屋根に飛び移って逃げていた蜘蛛女を捜す。

 ――この距離なら……。

 走って追いかけたのでは足音で感づかれる。蒼依はじっとその場にたたずむと、自身が空気に溶け込むような想像をした。

 次の瞬間、蒼依の姿は霧のように揺らめいて消えた。かと思うと、

「なっ……!」余裕綽々で逃亡していた蜘蛛女が、突然目の前に現れた蒼依にたたらを踏む。「そんな、どうやって……! 音なんてしなかったのに」

「諦めろ」

「くっ……!」

 蒼依が太刀を薙ぐ直前、女はルコを盾代わりにしてきた。彼女はユズと比べて大人しく、それどころか楽しそうに微笑んですらいる。

「構わないな」と唇の動きだけで問うと、ルコは瞬きで応える。

 蒼依は一切の躊躇を見せず、ルコの体を真横に両断した。へそから下は力を失くして膝から崩れ落ち、糸で拘束されていた上半身は女の足元に落下する。

 人質を攻撃するはずがないと思っていた女に油断が生まれ、それを蒼依が逃すはずがなかった。〈核〉があるであろう胸に太刀を突き立て、背中まで一息に貫いた。あとは先ほどの女と同じ結末を辿るだけだ。

 ようやく糸の拘束から解放されたユズは、ぺたりと屋根に座り込んだまま動かない。

「立てるか」

「は、はい……すぐに……。でも……」

 彼女がなにを言いたいのかは、ユズの視線の先にあるもので察しが付く。

「どうして奥さんまで……」

「あの状況では仕方が無かった。彼女もそれは理解している。それともなんだ? 君を犠牲にしておくべきだったとでも」

「足手まといになったのは私なんです。だから私を犠牲にするべきだったはずです!」

「僕としてはこれ以上、班の人員を減らすことは避けたかったんでな」

 ミレールやエランが聞いたら「蒼依さんのわりに甘いですね」とでも言われそうだ。

 人員を減らしたくなかったのは本音なのだ。ただでさえ他より隊員が少なく、個々が負う任務の負担も多い。それを分散させるためにも、新人のユズを犠牲にするのは憚られたのだ。

「ルコのことなら気にしなくていい。君が罪悪感を覚える必要はない」

「でも……」

「申し訳ないと思うのなら、もう少し体を動かせるよう訓練を重ねてくれ。敵に襲われ、拘束されても冷静に行動できるようにな。今回は糸に拘束されていたんだ、ナイフを持っていたのだから切り裂くことは出来たはずだろう」

「す、すみません」

 誰でも初めは動揺するし、失敗はする。蒼依だって〈機関〉に入った当初は失敗続きだった。上官に何度叱責されたか知れない。

 肩を落としているユズに、どこか怪我をしているかも知れないから先に〈機関〉に戻っておくよう伝えて、彼女が見えなくなったころ、蒼依は屋根に転がる妻に目を向けた。

「もういいぞ」

「本当?」

 ルコの体に巻き付いていた糸は、女が崩れると同時に消えている。彼女はむくりと体を起こすと、器用に這いながら下半身に近づいていき、切断面をぴたりとくっつけると数秒後には何事もなかったかのように立ち上がった。

 ユズが見ていたら卒倒していたに違いない。ルコは可愛らしく頬を膨らませ、蒼依の首に腕を回して抱きついた。

「痛かったわよ。服だって破れちゃった」

「斬り捨てて構わないと了承したのは君だ」

「そうだけど、でも、なにかしら謝罪をくれてもいいんじゃない?」

「……悪かった」

「言葉だけじゃ足りないわ」

 萌葱色の瞳がわずかに赤みがかっている。蒼依はそれに引き寄せられるように、赤い唇に自分の唇を重ねた。短い口づけではルコが納得しないことは身に染みている。後頭部を強引に押さえつけて舌を何度か絡ませたところで解放すると、彼女は満足そうに微笑んだ。

「屋根にはどうやって飛び乗ったの?」

「蜘蛛女の力を使った。吸収したのが血ではなかったから、力を使えたのは数秒程度だったが十分だった。ユズには感づかれていないはずだ」

「吸血鬼の能力を使って現れたことにも無反応だったものね」

 蒼依は襟の上から首筋を撫でた。そこにはコウモリに似た印が刻まれている。

 幻操師――幻獣と契約し、異能を手に入れた者の証だ。

 蒼依が契約したのは〈吸血鬼〉だ。読んで字のごとく血を吸う幻獣と契約した恩恵は「姿を霧のように消して移動できる」「歳をとる速さが遅くなり、それに伴い長命になる」「怪我の再生が早い」「五感の鋭敏化」などいくつかあるが、最も特徴的なのは「幻獣の体液を吸えば一時的にその能力を発現できる」というものだ。今回は体液ではなく糸を吸収したために効果はかなり減っていたが、じゅうぶん役立った。

 ちなみに契約した吸血鬼というのが、妻のルコである。だから体を両断されても生きていたし、元に戻って平然と立っている。

「それじゃあ私は家に帰ってるわ。あなたは? 今日は帰って来れそうなの?」

「朝方には帰る」

 分かった、とルコは蒼依の額に唇を落とすと、楽しげな足取りで背を向けた。

 蒼依にはまだやらなければいけないことが残っている。蜘蛛女のにおいは覚えた。それを辿って住処を突き止めなければ。

 面倒くさいなどと言っていられない。そのまま屋根の上を進み、蒼依は蜘蛛女たちのにおいを辿った。



〈機関〉に戻ると、ランタンだけが灯る室内で、ユズが顔を俯けたまま立っていた。蒼依が戻ってきたと気付くと、こちらがなにか言うより先に「すみません」と涙ながらに謝罪してきた。

「全くお役に立てませんでした」

「仕方がない。君は新人だ、初めから僕やミレールたちのように動けるとは思っていない」

 思っていることをそのまま述べただけなのだが、ユズは叱責されていると感じたようだ。もう一度「すみません」と謝った。

「……誘拐された人たちを捜すのも、お力添えできなくて」

「今回の反省を踏まえて、次回から動いてくれたらいい」

 蜘蛛女の発言から、誘拐された人々がすでに生きていないことは分かっていた。あとはどこを拠点にしていたのか確認するだけだったために先に帰したのだが、彼女は厄介払いされたと受け取ってしまったらしい。

 ――戦闘には不向き、か。

 来栖の言葉を思い出しながら、蒼依は椅子に腰かけた。覚えているうちに報告書を書かなければ。

 討伐した幻獣、民間人や隊員の被害など一通り書きこんだところで、蒼依はユズに目を向けた。

「今回の任務は、討伐という部分だけで言うなら普段に比べるとはるかに穏やかだった」

「……いつもはもっと危険な任務をこなしている、ということですか」

「そうだ」だから、と蒼依は腕を組む。「今ならまだ僕の班から抜けることも出来る」

「えっ……」

 ユズの目が大きく見開かれる。

「どうして、ですか」

「訓練を積んでいるとはいえ、いきなり僕の班に放り込まれたのではあまりに段階をすっ飛ばしていると思ったからだ。他に小型幻獣の討伐を主とする隊もある。まずはそこに所属してみるのも――」

「……いやです!」

 ユズが叫んだのだと気付くのに、数秒かかった。先ほどまでうな垂れ、己の情けなさを恥じている声色とは比べ物にならない。

「私は、自分で望んで隊長の班に来たんです」

「……どういうことだ?」

「隊長は覚えておられないかも知れませんが、私と隊長、十年くらい前に一度だけお会いしているんです」

 言われてもすぐに思い出せない。十年前と言えばすでに蒼依は〈機関〉に所属し、『芽』として幻獣の討伐に明け暮れていた。

 ユズは先ほどまでの様子と違い、確固たる決意とまばゆい憧れが揺らめく瞳で蒼依をじっと見ている。

「子どもの頃に幻獣に襲われて、助けてくれた方がいたとお伝えしましたよね――隊長なんです。両親の亡骸に縋りついて動けない私を、立ち上がらせてくれたんです」

「……そう、だったのか?」

「はい。名前は、と聞かれて答えたら、優しく頭を撫でてくださいました」

 全く覚えていない。いや、ユズの名前に聞き覚えがあったのは確かだから完全に忘れ去ったわけでもないのだろうが、当時は似たような状況がいくつもあったから、間違いなく記憶を混同している。

 頭を撫でるという自らの行いに若さを覚えながら、ふと蒼依は眉間にしわを寄せた。

「民間人を助けたとしても、僕から名乗ったりはしない。だが君は僕を知っているような口ぶりだったな」

「他の〈機関〉の方に名前を呼ばれていましたので……名字だけでしたが」

 それを忘れないようにと思って、蒼依に助けられて以降、名を名乗る場面では「立川ユズ」と伝えていたという。

 やがて蒼依がどこに所属しているのかを偶然知り、〈機関〉の門をたたいたのだそうだ。

「私は隊長のように、幻獣をただ倒すだけじゃなくて、人の心まで救えるような隊員になりたいんです。今はまだ足手まといですが、必ずお役に立てるよう任務や訓練に邁進します。だから、立川班に身を置かせてください」

「…………」

「お願いします」とユズは頭を下げた。

 ――人の心まで救える、というのは、少し記憶に補正がかかっているような気がするが。

 蒼依はただ幻獣が憎くて仕方が無くて、恨みをぶつけるように狩っているだけだ。今ならともかく、十年前は民間人に注意深く気を配れるほど余裕が無かった。

 けれどそんな蒼依の姿を忘れず、しかも追いかけてまで〈機関〉に入ってきたのだ。

「そろそろ頭を上げろ。血が上るぞ」

「……はい」

「君の所属をどうするかは、朝までには結論を出しておく。今日はもう休んだ方がいい」

「……了解しました」

 ユズが退室していくのを見送り、蒼依は小さくため息をついた。

 ――僕が出すべき結論は……。



「結局、新人のあの子、一週間といませんでしたね」

 幻獣討伐から戻ったミレールの一言に、蒼依は報告書に目を通しながら首を横に軽く振った。

「所属としては立川班のままだ」

「じゃあなんでここにいないんすか?」と問うのはエランだ。

「研修という名目で他班に派遣している。経験を詰んだらまた戻ってくる」

「やっぱりいきなり立川班は厳しかったんですか」

「配属された初日にアラクネに拉致られたんでしたっけ?」

「まあ、そうだな――報告書に問題はない。よくやった」

 ありがとうございます、と二人の声が嬉しそうにそろう。

「次の任務だが、サナレ町で幻獣の噂があってな。そちらの調査に出向く」

「了解です。あたしたちもですか?」

「ああ。どれだけの時間がかかるか分からんが、立川班として処理をしろという『大輪』からの命令だ。ついでにサナレ町近辺での幻獣討伐も命じられている」

「やる気が出るっすね」

 エランが右の手のひらに左の拳を打ち付ける。好戦的な笑みを浮かべる相棒に対し、ミレールは引き締まった表情で蒼依からの指示を受け入れていた。

 任務地のサナレ町は〈機関〉の支部から徒歩で二日間ほどかかる。幻操師としての本領を発揮すれば半分ほどの時間で到着するが、そんなことをすれば幻獣を討伐する組織に身を置きながら幻獣と契約したことが露見する。特に部下たちの前で使うわけにはいかなかった。

 さっそくサナレ町へ向かう準備をしようと部屋を出て、来栖と話していた時と同じように窓の外に目を向ける。訓練場の開け放たれた窓から中の様子が少しだけ見えた。

 数多いる下級隊員たちが訓練に励む中、立川班の中で唯一『種』である、赤みがかった茶髪の少女の姿が見えた。

「……憧れるのはいいことなんだがな」

 いきなり蒼依を目指そうとするから、心が折れてしまう。そう判断して他班に研修に出したのだ。初めは複雑そうな顔をしていたが、様子を見る限り、訓練に励んでくれているようだ。

 彼女が班に戻ってくる日はいつになるのだろう。その頃にはぐっと成長しているに違いない。

 まだ若い部下の成長を想像しつつ、蒼依は任務地に向かった。


Spcial Thanks:ゆずっぴさん

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