宮廷魔術師の語ることには
三、宮廷魔術師の語ることには
一
「ギィェエ、ギヤーーーー!!」
叫び声、聴こえてページを捲ろうとしていた手が止まった。もう読み終わった見開きの文を数秒眺めて、文字列を爪でなぞり、ややあってから本を閉じると机に投げて立ち上がる。窓を開ければ、ちょうど城の中庭に面していて、そこに走って飛び出してきた小さな影が見えた。レベッカだ。
「ま、ま、待ってください待ってください! それはおかしいです殿下!」
「まあ、いったい何のどこがおかしいというの」
「何がもどこがも全部おかしいでしょっ!? 何でペットにインペリアルドラゴンなんか飼ってるんですか!! 教科書にも載る古代種ですよそれっ!?」
「うふふ、研究者達の血と汗の滲む研究で孵化に成功したのです。素晴らしいでしょう」
「確かにその研究の成果は素晴らしいですけどっ! でも人が飼う動物の上限を軽々しく超えています!!」
ギャーギャーギャーギャー。
開けた窓から身を乗り出せば、彼女たちのやりとりは心なしか近く聞こえる。
……全く、姫さま相手によくもまああれほど騒げるものだ。
多分国中探しても、ああできるのは彼女以外にないだろう。
私はすこし笑ってしまって、開けていた窓を閉ざした。春の兆しが見え始めた陽気は暖かいには暖かいが、まだ吹く風に寒さが沁みる。壁にかけていたマントを取って、投げっぱなしの本もそのまま、部屋を出た。
「だ、だからおかしいって、そのたくさんあるロイヤルジョークもいい加減にしてくださいよっ!」
「レベッカ、騒がしいぞ」
「!! ネッ、ネロ・ユングフラウ!」
中庭まで降りてもまだ騒いでいた彼女に声をかけると、ぎょっとしたように飛び跳ねてから私の名前をいつものようにフルネームで呼びつけた。それを聞き届けてから、もう一度同じ言葉でたしなめると、彼女は姫さまが連れてやってきたインペリアルドラゴンを力強く指差して抗議する。
「だ、だって! インペリアルドラゴンがペットなんて普通に考えてありえないでしょ! ペットの規格を超えているわよ!!」
「私の実家では古代種の虎を飼っているが」
「それ流行ってんのかよ……っ!」
レベッカがその場で地団駄踏んで、悔しがっているのか何なのか。
思わず息を吐いて笑ってしまえば、姫さまも口元に手を当てて楽しそうだ。
姫さま相手に騒げるのは国中探してもレベッカだけだろうし、姫さまをそうやって笑わせることができるのも、家族以外ではレベッカくらいなものだろう。
二人はそういう関係。
初春の穏やかな呑気さ。
二
レベッカが宮廷を訪ねるようになってそれなりの日が過ぎていた。
最初こそ門番たちには止められて、宮廷に入れば衛兵に追い出されそうになって、貴族達には怪訝な視線を向けられて、と悩ましげだったもののも、今では門番には顔パスで通されて、衛兵には止められなくなり、貴族にはまだ怪訝な視線を向けられるが、慣れるには慣れたようだ。彼女自身も、環境も。
まさか彼女が宮廷通いになるとは思わなかった。
レベッカと姫さまが「友人」になるなんて予想だにしなかったことだし、そもそも姫さまが外に抜け出すなどとは。それでもまあ、姫さまのような思春期の少女からしてみたら、この大きく広い王城も狭い牢獄のようにしか思えないのかもしれない。実際、国王陛下の過保護で成人するまでは城から出ないようにとされていたのは、本人からしてみれば、いや周囲からしてみても、監禁めいたところがある。昔から行動力があり、本の中の外の世界に憧れていた姫さまにとっては、たまったものではなかったんだろう。
そしていかにレベッカも貴族の一人とはいえ、あまりにも王宮とは距離ができすぎていたから、本来こんな風に王女殿下と密接な関係を持つだなんてできなかっただろうに。
それが偶然やら何やらが重なって、彼女たちは友人となり、レベッカは姫さまに招かれて魔法学を教えるべく毎日のように宮廷へとやってくる。朝から晩まで組み立てていた仕事の数々は、すこしその量を見直したらしい。それでもまだ仕事はしているそうなのだが。
「姫さまのお相手はどうだ」
散々騒ぎ倒して、ようやく興の落ち着いたらしい姫さまがエリザベートと名付けたペットのインペリアルドラゴンを厩舎へと戻しにその場を離れる。ゼエゼエと息を乱したレベッカは、そこまで渾身に突っ込まなくてもいいだろうに、彼女の性格なのだろうか。まあ楽しそうではあったので(多分)、いいかと思うことにする。
レベッカが、乱していた肩をすっとおとなしくさせて、「そうね」と姫さまの去った方向を眺めた。
「覚えはいいわね。何より『知りたい』という欲求と姿勢があるから、それは素晴らしいことだと思うわ。魔法の素質がないのが惜しまれるくらい」
「妃殿下には多少心得があるようだが、陛下と姫さまは魔法に関してはからきしだからな」
「お父さまに似たのねえ。勉強熱心なところはお母さまかしら」
「そうかもな」
ふふ、とレベッカが笑った。そんな横顔を見ながら、そういえば、彼女の両親については聞いたことがなかったと思い出す。
「……レベ、」
「レベッカーー! さあ、続きをやりますわよ! そんなところでぐずぐずしないで!」
「誰がこんなところでぐずぐずさせたんですか! もうインペリアルドラゴンみたいなロイヤルジョークはよしてくださいよ!!」
ギャン、と叫ぶ、まるで犬か猫かの喧嘩ごっこだ。
足取り早く姫さまの元へ行ってしまう彼女の背に、言えるようなことも何もなく、ただその去る姿を見送っていた。
ーー君が好きだからだ。
いつかの告白の返事はもらえていない。
三
出会いと言うと何やらロマンチックなものに思われそうだが、全然ロマンチックでも何でもないのが私とレベッカの出会いだった。
そもそもその時彼女はひどく苛立った様子で魔法に八つ当たりをしていて、見かねた私が声をかけたという状況だ。ロマンチックになりようもないし、しかもそのあと何だか余計に彼女のことを怒らせて、怒った彼女が木にぶつかり、よろよろとしながら早歩きで行くのを眺めていた。
なぜ怒ったのだろう。私はただ、
「君は魔術師には向いていない」
と、真実を言ったまでなのに。
「ネロ・ユングフラウ!」
と、彼女は二度目に会った時には、出会い頭にフルネーム呼びをして見せた。
名乗った覚えはなかったが、宮廷魔術師という職業柄知られていることも多いので、あまり気にはならなかったが、わざわざフルネームで呼ばれたのは学校を卒業して以来彼女が初めてだ。
二度目の出会いもあの防風林。
彼女はやはり何かに怒っている。
「宮廷魔術師と宮廷魔術師の一人息子にしてサラブレッド! 魔力適性Sランクッ! 古代魔法まで使えるその手腕! そしてさらには国境防衛戦線における栄誉賞受賞~~! ッツァああああ~~!!」
「……君はいったい何をそんなに怒っているんだ」
「別に怒ってませんけどっ!? ええ、だけどそうね、ネロ・ユングフラウ! あんたは私の宿敵よ! つまりライバルよっ! このレベッカ・ミシェルの夢と野望とお家復興のために私はあんたをぶっ潰さなくちゃならない!! そして私は取り返すのっ! 貴族としての信用も信頼もその立場も! あんたを踏み台にしてねっ!!」
ビシィッと人差し指を突きつけられ、彼女の名前をやっと知ったのかと思うと、同時に宣戦布告をされていた。
いろいろと突飛すぎる。
何がどうなって私を倒すとお家復興になるというのだ。ついこの間出会ったばかりだというのに。
しかしレベッカは、私のそんな思いなどは無視をして、尚も叫ぶのだ。
「打倒ネロ・ユングフラウ!」
と。
ミシェルの家が傾きかけた貴族の家だと知ったのは、その宣戦布告をされた日に帰って調べたことだった。
系譜を見返せば軍属になったものや魔法兵団に籍を置いた者も居たようで、華美な貴族というよりかは質実剛健な様子を思わせる。
家が傾きかけたのはどこからだったのか、毒のように染み渡っていつの間にかというようにも思えたし、雪崩のような加速度的にダメになったようにも思われた。決定的になったのはレベッカの父が死んでからだろう。亡くなってから発覚した借金の膨大な額に、取り立ては辛辣を極めたらしい。今残っている財産と呼べるようなものはほとんどなく、屋敷が残っているのも奇跡的な有様だという。
なるほどそれでお家復興と叫んでいたのか。
しかしなぜそこで私を打倒することに発展するのか。私関係ないじゃないか。
女性ってよくわからない。
そう思いながら、気分転換に防風林へ足を延ばすと、たまに同じく気分転換や集中しに来たらしい彼女と遭遇した。その度彼女は歯を見せて、
「おのれネロ・ユングフラウ!」
と噛みついてくるのだが、そういう姿には、なんだか怒りや呆れというよりも興味が先立ち、はてこの娘はなぜそこまで私のことを嫌うのか。正直ライバルと言われてもピンとこなかったし、最初に見た彼女の魔法はとても脅威には思えない。子どもの手遊びから少し出た程度、そんなものには遅れをとらない自負がある。レベッカが騒ぎ立てても子犬が吠えてるくらいにしか思えなかった。こう言うと彼女はまた怒り狂うだろうから言わないが。
はてこの娘はなぜそこまで私のことを嫌うのか。
お家復興というのはわかった。一度没落しかけた家と評判を取り返すには何かしら大きな手柄がいるだろう。
しかし私闘で勝ち取ったところで箔はつかない。そして彼女相手に私は確実に負けない。対峙などしなくても分かることだ。それはレベッカにしてみても。
「君はなぜ魔法にこだわるんだ?」
おきまりの防風林で鉢合わせ、彼女が食ってかかる前にそう尋ねると、意外にも彼女は落ち着いた様子で答えてくれた。
「憧れてるからよ」
「誰が? 君が?」
「世間一般的に今も魔法は憧れの対象だわ。なんたって素養がないと扱えないんだもの。憧れの的である魔法を、程度はどうあれ私は扱える。だとしたら、それを使わない手はないでしょう」
「威力に関しては自覚しているのか」
「ええっ! そりゃもう! 悲しいくらいにねっ! だから自分より強い奴を倒して名をあげるよ! 宮廷魔術師なんて絶好の的じゃないっ!」
「……なぜ俺なんだ。宮廷魔術師は他にもいるだろう」
「あんたがいけ好かないからよっ!!」
理不尽すぎる。
こうも本人を目の前にして理不尽になれるのはいっそ才能な気がしてきた。怒りも浮かばない。
「さあ勝負よネロ・ユングフラウッ!」
と手をかざし、詠唱ととともに落とされた彼女の雷をひょいと避ければ悪態づかれた。
負けるつもりはないが受けて立つ気も更々ない。
そのまま休憩もそろそろ終わるだろうと防風林を抜けていった。後ろから、「待ちなさいよちょっとー!」という声が追いかけてきても、知らん顔で無視をした。
四
宮廷魔術師というと王宮勤めの華々しい存在を思い浮かべるだろうが、実際はそうでもない。
仕事の内容といえば、国の今後について占ってその結果について国王陛下に提出したり、その占い結果に政の改善の余地あればどう改善していくかという会議に出席したり、魔法兵団に呼ばれて兵士たちの術技を監督・指導することもある。難しい戦があれば出陣も願われるから、生死のリスクもそれなりにあった。何も魔法をポンポン使って花火を上げてるわけではない。
この職について、いやそもそも「魔術師」に憧れている人間を見ると、それほど楽なものでもいいものでもないと現実を教えてやりたくなった。魔法兵団の者達や他から浴びる尊敬と羨望の視線も、この身にはもったいない。私からしてみれば、魔法と程遠く、それを扱える素養もなければ知識もない、一般的な暮らしの方が羨ましくあるのだ。
宮廷魔術師と宮廷魔術師の間に生まれた私は、生まれた時からその才能とやらを望まれた。幸か不幸か私には魔法の素養があり、普通ならば十五歳前後から顕現するそれが幼い頃から突出していて、コントロールもできない時分は手当たり次第のものを浮かせたり割って壊したりと散々だった。
私にとっては迷惑でしかなかったこの力も、周囲からしてみればやることなすこと全て喜ぶものだったらしい。たとえ力の強すぎるあまり家のボヤ騒ぎを起こしたとしても。
この子どもは偉大な魔法使いになるだろう。
なにせ純血、幼い時分から持て余すほどの魔力を思い通りにコントロールすることができれば、さぞ強力な魔法使いとして名を馳せるに違いない。
将来国王陛下のお傍に侍るにじゅうぶんな力を持っている。…………
父も母も厳格で、物心ついた頃から私に厳しく魔法の知識を与え、扱い方を教えてくれた。が、私の将来というものは「魔法使いになること」ただ一つだったし、世の中もそれ以外の未来を与えても許してもくれなかった。生まれた時から定められていた人生を、けれどそれ以外知らないから、言われた通りに歩んでいく。
そして期待通り私は十五の歳で王宮に上がり、国王陛下のお傍に侍った。陛下はまだ少年期にある私の登城をそれは盛大に喜んで迎えてくださり、光栄ではあったけど、同時に重荷にも感じてしまった。
家を出て、王宮に部屋をいただいたのもその歳だ。
毎日の栄養と贅を尽くした食事。
常にふかふかで綺麗なベッドメイク。
上質な布で織られた特別な願いのこもる衣服。
王宮の一室をいただき、何不自由ない生活を与えられ、けれどそれを自慢に思えたり、自分の身を喜ぶことはなかった。
贅沢と思われるかもしれないが、もしこの立場を「代わってほしい」という人間がいるのならいつだって代わってやりたいと思っていた。
不満というわけではない。
当然と思ったこともない。
それでも、「将来を約束された」自分などより、市井でたとえその日暮らしの日々であっても、「約束されない将来」に一喜一憂しながら歩む者達の方が幸せに思えたし、よほど裕福に思えたのだ。
一言で言えばつまらなかった。
私の人生などというものは。
国の行方を占って、呼ばれれば後進の指導をし、命令されれば戦地まで出陣する。
宮廷魔術師など華やかさから最も遠い。
地味で地道で、生死のリスクもあり、そうなれば、感情的ではいられなかった。常に合理的に考え、感情などというものに流されず、時には冷酷なほど冷静でいなければならないのが私たちであり、「魔術師」の根本だった。
そうでなければ務まらない。こちらまで一喜一憂していたら、この身がもたないのだから。
魔術師などなるものではない。
まして感情豊かに溢れる人であればなおさらのこと。
だから私は言ったのだ。
レベッカに、「魔術師は向かない」と。
事実であって真実だった。レベッカは、彼女自身も、彼女が扱う魔法すら、雄弁によく語り感情的だ。それを押し殺すのは酷だろうし、望まれないだろう。何より、くるくると色を変える彼女のそういったところに少なからず羨望を覚えたのだから。
だから、あの言葉は事実であって真実だった。
彼女はひどく怒り狂っていたけれど。
五
いつの間にか溜まっていた書類の整理と格闘すると、午前中はあっという間に駆けていき、昼の鐘でハッと意識を取り戻した。これは午後もしっかり腰を据えてやらないと終わらないだろう。というかこれは今日一日で終わるのか? とてもそうは思えない。なんということだろう。
ずっと机に向かっていたので肩が凝り、昼休憩は外に出ることにした。ペンを置き、財布を掴んで王宮を出る。城下町におりれば昼時の人の賑わいで盛り上がっており、その間を縫って行くと、気づいたあちらこちらから名前を呼ばれた。私は王族でもなければ知り合いでもないので無視して通り過ぎていく。それでもなぜか名前を呼んだり握手を求める手は止まず、押し退けて歩いていた。
(何を食べようか)
ずっと籠っていて気が滅入っているのでさっぱりしたものが食べたい気がする。
そう思うや、バザールを抜けて五番街の道に入った。五番街は食事処が多くある。適当に入って適当にさっぱりしてそうなのを注文しよう……
と、
ガチャンッ
バタン!
耳に割れるような音が響いて、かと思えば目の前に飛び出してきた影がある。
何かと思えば知った顔がそこに居た。レベッカだ。
「レベ……」
「!」
振り向くその目、大きな膜が……
「…………」
タ、と彼女は私から顔を逸らすとそのまま走って行ってしまった。
私は狐につままれたような、という気分になって、その場に呆けて固まっていたのだけれど、心臓だけは正直に現実を刻んでいて、我に返るのが遅くなる。
やっとハッとした時には彼女の背中はもうどこにもなく、五番街もあちこちから客と店員のやりとりの声や食器の音がかすかに聞こえていて、立ち直った私は今しがたレベッカが飛び出してきた店の隣の店のドアをくぐった。
さっぱりした食事が一つもなかった。失敗した。
翌日、やはり午前中潰された書類整理に、追加と言われた書類の山がやってきて、明日で終わるかと思われた仕事の山がどんどんと増えていく。おかしい。こんなに溜めた覚えはないのに。違うな、私が溜めたのではなく、提出元が溜めていたのか。これが終わったら指導に入ろう。私怨の魔法をぶつけても許されるような気さえする。
疲れた身体にやはりさっぱりしたものが食べたくなって、私はまた外に出た。凝り固まった肩を回し回し歩いていて、やはりかけられる声や手を押しのけて、バザールを抜け、五番街。今日は昨日の店の隣。
「いらっしゃい! あっ!? ネ、ネロさまっ!」
扉を開けると、気の良さそうな店主が出迎え、私の顔を見るなりぎょっとする。その声に客と店員含めた店中の視線が突き刺さったが、取り合わずに「一人だ」と告げた。
「は、は、はいっ! い、いや、まさかネロさまにお越しいただけるとは思いませんで、こんな狭くて粗末な店ですが……」
「いい。ところで」
言って、店内を見回す。確かに本人の言う通り狭い店ではあったが、ホールには見つけられず、横目で覗いた厨房にもその影は見えなかった。客として来ていたのだろうか?
「な、なんでしょう」
「レベッカという娘がいなかったか」
「レベッカ? ああ、あのミシェルの」
どうぞ、と勧められた席に腰を下ろす。メニューを捲り、適当に当たりをつけた。よかった、ここはさっぱりしたものもこってりしたものも両方取り揃えているようだ。
「辞めさせましたよ。皿もロクに持てねえで、割ってばかりいるもんですから。それに、注文もまともに受けられねえ」
「……」
「なんで貴族さまがアルバイトなんかするのかわかりませんけども、貴族の道楽には付き合えませんや。あ、ご注文は?」
「豆腐とささみのサラダと塩そば」
「ありがとうございやす!」
厨房にオーダーを通すために下がった店主の、「お前たちっ! ネロさまがいらっしゃったぞ! 明日からうちは箔がつくわ!」という、隠そうともしない声が聞こえてきながら、店主の言葉を反芻した。
皿も悪し注文もまともに取れないので辞めさせた。
なんで貴族がアルバイトなんてするのか。……
昨日の飛び出してきた彼女の姿は、追い出されたところだったのか。ならば通りで、泣いていたのに理由がつく。
泣いていた。
そうだ彼女は、唇を噛み締めて静かに、それでいて烈しく泣いていた。
悔し涙か。
どれくらいぼんやりしていたのか、気づくとメニューを持って笑顔の店主がやってきたので、佇まいを直してそれを受け取った。
防風林に行くのはしばらくやめた。
三日後、深夜に差し掛かってやっと書類整理が落ち着いた。これなら明日にでも終わるだろうし、今日は切り上げてもいいだろう。食事の時間に間に合わなかったので、深夜の時刻に空っぽの腹が鳴いた。無視して眠るのもできたが、自分への労いという意味でも外に食べに行こうかと思い、こんな時間ならもう居酒屋ぐらいしかやってなかろうが、それでもいいかと街に出る。
寝静まる街は静かで、足音に注意しながら歩いていると、一軒目の居酒屋の光が煌々と出迎えた。
もう悩むのも面倒だし、ここでいいか。
胃も何でもいいからとりあえず早く食べたいと叫んでいることだし、と階段を上がって暖簾をくぐると、扉を弾いた音に振り向いた店員たちの賑やかな声で出迎えられた。さっと出てきた店員を視界に認めて、それから驚く。
「いらっしゃいま……ネ、ネロ・ユングフラウッ!?」
「……レベッカ?」
「な、あ、あんた何でこんなところにっ!」
「居酒屋に来たんだから食事と酒を飲みに来たに決まってるだろう」
「そ、そうだけどそうじゃないわよっ!」
「ところで君にも聞きたいのだが、君は学生ではなかっムガ」
「あああ、あちらのお席へどうぞお客さまあっ!」
口と言わず鼻ごと塞がれ、塞がれたというよりかは盛大に叩かれ、その痛みに耐えている腕をグイグイと引っ張られる。突き飛ばすように椅子に座らされ、店内の一番奥の窓際の席だった。少し離れたところで陽気な男たちが何度目か知らない随分酔っ払った乾杯の音頭を取っている。
レベッカ、と名を呼べば、返事もなく目だけが答えた。
「君は学生ではなかったか。魔法高等学校はアルバイト禁止だと思うのだが」
「仕方ないじゃない! 生活のためには働かないといけないし、学業するにもお金は必要なんだから!」
「……それもそうだが、今何時だと思っている。君のような年齢の子どもがこんなところに居ていい時間じゃないぞ。店の経営者はどうしてるんだ」
「年齢は三つほどサバ読んで……って、そんなことあんたには関係ないでしょ! ご注文は!?」
「話はまだ終わってない」
「ご、ちゅ、う、も、ん、はっ?!」
「…………とりあえず出し巻き卵と磯辺揚げとビール」
「かしこまりましたあっ!」
言うなり、彼女は小走りに厨房の方へと行ってしまう。
その背中を見送って、ハア、とため息を吐いた。
「お疲れさまでしたあっ!」
そんな声が聞こえてきて、空になった皿を前に立ち上がる。腹も満ちたし、酒も飲んだ。客足はそこそこといったところで、私の後に来た若い連中が楽しそうに飲んでいるのもあれば、私と同じように一人で来て静かに食べているのもある。テーブルの合間を縫って、レジまで伝票を持っていくと手早く会計を済ませた。店員達の声を背に暖簾をかき分け、外に出る。
「レベッカ」
深夜の道に私以外には彼女しか居らず、その背中に声をかければ数歩入ってから立ち止まった。多分立ち止まるか立ち止まらないか考えての数歩だったんだろう。彼女の背中はまさしくそう言っていて、そして彼女はわかりやすい。
「何よ」
と振り返ったレベッカはやはりそんな顔をしていたから、その傍まで歩み寄る。
「……アルバイトは感心するが、こんな夜中までやっているのは感心しないな。明日も学校があるんだろう」
「そうよ、でも、さっきも言ったけど仕方ないじゃない。暮らすにも学ぶにもお金はかかるのよ」
「明るい時間だけではいけないのか?」
「深夜早朝の割増料金って知ってる? 昼間と比べると倍近く時給が違うのよ」
「しかし危ないだろう」
「危ない危ないばっかり考えてたら生きてけないわよっ! うちにはまだ小さな妹もいるの! 私が稼がなきゃいけないのよ!」
「…………」
フン、と鼻を鳴らした彼女が身を翻して先を行く。その背をもう一度止めた。存外素直に止まってくれる。
「五番街の九龍という店、辞めさせられたんだろう」
「なっ、なんでっ」
「店主に聞いた。アルバイト、向いてないんじゃないのか」
「ーーっ」
ギ、と彼女が睨みながら私を振り向く。その両目に一気に膜が張るのを、煩わしそうにしてレベッカが私の胸ぐらを掴んだ。身長差では前のめりになる。加減も知らない手がキリキリと服を軋ませたが、痛くはなかった。レベッカの眦が夜目にも真っ赤に染まっている。
「だからって!! このまま野たれ死ねっていうのっ! ベティには私しかいないの、うちにだって働けるのは私しかいない! 向いていようが向いてなかろうが、やるしかないじゃない! そりゃあ、あんたにはわからないでしょうがね!!」
「わからない」
「知ってはいたけど言われると腹が立つ!!」
グン、と、引っ張られていたのを突き飛ばされた。大した力でもなかったので、重心を移動するだけで事なきを得る。それがまた悔しいのか何なのか、彼女はさらに強く私のことを睨みつけたが、瞬きの後にはやや乱暴に両目を拭い、今度こそ行ってしまう。その背を追いかけることもできないで、ただ見送っていた。
六
魔法高等学校に特別講師として呼ばれた。なんでも宮廷魔術師の中では一番若く学生たちと年が近いから、との理由で私が選ばれたらしい。レベッカのクラスだったら面白そうだなとは思ったが、そこまで上手くはいかないらしく、別の学年の別のクラスに顔を出した。
講義は滞りなく終わり、生徒達の成績もそれなりに良かった。人の話をしっかりと聞く姿勢も好感を持てたし、授業内容に食いついてくる貪欲さもなかなか良い。
一日限りの特別講師が終わって、先生方に挨拶をして出ようとしたところ、小柄な背中が目一杯のノートを抱えてよろめいているのを見つけた。両手の中で塔を築くノートの山が危なげなく揺れている。バランスを保つので背一杯で前へも進めなさそうなのに、なんとか踏ん張って一歩一歩進んでいる様子だ。手を貸そうかとしたところで、後ろから「ネロさま」と呼び止められる。教頭だ。
「お見送りいたします」
「いや、」
いい、と答えようとしたのだが、よろめく背中は角を曲がって行ってしまった。
手伝ってやればよかった。
薄味の後悔だけが舌に残って、首を傾げた教頭に首を振る。
「レベッカという生徒がいませんか」
「レベッカ? ……ああ、あのレベッカ・ミシェルですか」
「あのと言うと?」
「半分劣等生ですよ。魔力適性はCランク、一般人より少し使えるかという程度。実技は何とかギリギリ及第点というところですし、いったいどうして我が校に入学できたのか……。ああでも、魔法学の知識はきちんと土台もできていて、そこだけが評価に値するところですね」
「…………」
「彼女が何か?」
「いえ、特には」
そうですか、と気にした様子もなく、教頭は私を門まで送った。
校内のどこに視線を送ったところで、彼女の姿は見つけられない。見つけたところでどうするというのだろう。教頭の別れの挨拶も話半分で聞いていて、礼をとる彼の仕草を最後まで見ずに城へと戻った。
レベッカ・ミシェル。
貴族の家に生まれながら、栄華とは程遠い生活を送る苦学生。
私をライバルという娘。
魔法使いに憧れる。
溢れて散った悔し涙。
「……」
悔し涙に恋をするなんて悪趣味だ。それも年下の相手に向けて。
ロマンチックなどとは程遠い。
私と彼女の出会いなどというものは。
七
「行き詰まりを感じる」
今日も姫さまに魔法学を教えに来たレベッカが、帰り際に遭遇した私を珍しく呼び止めて言った言葉だった。
城内は終業の鐘の音に帰り自宅で慌ただしくて、城を出て行く人々の邪魔にならないように端によけて彼女の話を聞いてやる。
「学校で習ってきた知識を教えるだけじゃ、いずれ教えるのに足りなくなる。そう思って新しく本を読んだりしているけれど、付け焼き刃の知識じゃタカが知れてるし、よく言うじゃない、教えるには教えられる側の三倍の知識が必要だって。いくら実技より筆記の方が得意で点数も高かったところで『教える』ためのものじゃないから、いつかは壁に当たるのよ」
そしてそれが今だと彼女は言う。
ふむ、と鼻を鳴らし、「そうだな」と頷いた。
「しかし姫さまもそれはご存知の上で君を指導役にと言ったんだろう?」
「それはそうだけど、だからって殿下の勉強熱心な姿勢を私の事情で潰すわけにはいかないわ」
「だが今のままでは困るんだろう」
「そうよ、困ってるのよ。どうするべきかしら」
「……」
はあ、と彼女が息を吐いて俯いてしまう。それを見つめながら、私は少なからず相談相手にされたのが嬉しかったし、どうやって彼女の悩みを晴らしてやるかと考えた。
けれども、答えなんてそういくつもあるわけじゃない。
知識の精度を上げたいのなら勉強するしかないのだ。付け焼き刃の知識でダメならそれを自分のものにできるほどきちんと深く濃くしっかりと勉強しなければならない。そのためには時間がかかるし金もかかる。一時的に姫さまの前を下がるくらいのことはしないと、片手間では彼女の望むような結果は得られないだろう。
姫さまはレベッカの知識がアマチュアレベルだと知った上で、自分を土台にしろと自らおっしゃり彼女を教師役に任命した。最初こそ国王陛下は先の姫さま脱走事件やベヒモスの一件やなんかがあり難色を示していたが、毎日通って毎日勉強を教えているレベッカの姿に認識を改め、今では陛下も公認されている。殿下もまた、彼女がアマチュアだということは知っているはずだ。それでもそのままにしているのだから、いずれ彼女がこうして壁に当たることも予感はしている。と思う。多分。
ため息を吐いてそれきり黙り込んでしまった彼女へ向けて、一つしかない答えを私は言ってやる。
「武器にしろ防具にしろ、精度を上げたければ金がかかる。君のもそうだ。『このままではいけない』と思うなら、まず君の知識の土台をしっかりさせて、そして発展させなければ」
「……それはつまり、私がまず勉強しろってことよね」
「そうだ。しかし片手間ではいけない。姫さまの前を下がるのは必要だろうし、今君がしているアルバイトも全てよして、一本に打ち込むぐらいはしなくては。それぐらいの姿勢がないときっと身につかない」
「時間がかかるわ」
「一朝一夕ではいかないことぐらい君もわかっていることだろう。なんにせよ君が発展を望むなら、一度姫さまや陛下にもご相談をするべきだ。しかし、」
「しかし?」
「……いや、」
なんでもない、と首を振る。
……しかし、そこまでして、「知りたい」という欲求に応えたいほど、君は「教える」ことに望みを見たのか。
水を差すような気がして言うのをやめた。レベッカは不思議そうな顔で首を傾げたが、追求することはしてこない。
「私から言えることはそれくらいだ」
「うん。……ありがとう」
「……」
頷く、その横顔に、少しだけ言葉がつっかえる。
ありがとう、とは、貴重な言葉だ。普段が宣戦布告と悪態ぐらいなものだから、そんな言葉とは程遠いし、そういえば、こうしてまともに話をする機会だってそうあるものじゃない。
「……私の方でもいい手段を探しておこう」
「え、いいわよ、そんなの。私の問題なんだから自分で探すわ」
「たまに頼られたんだ、少しはいい格好をさせてくれ」
「なにそれ」
「男の意地みたいなものだ」
「……」
ぷ、と彼女が、困ったような顔で笑う。
「ありがとう」
二度目。
「どういたしまして」
今度はつっかえない。
調べると、言ったところで、私の頭の中にはもう答えは出ていたのだけれど。
今言うことだってできたのに、先延ばしにしたのは我ながらずるいやり方だ。その分彼女の悩みも延びるのに。
レベッカの希望より自分自身の欲を優先した時点で私もやはり我が身が可愛い人間なのか。たった一言が胸の中をドンと叩く。
「いかないで」。
八
便箋を一枚手に取った。なんとなく佇まいを直して、ペン先をインクに滲ませる。そして紙の上を滑らせたが、書き損じ。グシャグシャに丸めて捨てた。もう一枚を引っ張り出して、同じように書き始める。話のつなぎに失敗した。丸めて捨てる。もう一枚。名前を間違えた。丸めて捨てる。もう一枚。もう一枚。もう一枚。…………
グシャ!と今しがた書いていた紙も潰して、ゴミ箱に放り投げた。
今日は日が良くない。またに改めよう、と考えて、手紙一式をさっさと片付けると立ち上がる。こんな日がもう一週間も続いていたが、仕方がないのだ。日が良くないのが続くのだから。
カタンと窓が音を立てて、気になってそれを開けた。日中は春を思わせる生暖かい風が吹くようになり、花もつぼみ始めている。防風林も少しずつ趣を変えだして、春になれば若葉が綺麗に咲くだろう。
眼下の中庭。いつか彼女が騒いでた場所。
視線をそらし、姫さまのお部屋の方角へ。きっと今も教えている。彼女の教える姿がどんなものかは知らないけれど。
「……はあ」
何をやっているんだ私は。
窓を閉じて首を振ると、何だか物寂しい気にもなった。これは私のわがままだし、醜い欲だ。何のためにもならない。本当に彼女を好きだと思うなら、あの時にすぐに言ってやるのが筋ではないのか。
(本当に醜いな)
自分自身に呆れの息しか出てこない。
レベッカがぶち上がった壁を破る方法を、私はもう知っている。それはあの悩みを打ち明けられた時から頭の隅にあったのだし、私が間に入れば多分うまくいくだろうことも予想がついている。だというのに、それをさっさとやらないのは本当に情けないとしか言いようがない。私自身の欲とわがままのために結果を先延ばしにして、こんなんじゃあレベッカもやきもきと日々を過ごしていることだろう。私に任せろとというようなことを言っておいて、自分からそれを遠ざけているのだから手に負えない。
はああ。
また大きな息を吐く。頭をグシャグシャに掻き回していると、その背後で「ネロさま」という言葉とともに扉が叩かれた。
「入れ」
「失礼いたします。ネロさま、王女殿下がお呼びです」
「姫さまが?」
「はあ、なんでも重要な話があるとかで」
「わかった。すぐに行く」
はい、と使いの者は返事をし、パタリと扉を閉められた。
重要な話とは一体なんだろう。それも姫さまから私にである。陛下からならわかるのに。
考えてもわからなかったが、呼ばれたからには参上しなければならない。掻き回していた頭と身なりを軽く整え、私はすぐに部屋を出た。
「姫さま。ネロです」
「来たのね。入りなさい!」
「は……」
部屋に失礼すると、室内には姫さまお一人でレベッカの姿はなかった。彼女を探したのを気づかれたのか、両腰に手を当てた姫さまが
「レベッカは今日はお休みです!」
と教えてくださる。そうだったのか。
「ところで、姫さまが何か私に重要なお話があるとお伺いしたのですが……」
「ええ、そうよ、その通り! ネロ、あなた、レベッカの今後については知っているのでしょう?」
「今後……と言いますと、彼女が今姫さまに魔法学をお教えすることに壁を感じていることについてでしょうか」
「そうです! それについて、本人からわたくしやお父さまにお話がありました。勉強がしたいので一時的にわたくしの教師役を下がりたいと……。そして、その勉強先について問うと、『ネロが探してくれているが、自分でも調べている』と彼女は言いました。それについてはいいですね?」
「はい」
「っではあなたは、この一週間ずっと探してまだ答えが出ないと言いますの? あなたのことです、宮廷魔術師としてツテやらコネやら使えば一発ではないのですか? 何をそんなにモタモタとしておりますのっ!」
(うっ!!)
思わぬところからものすごい強さで図星を突かれた。部屋のゴミ箱を思い浮かべて目を反らす。しかし全くもって全てが姫さまの言う通りなので、返す言葉がひとつもなかった。
「申し訳ありません……これについては私の情けないところです」
「ということはまだ探しておりますの?」
「いえ、見当は既についております」
「まあっ! ではなぜそれを早くレベッカに提示しないのです! 彼女、ここ数日はやきもきとして不安げな表情でしたのよ! 自分で探すと言っても、彼女にはどうしたらいいのかわからないようでしたから」
そうだろうな、と考える。そしてますます我が身のことが恥ずかしくなる。
ああ本当に、何をやっているのだ私は。
彼女を不安がらせたいわけではなかったのに、これではいたずらに不安感を煽っているだけだろう。たった一つの私の欲とわがままのために、レベッカまで不安にさせていたらたまらない。
顔を覆って息を吐いた。
「申し訳ありません。本当に、これは私の情けないところです」
「……何か事情がありまして?」
「私のわがままゆえです」
「わがまま? それは?」
「私がレベッカを好くあまり、遠くへ行ってほしくないというわがままです。しかし、それで彼女を不安にさせるのは……」
「ま、まあ! 好くですって!!」
姫さまが私の話を遮って、顔を紅潮させながらひっくり返った声で言った。私は目を瞬いて、「はあ?」と失礼な声を出してしまう。普段ならば不敬罪に処されるだろうものが、目の前の姫さまはいかにも興奮した面持ちだ。「ちょ、ちょっと待ってくださいね、それは、つまり、だから、えっと、」と盛大に動揺混乱している様子である。
「す、好く、というのはつまり、あなたがレベッカを好きだということっ?」
「はい」
「ライクではなくラブということ?」
「そうなります」
「そ、それはっ、レベッカを一人の女性として好きだということっ?!」
「そうです」
「ま、まあっ!!」
……なぜ嬉しそうな顔をするのだろう。ああでも、姫さまも年頃なのだし、こういう話は興味があるのだろうか。申し訳ないが、期待するような甘いことは一つもないのだけれど。
「そ、そのことはレベッカは知っていますのっ?!」
「告白はしましたが、返事はもらえていませんし、多分忘れていると思います」
「な、なんですって!!」
ガターン!と姫さまが椅子から立ち上がる。
「それならばここはわたくしが一肌ぬいでっ!」
「いえ、そういうのは大丈夫ですので」
「えっ……」
「レベッカへの説明も、私からきちんとしますから」
「あ、そう……」
姫さまがしおしおと椅子に戻った。
そうだ、きちんとしなくては。
不安にさせるのは本意ではない。ただでさえ彼女は思い悩んでいるのだから。
姫さまの話はそれで終わりなようで、私はお部屋を辞するとすぐさま自室へと戻った。手紙はもうまどろっこしい。もう一週間は書き潰していた。書物をひっくり返して連絡先を確認し、番号を抜き出してメモに書く。それを破って、王宮の電話番のところまで駆け下りた。
「一つ貸してくれ」
「どちらまで?」
「学園都市のリエーフまで」
メモを渡せば、二つ返事で繋いでくれた。かかったところで受話器を渡される。正直一回目で出てくれるかは不安だったが、ちょうどタイミングが良かったのか相手は電話を取ってくれた。運がいい。
「ご無沙汰しております、ネロ・ユングフラウです。チェルニー先生、お元気ですか」
九
「これを」
書状を渡すと、レベッカは器用に眉を段違いにして私と書状とを何往復かした。訝しげな視線に早く受け取るように指先で急かすと、彼女がそれをやっと受け取る。書状を開いて、そこでやっと合点がいったようだ。
「私がお世話になっていた魔法学の権威チェルニー先生に君のことをお願いしておいた。これはその紹介状だ。事情を話したら快諾していただけたが、先生はスパルタで授業が早いのでそこは食いついて頑張ってほしい。まず半年、それで満足するもそこから延長するもそれは君の自由だ」
「本当に探してくれてたの」
「言っただろう、たまに頼られたんだからいい格好をさせてほしいと」
その割には一週間もダラダラとしていたが、そこは知らないふりをしてほしい。
レベッカが静かに瞬きをして、それから静かに言う。
「うん……でも、甘えてしまっていいのかしら」
「今更ためらうのか?」
「……でも、今までお金なんて学校に行った以来自分のために使ったことないわ。これにお願いするってことは少なからずお金がかかるでしょうし、私のお金はベティのためってずっと決めて、妹のために貯金していたのに……」
「君は『妹のため』と言って自制しすぎだ。たまには自分のためにも使いなさい。そうでないと、君の妹だって負い目を感じてしまうだろう。……なんにせよ、きちんとした話し合いは必要だと思うが、君の『やりたいこと』が決まっているのなら、迷わずこれに甘えるといい」
「…………」
うん。
控えめに彼女が頷く。それを見て、私も頷いた。
「先生は『いつでも来なさい』とおっしゃっていた。君の支度が済んだら行きなさい」
「ええ、ありがとう。……でも、ねえ、どうして協力してくれたの。私、言っちゃなんだけど、あんたに散々なことばかり言ってきたししてきたわ」
「……、」
これは、本当に忘れているのか。
自分で姫さまに言っておいてなんだが、本当に忘れられてるとそれはそれでショックだった。初めての告白だったのだからなおさらだ。
……しかしまあ、彼女とはそういう人だろう。
聞き間違いとか勘違いとか、そういう結論で流されてしまったんだろう。
ここまでくると笑ってしまった。怒るとか呆れるとか通り越して、クスクスと笑ってしまうと、彼女が変な顔をする。
ああそうだ、およそ自分たちに、ロマンチックなどというものはありえない。
「言っただろう」
「え?」
手を取った。そしてその指先に口付けて、
「君が好きだからだよ」