表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

I氏の善意

掲載日:2017/04/27

A~Zまで悪人を並べ立てようとしててやろうと思っています。

自分の中の悪を並べ立てれば、書いている本人の私は毒が抜けきって真っ当になれるかも知れません。

そう願を掛けながら、意外と悪が出てこないことに焦りながら、Iです。

善意でやっていることが、他の人には余計なことであるかも知れない。その究極はどんな状況だろうかと思って考えてみました。

 プルルルと神経に障る音を機械が鳴らし続けている。モニタを見れば、血圧が急激に下がり、呼吸数も落ちてきていることが解る。右上のハートのマークが激しく点滅している。

 私は患者の側にいるご家族の顔を見た。誰もが悲痛な表情をしている。私は居並ぶご家族の顔を端から眺めていく。患者の奥様と目があう。私は無言で問いかける。奥様はゆっくりと頭を振る。私はそれに答えて、小さく頷く。

 私は無為無策のまま、機械の傍らに立ち続ける。担当の看護師も何も言わず、ただ手にした書類と患者の顔とを交互に見ている。

 ピーと機械が絶望を伝える。全く神経に障る音だ。もうちょっと何とかならないのかと思う。自分自身が敗北感を味わうのはまだしも、ご遺族はどのような気持ちでこの耳障りな音を聞くのだろう。患者の年令、病状の進み具合などから、本来なら胸に手を当てて心臓マッサージをしたりする場面であるはずなのだが、私は何もしなかった。ただ、終末の音を聞いていた。不快な音だが、聞き慣れてくると全てが終わったのだと容赦なく突き付けるこの音は、ある意味救いになる。もう努力しなくても良いのだ、もうあれこれ考えても仕方がないのだと、患者と共に苦しんだご家族を納得させてくれる。

 胸から電極を外し、指に付けたパルスオキシメーターも外すと、機械は静かになった。

 私は患者の閉じられた瞼を指で軽く開け、ペンライトで瞳孔反射を見る。

「午後3時25分、ご臨終です。」

 私の言葉を聞いて、『ほお』と周りのご家族が息をつく。いつも不思議に思うのだが、どれだけ病状に苦しんだ患者でも、最期には安らかな表情をする。苦しみもだえたまま死ぬ姿など、ついぞ見たことが無い。苦しむ表情をするにも、顔の筋肉を使う。死ぬ時には全ての筋肉が弛緩する。ただそれだけなのかも知れないが。

「やっと死にやがったな。やれやれだ。これで枕を高くして眠れる。」

 そう毒を吐いたのは、患者の弟だった。

「皆様、本当に今までご迷惑をおかけしまして。相済みません。」

 患者の側に座っていた奥様が立ち上がって深々と頭を下げた。

「何を言っているの、幸子さん。あなたが一番の被害者じゃない。」

 そう言ったのは患者の姉だ。

「そうさ。俺達は義姉さんには感謝してるんだ。こんなヤクザ者、義姉さんがしっかり見ていてくれたからこそ、そのお陰で俺達は、なあ、仕事も生活も出来たってものさ。」

 弟が姉を見やる。姉が大きく頷く。姉の夫が苦笑いを噛み潰したような表情をしている。

「やれやれ、ホッとしたというのが正直なところだな。義姉さん、是非これからはあんたはあんたのための人生を生きて欲しい。こんなろくでもない奴に、長いこと尽くしてくれたんだから。」

「そうよ。あなたのためなら、私たちだってお金を出すわ。」

「そうさ。俺達があんたに年金を払うよ。それだけのことはして貰った。」

 姉と弟は頷きあっている。

 私は部屋の隅に置かれている電話機の受話器を取って、内線を押した。電話の向こうでは馬鹿笑いが聞こえる。

「XX葬儀で~ッス。」

「XXX号室よ。」

「ブラジャ~。」

 スーツ姿で敬礼している姿が目に見える。「出動だー!」そんな声が切る間際の受話器から漏れる。私は一応遺族に聞こえはしないかと目をやる。

 ご家族の姿は重苦しい会議が終わって、ネクタイを緩めて開放感を味わっているように見える。私は自分の手を見た。この手は、何もしなかった。

「先生、助けてくれ。俺はまだ死にたくないです。お願いです。何でもして助けて下さい。」

 胃を抱えるようにして転がり込んできた患者だった。

 鬼の形相とはこういうことを言うのかと、私はその顔を見て思った。

「金はな、幾らかかっても良い。俺は死ぬのだけは御免なんだ。助けてくれ!」

 誰でもいつかは死ぬ。医者なんかをやっていると、まだ若い男性が事故で呆気なく死んでいく姿も目にしている。五十を半ばも過ぎた人間が、死ぬのだけは御免だと言っても、贅沢な希望のように思ってしまう。

 無論、生きとし生けるもの、まともな精神であれば死にたいとは思わないだろう。そのために、出来る限りの手を尽くすのが我々医療従事者だ。私はその事に誇りを持っている。

 私は患者を安心させるべく、大きく微笑みを浮かべて頷いて見せた。だが、すぐに周囲の違和感を感じ取った。

 スルスルーと、聞こえるか聞こえないかくらいの音を立てて、病室の扉が開いた。スーツの上に白衣を着た男性二人が神妙な面持ちで入ってくる。

 背中を丸めたままご遺族に近付くと、深々と頭を下げる。

「わたくしども、XX葬儀社の者で御座います。この度は、誠にご愁傷様で御座います。つきましては、わたくしどもにご主人様の最後のお旅立ちのお手伝いをご用命いただければと思いまして。」

「へえ、あんたらが病院に常駐している葬式屋か。へええ。ま、いいけど。金をかける気はないんだ。このまま火葬場へ直送してくれよ。だったら、1万円もしないんだろう?」

 弟さんが奥歯に詰まった食べかすと格闘しながら言う。

「はっ、誠に申し上げにくいので御座いますが、火葬場さんの方も非常に立て込んでおりまして、直ぐにというわけには。」

「病院にも置いておくことは出来ないのですよ。何せ、ベッドも空きを待っていらっしゃる患者さんが多くて。」

 露骨だと思いながらも援護射撃をする。私が勤務している市民病院であれば、遺体安置所もあるのだが、先程確認したらこちらも詰まっている。どんな状態であろうとも生きている人間が寝ていたベッドならまだしも、誰しも死人が長々と寝ていたベッドには寝たくないものだ。

 無論、誰かが死んだからと言ってベッドを一々取り替えるわけにはいかない。使い回すのだが、次に使う患者のことを思うと、早々に明け渡して欲しい。

「坊主も戒名も要らねえんだ。焼いて、骨を捨ててしまいたいくらいでね。」

「それも法律で禁じられています。きちっとお墓に入れてさし上げて下さい。」

 そこいらに骨を捨てられたのでは不衛生だ。疫学上容認できない。それに、そんなことを認めると坊主が失業してしまう。私自身は、坊主などと言った宗教家ほど神だの仏だのを信じていない人種もいないと思っている。そんな人間を見ていれば、宗教にすがったり、死んだ後はどのお墓に、どんな戒名をって希望を私自身は全く抱かない。戒名だなんて、坊主に領収書無しの現金をプレゼントする以外の何ものでも無い。バカバカしい。

 坊主だの神主だのに限って、現金の束を手術の前に持ってきたりするのだ。「これでどうか、よろしくお願いします。」と。私をバカにしているのかと内心腹が立つのだが、受取を拒否してもこの手合いは厄介なので、素直に受け取っておく。その金を自分や家族のために使うのは、やはり腹立たしいので、「伊達直人」名義で児童養護施設に寄付することにしている。ああ、私は女なのだが、いいだろう。

 看護師が差し出す死亡診断書に目を通す。若い女性らしい、死亡診断書には似つかわしくないコロコロとした字だ。死因は、「心不全」。そう、死亡の原因は癌なんかにはならない。心不全、これが圧倒的だ。心臓が止まって死ぬのだから当たり前と言えば当たり前だ。癌保険に入っていて、癌で死んでも保険金は出ないというのはこういうからくりだ。

『疾患の終末期の状態としての心不全、呼吸不全の記入を控えるのは、WHO が疾患の終末期の状態としての心停止あるいは呼吸停止が生じたことをもって、心不全、呼吸不全等と記入することを正しい死亡原因の記入方法ではないとしていること、また、その記入によって、死亡診断書を基に作成される我が国の死因統計が不正確になる』と厚労省の記入マニュアルにはあるが、遵守している医師は小数だ。

 私は軽く頷いてハンコを押す。氏名はゴム印、その横に認めのシャチハタ印。私が自筆で何か書くことは無い。これで死亡処理が一つ完了だ。

 私は遺族に向き直って、軽く頭を下げる。ご遺族は慌てて皆起立され、深々と挨拶をしてくれた。

 病室を出ると苦り切った顔をして葬儀社が立っていた。

「先生、ウチに回して下さったのは感謝です。旦那さんがいらっしゃらなかったら、プロポーズしたいくらいです。」

「あら、感謝でプロポーズしていただくほど、安くはなくってよ。」

「あちゃ、こりゃ失礼いたしました。」

 葬儀屋がペチンと頭を叩く。葬儀屋の表情が、こうもONとOFFで違うとは、医者になるまで知らなかった。悲壮の演出者としての彼等は、その道のプロだ。雰囲気、物腰、言葉遣いから発声に至るまで、悲壮を醸し出している。悲しみを共有する、それが彼等のプロ根性だ。だが、その分反動とでも言うのか、OFFの時の彼等はこの上なく陽気だ。これは医者も見習った方が良い特質だろう。患者やその家族と一緒に気分を沈ませてばかりでは、こちらが心身消耗してしまう。

「しかし先生。あの患者さん、嫌われてますねえ、ご遺族に。」

「そりゃそうでしょうよ。」

「そうなんですか?って意地が悪いか。そりゃ、そうですね。」

 葬儀屋も商売だ。どの患者が次のお客になりそうかは、看護師に菓子を配ったり、医師との会話から探ったり、又は長期入院の死にそうにない患者との日常会話から情報を常に集めている。病院に常駐している葬儀屋も一社じゃない。そこにも競争があるのだ。その葬儀屋が深々と頷く。そりゃ、そうだ。この患者は国民健康保険にさえ入っていなかった。生活保護でもなかったので、医療費は全額自己負担となる。個人医院だと、苦しむ患者を前にして自腹で診療する医師も多い。実際、地域医療はそんな善意の医療が支えている場合が往々にしてある。だが、ここは市民病院。お金がなければ検査一つしない。

 血を吐いたと言って救急車で運ばれてきた時、私は胃がんを疑った。レントゲンを撮ると、やはり胃癌だった。良くもここまで痛みをこらえてきたものだと感心さえしたものだ。

 その理由はお金だった。医療費ってのは、保険が利かない場合、全くもってバカにならない。レントゲン一枚取るにも数万円かかるのだ。それが、保険に加入していない場合、全額負担となる。

 男性は定職に就かず、かと言って日雇いで仕事をするでもなく、日々の暮らしは奥様のパートで賄っていたらしい。親族を回ってはお金をせびり、酒、競馬、風俗と、つぎ込めるだけの金をつぎ込んでいたらしい。

 言ってみれば、良くあるパターンではある。人の良い奥様は、世間に顔向けできないようなことは出来ないと、生活保護を受けずに済むように頑張られたのだ。結果、高額な医療費を払うことは出来ず、患者が自分で救急車を呼ぶまで症状は放置された。

「とりあえず、外科的に摘出することが治療の第一歩かと思います。」

 私はレントゲンを奥様に見せ、胃癌の説明をした。

「ザッと見た限りでは転移も見られませんし、摘出をお薦めしますが。」

 奥様は全く私の言葉に反応しなかった。ただ、ぼんやり写真を見つめていた。私はこの時はまだ、患者が健康保険に入っていないことを知らなかった。

 やや反応のないことに苛立った私は、

「このままだと、半年もたないかも知れませんよ。」

 と口走ってしまった。余命半年は、言い過ぎだった。吐血は虚言であったし、写真を見る限りでは全摘できれば何とかと思われた。

「先生、これは胃炎ですわ。」

 私は耳を疑った。いや、胃癌なのだが。

「主人は自宅が一番落ち着くようですので、痛み止めのお薬だけ、ちょうだいできませんでしょうか。」

 私は胃癌と胃炎が全く別物であることを説明した。奥様は、はいはいと頷くばかり。解っていたのだ。私は全身の血が引くような、嫌な感じに襲われた。この女性は、夫を殺そうとしている。私はそう考えたのだ。

 殺人という観点からは、夫の方も有罪だったと思う。刑法の話しではない。自分は全く働こうともせず、家族や親族にたかって生きていたのだ。ご家族やご親族の心労はいかばかりだったか。緩慢な殺意があったと言っても、私はおかしくないと思っている。

 患者は、三十代まではあちこちに仕事を見付けては働こうとしていたようだ。だが、どこでも誰かと揉めて、暴力沙汰を起こして辞めさせられている。しまいには世間を罵って、自分は巧いこと言って結婚させた妻のヒモになったわけだ。その後は家庭内でも暴力を振るうようになり、また親兄弟のところに出かけて行っては足りない酒代やギャンブルの借金の肩代わりをさせていたようだ。

 それを知ったのは後のことで、診断を下した当時は、私は大いに奥様を責めた。患者本人への告知も辞さない構えを取った。そこで、初めて保険に入っていないこと、全く蓄えのないこと、親族に迷惑ばかりかけていることを切々と聞かされた。

「私としましても、主人に死んで欲しいと思っているわけでは御座いませんが、何分、手元に何も無い状態でして、親族に頼ってみるべきかと思っております。

 ですから、直ぐに入院とは参りません。どうか、今日のところは痛まないように薬を出してやって頂くと言うことでお願いいたします。」

 そう言われては、私も引き下がるしかなかった。病院の相談支援センターを紹介するのが精々だった。お金のことにも親身に相談に乗ってくれるはずだ。

 それからは、その患者のことは忘れていた。目の前に、いくらでも苦しむ患者がいるのだ。私は、その手を握り続ける。私の助けを求める手がある限り、わたしはその手を離したりはしない。

 再度救急車でその患者が担ぎ込まれた時には、本当に血を吐いていた。浸潤が進み、もう手の施しようがなくなっていた。まだ若い方であったため、進行も早かったのか、私は胃カメラの画像を見て、治療を諦めた。

「お前、ただの胃炎だと言っていたじゃ無いか。お前、癌だったとは、俺は聞いてないぞ。

 先生、こいつは俺が119番に電話するのも邪魔したんだ。亭主が死にかかっているのによう、ひでえ話しだろう!」

 病人にも色々怒りをぶつける相手というものが必要だ。一番多いのが病気そのもの。自分が何か悪いことでもしたのか、何故自分がこのような病気にと言うパターン。非常に理解しやすい。他には自分の遺伝だったりを呪うパターン。誰々も何々に罹っていた、何故もっと早く診察して貰わなかったのだろうと、自分の忍耐と血を呪う。又は医師を罵るパターン。診断が納得いかず、嘘を言っているのだろうとか、何故もっと早く言わなかったのかと暴言を吐く。検査に来ないものにどう診断しろというのかと反論したくもなるが、そこはグッとこらえる。なにかに怒りをぶつけないと、患者だってやっていられない。

 一番見ていられないのが、家族に当たる場合だ。男性が罹患した場合、奥様に「お前の食事が悪かったから病気になった」だの、「お前達のために仕事をやり過ぎたから病気になった」だの、およそ社会人として大丈夫だったのかと思うようなことを口にする。私が見る限り、男性にこの手合いが多い。誠に見苦しい限りだ。

 この患者もそうだった。奥様を罵るだけ罵った。自分は働きもせず、酒に溺れ、ギャンプルにはまり、風俗で若い女の子の体をむさぼっていただけではないか。「お前の稼ぎが悪いから、悪い酒しか飲めなかった。」から始まり、「賭け事で負けるのはお前のマイナスエネルギーのせいだ」、「お前が適当に稼ぐから俺は労働する気が無くなった。俺の酒癖、女癖は全てお前のせいだ。」にまで発展した。『自分に存在意義を与えなかったお前が悪い』とまで他者に対して求めるとは、呆れてものが言えない。

 それでも奥様は、ただ申し訳ありませんと繰り返すばかり。私にも、夫にも。

「お前、俺は亭主だぞ。亭主ってのは一家の主だ、解っているのか。その亭主が病気になっているんだぞ、何故癌なのに胃炎だと嘘をついた?

 恐ろしくて言えなかっただ?バカやろう、恐ろしいのは手遅れになる方だろうが。とにかく、金集めてこい。賢治や美佐恵から金借りてこい。」

 奥様は何度も親族を訪ねられたようだが、断られた後だったようだ。

「何だと!?お前はそれでノコノコと帰ってきたのか?亭主が生きるか死ぬかって時に、お前、俺を殺す気か!?サッサと行って、金引っ張ってこい。」

 患者は自分でも電話をかけ始めた。夜中だろうが昼だろうが、相手の自宅だろうが勤め先だろうがお構いなしに。自分が目が覚めて、病への恐怖がわき上がれば直ぐに電話機に走って、十円玉と次々と投入し続ける。

「お前、死んだ母ちゃんに申し開きできるのか?ええ?兄貴見殺しにして、お前、母ちゃんにあの世で顔向けできるのかよ?

 ああ?今まで貸した金?あればとっくに医者に払ってるよ。ねえから言ってんだろうが。サッサと金持ってこい、この野郎。

 今日だ、今日持って来なかったら、テメエの上司に電話するからな。柿谷さんだろ?俺は電話番号知ってんだよ。なめるな、バカやろう。」

 その声が、患者で混雑しているロビーに響き渡っていた。ロビーの公衆電話を使わないように何度か事務員が言ったようだが、聞く耳は持たなかったようだ。

 しぶしぶ診療費をもってきた弟さんが私にこう言った。

「私もね、もう限界なんですよ。あんな兄貴でもね、子供のころは良くしてくれたこともあってね。たまに、ですけどね。私が近所の子に苛められたと言っては、野球のバット持ってね、怒鳴り込んでいくような奴だったんですよ。まあ、やり方が良いか悪いかは置いておいてね、そんな心根もあったんです。

 ですから、兄貴が職を転々としていてもね、援助もしましたよ。でもね、ギャンブルや女遊びにつぎ込まれては。

 私だって家族があって、子供を育てなくちゃならない。子供の塾の費用やクラブの費用を削ってまで、兄貴に金を渡していたんですよ。そりゃね、ウチのかみさんだって、怒りますよ。お金をドブに捨てるのと、変わりありませんからね。

 ですからね、もう渡すの辞めたんですよ。そしたら、どう言いくるめたのか、幸子さんをお嫁さんにして。まずは祝儀だと言ってお金をね、寄越せと。」

 弟の賢治さんは、ほろほろと涙を流された。

「キャバクラとかのね、店員がうちに来るんですよ。兄貴が飲んだ酒代を払えってね。そりゃね、私らは立場が弱いんですよ、会社員ですからね。彼等はそれをよく分かっていますね。だから、兄貴に酒を飲ませ、女を抱かせるんですよ。私だってね、理不尽だと言って戦いましたよ。でもね、会社にまで取り立てに行くと言われれば、払うしかないじゃないですか。

 本当にね、ヒルみたいな奴ですよ。それでもね、幸子さんが嫁いでくれてからの十年余りはだいぶましでした。あの人、あんないい人が、何であんな奴の嫁さんになんかなってくれたんですかね。本当にいい人でね、私や姉の美佐恵も本当に助かりました。あの人はね、本当に観音様のようですよ。

 ええ、姉のところにだって同じように取り立て屋が行ったようですよ。姉も泣いてましたねえ。

 それが、病気になったら今度は自分で我々に脅しをかけ始めて。そりゃまあ、キャバクラの人からすれば、飲みに来ない奴の治療費の取り立てまでする義理はありませんわね。兄貴はポイと捨てられました。散々罵っていましたがね、彼等にしたら至極当然ですわね。

 それで、チンピラのやっていたことをそのまま真似るようになったんですね。夜となく昼となく家にも職場にも電話をかけてきて。

 もうね、いっそサッサと死んでくれればと思いますよ。

 こんなこと言うの、情けないですけどね、兄貴が死んで、私、涙を流す自信ないですよ。本当に、人情の欠片も無いことを言うようですが。」

 お姉さんも、弟さんも、見舞いには来なかった。ただ、主治医である私のところには、何度か挨拶に見えた。

 既に、なにか出来る状態ではなかった。それでも、患者の生に対する執着はすさまじかった。どこから知識を入れてくるのか、民間療法を試したいだの、セカンドオピニオンが欲しいだの。同僚の医師も「凄いね、あの人」と呆れていた。

 手の施しようが無いと言われて、民間療法や他の医院に転院することはままある。それで患者が幸せになれるのであれば、私はそれで良いと思う。実際、民間療法が功を奏したり、XXで有名なXX先生のところで奇跡的に治癒しただのと言うことは無いのだ。特定の技術に長けた医師に託すことも検討した上で、手の施しようがないと判断している。だから、結果的には無駄なのだが、その足掻きが自分の立ち位置を知り、次のステップに移れることはままあるのだ。緩和治療を行いながら、残された時間を自分と周りのために最大限有意義に使う。

 不遜な物言いになるが、それが一般的なコースなのだ。足掻き、諦め、病と共に生きられるだけ生きていく。

 この患者は、足掻くことを辞めなかった。次のステップに進まなかったのだ。狂ったように妻と親族を罵り、次々と要求を出していった。金銭的なこともあり、試せることは限られていた。私は、それをイライラしながら見ていた。患者は、誰彼と無く金銭を要求した。その対象は、私にも及んだ。

「あんたら医者は良い給料を貰っているのだろう?俺のような無学で、苛められる側の人間じゃないはずだ。そんなあんたが、しかも医者だぞ、医者が、人が生きるの死ぬのって時に、お金がない人は死んで下さいって言って良いのかよ。あんた、医者としての良心みたいなのはないのか。人が死んでいくのを見ても、何も思わないのか?!」

 ある意味、心に突き刺さる言葉だった。お金がなければ、出来ることは限られる。厚労省に認められていない薬は保険が利かない、胃癌に効果があると解っている肺癌の薬も胃癌に使えば保険が利かない。人が苦しんでいるのに、人が死にかかっているのに、何もできないでいることの無力さ、惨めさは、きっと医者である同業者にしか解らない。命が、お金と天秤にかけられて良いものなのか。

 私たちは、日々の忙しさの中にも、この疑問を抱き続けている。

 転移は順調に広がっていき、骨や肺、肝臓に回っていった。全身の痛みに患者は苦しみ続け、

「移植ってものがあるだろうが。骨も内臓も、全部入れ替えてくれよ。痛くてたまらねえ。何故誰も俺を助けてくれない。俺は死んでも良い人間なのか!俺を見殺しにする気か!移植だ、移植だよ。何とか細胞とか、クローンとか何とかあるだろうがよ。」

 と喚き続けた。痛みが増してくると、鎮痛剤を使うようになる。言ってみれば、麻薬だ。患者は大人しくなったが、それでもメソメソと「死にたくない」とつぶやき続けた。

 最後は麻薬パッチの副作用で、意識がもうろうとしたまま他界した。ここまで生に執着し、誰に感謝することもなく死んでいく人を、私は見たことが無い。痴呆が進んだ老人でも、一瞬まともに戻ることがある。それまではまさに自由奔放にふるまっていても、神が与えたとしか思えない一瞬がある。その時に医療従事者や家族に感謝を伝えたりするものだ。だが、この患者にはなかった。

 様々な患者を看取ってきた。寛解して退院してゆく患者もいる。その時は心が晴れ晴れするものだ。自分の仕事に、結果が出た。笑顔を見せて、患者が帰っていく。私は自分を誇らしく思う。だが、残念な結果になることもある。その時は、余り考えないようにしている。たくさんの人がいて、たくさんの理由があって、たくさんの必然が重なってこうなったのだ、仕方のないことなのだと。

 それでも、私は自分が全力を尽くさなかったことを悔いたことはない。出来る限りのことをやっている。例え、未承認薬が使えずに患者を苦しませたとしても、命が短くなったとしても、私はそれに代わるものを出来る限り用意した。それが、医師としての、当然の責務だと思うからだ。いや、それ以前に、人としての精一杯だと思うからだ。

 しかし、この患者には、私は全力を尽くさなかった。そうすることが、周りの方に迷惑になる気がした。

「生活保護は、役所に認めて頂けませんでした。」

 ぽつりと奥様が言った時の表情を思い出す。疲れ果てて、もうどこにも彼女が存在していないようだった。

「私が働けることと、主人が癌を患っていることがダメなようでした。」

 癌を患っているから働けない、それが理由になると思った奥様。それが役所からすれば、医療費を青天井に使うために申請に来た様にしか見えなかったのだろう。ただでさえどこの自治体でも財政は厳しい。なのに、何の生産性も見込めない男が癌を患ったから金を出せと言う。役所からすれば、まともに税金を納めてくれている納税者に申し訳ないと思っても無理は無い。

 世の中に、善意はある。いや、幸いなことに溢れていると言って良い。それを、一部の人間が食いつぶしている。食いつぶす人間が傲慢になればなるほど、善意は変化する。善意を向ける対象が変化する。傲慢な人間から、そうで無い人間へと。私はそれが、悪いことだとは思わない。ただの自然な現象だ。

「先生。さっきの胃癌のご遺族、通夜に線香も蝋燭も要らないって。全く、解らないでもないけど、いや、商売なんないわ。」

 XX葬儀社の担当者だ。

「珍しく秋のこの涼しい日に亡くなったんだから、火葬場も空いてるでしょう?無理矢理ねじ込みなさいよ。」

 えっ?!と担当者が目を剥く。

「今度、ちょっとした会社の偉いさんを回してあげるから。」

「あ、そういうことなら。」

 揉み手をせんばかりに、満面の笑みを湛えて担当者は踵を返していく。私は自分の手を見た。無力な自分の手。医師が、その全力をかけても良い環境というのも、いずれは恵まれた環境と呼ばれるようになるのだろうか。経済の原理に、私達の善意が押し殺されるのだろうか。

 私はカルテを手に、回診に向かった。

「生きることも、死ぬことも、難しい世の中よね。」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ