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王女殿下のおっしゃることには

二、王女殿下のおっしゃることには


    一

「殿下! 殿下あーっ! エレノアール王女殿下!」

 そんな声、響いているのを聞き流しながら羽織った外套のボタンを上から下までしっかり閉めた。襟も立て、大きなフードも目深にかぶる。

「殿下ー!」

 と、騒がしい声はいまだに探し人に出会えない。物陰の裏から、見つからないよう姿勢を低くして後庭を慎重に横切った。


 最近見つけた警備の死角、城壁近くまで枝を伸ばした立派な木を人生で初めて登り、えっちらおっちら時々落ちそうになりながらもなんとか登りきると、塀の上へと飛び移る。そして足元を覗くと、地面まではそれなりの距離があり、これを飛び降りるのだと思うとゴクリと喉が鳴った。しかし、ここでこのまままごまごしているわけにもいかない。

 一旦その場に腰掛け、足をぶらつかせると、腰をひねって体勢を変えた。それから一気に体重を下ろすと、城壁にぶら下がる形となる。地面はまだ遠い。この手を離せば、それは城の外である。

「せ……せー、のっ!」

 パッと手を離し、身体は宙に投げられる。空から落下する感覚もそこそこに、ガツンッと華奢なヒールが今にも折れそうな音を立てて着地した。ふらついて、一歩二歩とその場でよろめく。心配になってヒールを見ると、折れてもいないし傷ついてもいなかった。それにホッと息を吐く。

 顔を上げ、城壁を見上げた。

 そして、城壁の外にいる自分のことを見下ろした。


 ああ、ここは城の外!

 生まれてはじめて踏みしめる、城外の地面!

 なんと素晴らしいことだろう、あんなに遠かったはずの外に今、自分は立っているのだから!


 あまりにも嬉しくて、その場で歌い出しそうな気分にもなった。というか実際歌いかけたのだが、ハッと気づいて口を閉ざした。ぱくり。ここで歌って見つかって、すぐさま城の中にリターンするのは絶対嫌だ。口を閉ざし、襟元をかき合わせ、早歩きでその場を去った。カツンカツンとヒールが石畳を撫でつける。


 城下町まで下りると、王の膝下に相応しい賑やかさと輝きがそこにはあって、平日だというのにバザールは盛況のようだった。朝どれの果物、食材、軽食に、衣服、書物、雑貨、織物、伝統工芸品、王室御用達が謳い文句のお菓子の数々。そのどれもが目新しいもののようにキョロキョロとせわしなく見ていると、

「よっ! そこの美人なお姉ちゃん! 今朝採れた新鮮な卵で今晩の食事を作るのはどうだい?」

 び、美人なお姉ちゃんっ!?

「だ、大丈夫よ、ありがとう」

 舌を噛みそうなほど早口になってしまった。もしや顔が見えているのではないかと慌ててフードを確認するが、確かにしっかりとかぶっている。顔を見られたわけではないということは、体型から推測されて、女性にはああやって誰彼構わず声をかけているのだろう。

 それにしても胸がうるさい。それは外の世界への憧れがこうして今目の前にあるからでもあるし、抜け出した後の城のことを考えているからでもある。夢見た自由に胸をときめかせながら、束縛を思いやって後ろめたい気持ちにもなっていた。自分で自分が面倒に思われて仕方ないが、事実なのだからしょうがない。

(どうしようかしら……やっぱり戻った方が、いいえでも、やっと叶えられた夢なのよ、簡単に終えてしまったら絶対に後悔する)

 頭を振って、そうすると、脳がくるくると回るようでめまいがする。よろけそうになるのを堪えていると、

「へっへーん! 怒ったって全然怖くないやい!」

「あっこら! ケビン!」

「ひゃっ!?」

 ドスンッ、ドタンッ!

 一瞬何が起きたかわからなくて、尻餅をついてからやっとそれを理解した。同じように尻餅をついている少年は、あいててて、とつぶやきながら腰のあたりをさすっていて、思い出した痛みが同じように腰のあたりに熱を持つ。前と後ろと両側の腰が痛いのは、少年の頭突きのような体当たりを受けたせいだろう。

「だ、大丈夫ですかっ!?」

 ひっくり返った声をあげて、女性が一人駆けてくる。彼女がケビンと呼んだ少年にも同じ言葉を問いかけて、「大丈夫」と返ってくると、頭を撫でながらこちらを見つめた。

「あの、すみませ……」

 そこでふと、声が止まる。

 まじまじと見られる理由がわからなかったが、そこでハッとして、尻餅をついた拍子に落ちてしまったフードを急いで被った。


 顔を見られた!

 いやでも、わからないかも……


 逸らしていた顔を、ちらと向ける。恐々とした視界の中に、あんぐりと口を開けた女性の姿がーー

「お、おうじょでんっムグア!」

「それ以上喋ったら腹を掻っ捌いた上で切腹と処理いたしますわよ……!」

 んな横暴な。

 顎ごと掴んだ唇が、そんなことを言った気がした。手のひらがくすぐったいだけだった。


    二

「お、王女殿下は、なぜこのような場所に」

 ケビンと呼ばれた少年を急いで帰路に送り出し、わたくしの手を掴んで花屋へと招き入れた女性はレベッカと名乗った。店の中はレジ台が背にする壁を覗いて三方すべて花に埋もれており、あちこちから芳しい香りがむせかえる。城で見るような花は一つも並んでいなかった。

「散歩です」

「供の方も連れずにですか。その上、お顔まで隠すようにして」

「そうでなければ騒ぎになるでしょう。あなただって、わたくしのことが一目で王女だとわかったのですから」

「そりゃ、自分の国の王族のお顔ぐらい誰だって知っています」

「あの子はわからなかったようだけど」

「ケビンはまだ子供ですから……」

 フゥン、と鼻を鳴らして、見たことのない花に触れていた手を外套の中に戻す。作業場なのか、店の奥にはこの店と同じくらいの広さの続き部屋があるようだったが、それを足しても自分の部屋の大きさには圧倒的に足りなかった。やっとバスルームに届くか届かないかといったところだろうか。城と比べてはいけないのだろうが、それにしてもこじんまりとしている。

「もしぶつかったのが私たちでなく、悪い人だったらどうするおつもりだったんですか」

「王都の治安は良いと聞いております。先日も通り魔を逮捕できたでしょう」

「うっ!」

「なぜそこであなたが呻くの?」

「いえ、思い出したくない記憶があって……」

「フゥン?」

 一気に青ざめてあらぬ方向を向く彼女に、わたくしは首をかしげながら鼻を鳴らした。思い出したくないということはあまり触れられたくないことだろうか。突っ込んではいけないのだろうことを察知して、それ以上の追及はなしにする。

「ここはあなたのお店?」

「いいえ、アルバイト先です」

 あら、そうなの……と、答えようとしたところ、遠くからバイクのエンジン音が聞こえてきて、かと思えば、ガッと腕を掴まれてバッとフードを押し掴んで隠された。

「ちょ、ちょっと」

「黙っててください!」

 ぎゅうぎゅうと、フードのところが軋んでいる。どれだけ力を込めているのか、覗き見える指先が真っ白になっていて、このまま引きちぎれるのではないかとわたくしの方が恐ろしくなった。

 バイクの音は店の外すぐそばに止まったようで、程なく鐘を鳴らしながら扉が開かれる。

「はあ、レベッカ、ただいま~」

「お帰りなさいマダム! 配達お疲れさまです!」

「い、いやにイキイキしてるわね。何事? ていうか、あら、そちらはお客さま?」

「いいえマダム! この子は私の友達です!」

「ヤダあなたお友達いたの?」

「ちょっとそれは一体どういう意味ですか!?」

「だってほら、あなた仕事が友達、仕事が恋人みたいなイメージあるし……」

「わっ、私にだって友達の一人や二人や百人います!」

 ……いないんだろうなあ……。

 その時多分、わたくしとマダムの心の声は重なった気がする。フードを握る手がブルブル震えているのは、悔しいのかなんなのか。

「暇だからブラついてたみたいだったんですけどっ! もう帰るみたいなので!」

「そうなの? ゆっくりしてもらえばいいのに。ああ、なんなら休憩その子と……」

「いえ! 大丈夫です!」

 言うなり、フードを抑える手とは別の手でグイグイと手を引っ張られ、不自然なレベッカの笑い声を聞きながらなんとかマダムの目をくぐった。カランと扉が鳴り、強くはないが弱くもない力でもって押し出される。細いヒールがたたらを踏んで、振り向くと、マダムに背を向けたレベッカが「シー」と歯を見せた口元に人差し指を立てていた。

「じゃ、じゃあね、えーと、エレナ! また遊びに来て!」

 言うなりバタン!

 これではまるで閉め出しだ。

 不敬罪で処してやろうかしら……と物騒な冗談を頭の隅に思いつつ、顔を上げた。寒風に、「三本の樅」と書かれた小さな木の看板が、からりからりと揺れている。


    三

「いらっしゃいま……ぐえ」

 一週間後。

 侍女や乳母といった面々からのお叱りや泣き落としといった手段がようやく下火になってきて、ようやくわたくしの自由時間が戻ってきた。しかしなお外への興味はかき消えず、むしろ増えたと言ってもいい。一目にしたあのバザールの光景や、そしてなにより、レベッカと言う女性のことを考えると、また会ってみたいという気にもなる。

 エレナ、なんて愛称を、わたくしはこの十六年間親からしか呼ばれなかった。それを赤の他人である彼女が呼ぶのは、胸が疼くような気がして、思いだすたびむず痒いような気にもなる。

 わたくしは、一週間ぶりに着た外套のフードを外しながら、きっと「蛙の潰れた声」と表すのだろう彼女の声に、フフンと笑う。

「また来たわ、レベッカ」

「な、な、な、な」

「『また遊びに来て』と、あなたが言ったのよ。覚えていて?」

「……! ……!! ……!!!」

 レベッカは、まるで雷に打たれたかのように痙攣しだした。それと一緒に顔を覆い、何かに打ち震えるような格好をする。わたくしはにっこりと笑って、そんな彼女に追い打ちをかける。

「ねえ、だってそうでしょう? 『お友達』のレベッカさん?」

「ヒ、ヒエーー……」

 本当に不敬罪で処してやろうかしら。なんて冗談なわけだけど。


「粗茶ですが」

「ソチャ? 新しいお茶のジャンル? 豆乳とチャイの略語? 色は紅茶に似ているけれど」

「どれかといえば紅茶です」

「まあ」

 出された飴色の液体の香りを嗅ぐと、確かに茶葉の匂いがした。カップを持ち上げてひとなめする。

「……味がないわ」

「フレーバーティーです」

「それにしても味がないわ」

「そういうものです」

「お湯ね」

「そういうものです」、と、二度目にもレベッカが言った。実に神妙な顔だったので、下々はこれを「紅茶」というのだと思い知る。それにしても哀れが過ぎた。わたくしの知っている紅茶はもっと芳しくて風味豊かなものなのだけれど、一般市民はお金がないから質のいい茶葉を買えないのかしら? それならば、もう少し茶葉が安くなるように掛け合って見るべきかしら。こんな色だけが紅茶のお湯をそう思い込むには哀れが過ぎる。カップを置いた。


「それにしても」、とレベッカが言う。

「殿下はまたなぜこちらにいらっしゃったのです。てっきり絞られてもう来ないものかと思っていたのに」

「それはもう侍女から始まり侍女長、乳母に至るまで、使用人たちにはこってりと絞られました。けれど、それももうなくなったので、またこうして出てきたのよ」

「侍女さんたち涙目ですね。あんまりいたずらが過ぎると本気で寿命縮めるんでやめてあげてくださいよ。私もさっき確実に寿命が縮みました」

「だってわたくし、十六年間ずっと城にいたのよ。外のこと、触れられることなんかなかったし、出ることだって許されなかった。あれじゃあまるで監禁よ」

「お城の事情はわかりませんけど、陛下たちがそういう教育方針をとったんじゃないんですか」

「わたくしにだって意見はあるわ。それに、自国の王族が国のことを何も知らずにいるのはあなたがただって困るでしょう」

「……それは、まあ」

 そうかもしれない、と彼女が言うので、わたくしは「そうでしょう」と大げさに頷いた。

 けれど実際どう考えても、いつまでも箱入り娘ではいられないのだ。もう十六になっている。成人まであと四年だ。結婚相手についてはまだ触れられていないが、そんな話が出るのも近いだろう。こんな年齢になるまで城から出たことがなかったのは、民たちに申し訳ない気にもなるし、やっと出たのだって、あまりにも遅すぎた。もっと早くこうしているべきだったと、今更ながら悔やまれる。

「お父さまは心配性なんだわ。お母さまのお身体が弱いからって、わたくしもそうなんじゃないかって心配して。わたくし、これまで一度も風邪もひいたことがないし、体調を崩したことだってないのに」

「た、たくましいですね」

「そうでしょう。わたくし、たくましいのよ」

 だから。だから、大丈夫なのに。


 父と母は生まれる前からの許嫁で、母は小さい頃からとにかく身体が弱かった。何かと病気がちで、医者の言葉で二十歳までは生きられないと言われていたほど弱い身体では外に行くこともままならない。父は王子の時分公務の間を縫っては花を持って母の家に通っていたという。多忙で外出できない時には、必ず花に手紙を添えて使いの者に持たせたらしい。

 そんな母も、進む医療と本人の気力で「二十歳まで」と言われていた寿命を蹴り飛ばし、みるみるうちに元気になった。父も母も両家の親も単純にそれを喜びやっと二人は結婚したが、母の身体の弱いのは根本的に治らないのか、わたくしが生まれてからも、母が病床に着くことは少なくなかった。

 そういう母を心配して、そんな母から生まれたわたくしのことまで心配して、父はとにかくわたくしを外に出すのを嫌がった。一つも病や怪我を得ないようにと、細心の注意を払いながら。

「おかげでわたくし、病気なんて一度もしたことがないし、怪我もしたことがないの。だけど同じように城から出たこともないわ。わたくし、知らないことが多すぎるのよ」

「…………」

 かたん、と、風に吹かれたのか、店の窓が小さく鳴った。マダムは今日もいない。この時間は配達と決まっているのだろうか。レベッカとわたくしの二人きりの空間では、どちらかが喋るのをやめてしまえば耳に痛いほど静かになる。扉向こうのバザールや商店街の喧騒も、こんな時ばかり、遠くに聴こえるようだった。

 ふと、レベッカが息を飲むような音を聞いた。

「それで、殿下は、知ることの努力をしようと、こうして外にいらっしゃるわけですか」

「ええ、そうよ。まともに出ようと心がけても、絶対に許してくれないから」

「お供もつけずに、顔まで隠してお一人で?」

「そうでもしないと、皆わたくしに日常のことを見せてくれないでしょう。わたくしは、この王都の自然な姿を見たいのよ」

「危険ですよ」

「だとしても見たいわ。今まで見てこなかった分、危険だとしてもしょうがない」

「…………」

 マダムはいない。こないだのように、バイクでどこかへ行っているのかしら。


 沈黙の時間は随分長いように思われて、意外とそうでもないのだろうか。チクチクと針を縫う時計の音も、なんだか遅く感じてしまう。

「わかりました」

 と、しばらくしてからレベッカが言った。大きな息を吐くようだった。

「わかりました。殿下のお気持ちがそれほど固いのなら、私も協力いたします」

「まあ」

「この時間、毎日マダムは配達で一、二時間ほどお店を空けます。それで帰ってきたら、私の休憩時間が一時間あるので、その時間、殿下にお供させていただきます。お一人で街を歩くよりは、誰かの案内があったほうがいいでしょう」

「それもそうね。ひとりきりだと迷ってしまいそう。でも、あなたはいいの? 一時間の休憩時間なんてあっという間だわ。少しは休みたいんじゃなくて?」

「まあ、それはそうですけど、こうなったらもう、どこまでも付き合いますよ。だって私たち、『友達』でしょう?」

「……」

 ふ、

 と、思わず息を漏らして笑ってしまうと、レベッカも同じように吐息で笑った。

 くすくすくすくす。二人して、顔を合わせて笑いあう。それさえなんだかおかしくて、箸が落ちるだけで笑えそうなくらいだった。


「ただいま……って、あれ? なんだか随分楽しそうね」

 しばらくして、やっとマダムが戻ってくる。

 わたくしはフードをかぶって立ち上がり、レベッカを振り向いた。彼女はまだ、表情に笑いの余韻を残している。

「ではねレベッカ。落ち着いたらまたくるわ」

「待っています」

 にっこり笑顔、顔の横で手を振られ、同じように手を振り返すのは初めてだった。少し恥ずかしい。

「お邪魔しました。また来ます」

 扉のところで立ち止まったままのマダムに一礼をして店を出た。

 友達、友達。

 休みの時間に、一緒にいてくれる、友達。

「……ふふ」

 一人でまた笑ってしまった。

 城まで戻る足取りは軽くって、まるで背中に羽根があるみたい。戻った途端に侍女長に泣きつかれても、胸はいっぱいで気恥ずかしさに満ちていた。


 わたくしの、初めての、外での友達。


 次外に出るときのために、侍女長たちには説明しておこう。こう何度も泣かせては、確かに寿命も縮めてしまう。そして実際そう言われた。

「王女殿下、何がそんなに楽しいのですか。この婆をこんなに泣かせて、それがそんなに楽しいことですか。老い先短い婆の寿命をこんなに縮めて面白いのでしょうか」

「いいえ侍女長。違うのよ。わたくし、今とても気分が良いの」

「婆は全く気分が良くありません」

「ごめんなさい。あとできちんと説明するから。今はもう少しこの余韻に浸らせてちょうだいな」

「はあ、はあ。では、後ほどきちんとお話いただきますからね。先日のことも、本日のことも、まとめてこの婆を納得させてくださるんでしょうね」

「ええ、きっとよ」

「では、お待ちしております」

 そう言って、ぐずる鼻と真っ赤な目をこすりながら、侍女長が部屋を出て行った。


 このあと、侍女たちと乳母に説明をして協力を得るのは相当な労力を要することになるのだけれど、それさえわたくしにとっては良い刺激とも言えるのだった。

 部屋から見上げる空の色が、こんなに美しく思われたのは初めてだから。それを思えば、なんだってできる気がした。


 そうでしょう? わたくしの初めてのお友達。


    四

「レベッカ、これは何?」

「レコードですね。この円盤に音楽が収録されていて、専用の機械で回すと音楽が聴けます。お家ないんですか? ありそうなのに」

「音楽が聴きたい時は宮廷楽師がいつでも演奏してくれるわ」

「ベ、ベリーロイヤル」


「レベッカ、あれは?」

「カメラです。この隣に売ってるフィルムを入れて、これに風景や人を焼きつけて撮影するものですね」

「肖像画とは違うの?」

「肖像画よりは断然早いし楽です。でもフィルム買うにも写真を現像するにもお金かかりますけどね。もっと安価で使い捨てのものとかもありますよ」

「フゥン、そうなの」


「それは?」

「あら、あれなんかは?」


 ……

 バザールのあちこちを、レベッカに説明してもらいながら練り歩く。バザールは今日も賑やかで、王都の活気は衰えることがないようだ。我が国のことながら誇らかしい。

 レベッカは、わたくしの様々な質問にきちんと答えてくれた。見たことがない食材や、果物や、雑貨、いろいろなもの、目新しくて仕方ないから、ひっきりなしに問いかけるのに、少しも嫌な顔をしないでくれる。時々答えにくそうにしたり言葉に迷ったりはするけれど、「もうやめて」とは絶対に言わなかった。その優しさに甘えながら、ほとんど一軒一軒に見つけられる未知なるものを次々と彼女に尋ねる。

 そうして多くのお店を冷やかすのは申し訳ないけど楽しくて、城に戻ったら使用人を使わせて買おうとか、侍女たちにプレゼントするのもいいかもしれないとか、夢はどんどん広がっていく。まるできらめくようなそれぞれは、胸を高鳴らせるにじゅうぶんなものだった。


「大丈夫ですか。疲れてしませんか?」

「とても楽しいわ」

「なら良かったです。お腹が空いていたりは?」

「お昼をきちんと食べてきたから大丈夫よ。むしろレベッカの方がお腹空いているんじゃない?」

「実は結構。あそこのクレープ買ってもいいですか?」

「クレープ?」

「薄い生地で主に果物や甘いソース、生クリームとかを包んで出すお菓子みたいなものです。最近はお惣菜系のものも包んで売ってるんですよ」

「まあ! わたくしも食べてみたいわ!」

 いいですよ、とレベッカが笑って、お目当てのお店へとわたくしのことを連れて行ってくれる。お店は近づくだけで独特の甘い香りが漂って、それを嗅ぐと昼食を食べたはずのお腹が刺激されるようだった。お店の方から渡されたメニューを、レベッカが渡してくれる。一覧にされたメニューの数は多くて、レベッカの言うとおり甘いものからしょっぱいものまで取り揃えられていた。なんだかこんなに多いと何を食べればいいのかわからなくなる。

「ドライカレークレープひとつと……決まりました?」

 殿下、とは呼べない代わりに、レベッカがわたくしに視線をくれた。

「ええと、そうね、オススメは?」

「一番人気のチョコバナナクレープなんて如何でしょう?」

「ええ、ではそれで」

 頷くと、お店の方も笑って頷き、手早く準備をしてくれた。それにお金を払おうと外套のポケットに手を入れてから、ハッとあることを思い出す。どっと汗が噴き出して、レベッカの腕を引いた。

「レ、レベッカ。どうしましょう。わたくし、お金を持っていないわ」

「大丈夫です。だと思いましたから」

「どうするの? お代を払わないと喰い逃げと言われて追われるんでしょう」

「喰い逃げはしませんよ。私が払うから大丈夫です」

「ま、まあ……、ごめんなさい、わたくしが軽率に食べたいなんて言ったから」

「いやいやいや、クレープってそんなに高くないですから。でん、いや、チョコバナナクレープなんて五百ジニーもしませんよ。むしろ私の方が高いです。ほら、六百二十ジニーする」

「でも……」

「大丈夫です」

 と、レベッカは言う。わたくしは途端に恥ずかしくなって、青ざめる気にもなって、しおしおとしぼむような心地さえして、結局レベッカに甘えることにした。レベッカはそんなわたくしを見て何が面白いのか笑っている。


「食べ終わったら、今日は終わりでいいですか? 休憩時間もそろそろ終わりそうなので」

 お店が備え付けた質素なテーブルにつきながら二人でクレープを食べていると、半分ほど食べたところでレベッカがそう言った。確かに、見せられた懐中時計は、もう半分以上も彼女の休憩が過ぎたことを示している。口の中のものを嚥下して、わたくしは深く頷いた。

「わかりました。次にはきちんとクレープのお金を持ってきますわ」

「じゃあまた一緒に食べましょう」

「ええ、ありがとう」

 微笑めばレベッカも微笑んでくれる。


 わたくしの友達は優しい。


    五

「最近外に行っているようだね」

 晩餐の席で、お父さまが急にそんなことを言った。わたくしはぎくりとして、ナイフとフォークを持つ手が止まってしまう。

「何のこと?」

「侍女長から聞いたよ。最近お前が城の外に出ているって」

(侍女長……!!)

 お父さまには絶対内緒ねって言ったのに!

 反論しようと口を開けて、それを閉じ、息を吐いてからシルバーを置いた。そばのお母さまがお父さまとわたくしを交互に見て心配している。

「出ています。黙っていてごめんなさい」

「外は危ないと昔から言っていただろう」

「でも、ずっとお城に引きこもっていても将来のためにはならないわ」

「お前は将来のことなんて考えなくていいんだよ。万事私たちが良いようにするから」

「それではいけませんわ! だって、わたくしはこの国の王女です。国のことを何も知らない王女を、果たして民たちは良しとしてくれるでしょうか?」

「エレナ……」

 お父さまが、驚いたような顔をする。わたくしだって、将来のことを何も考えず、心配せずに生きることができたらそれはとても楽なことなんだろうと思うけれど、それではいけないのだ。将来わたくしはこの上のトップに立つ。王となるのはわたくしの伴侶とはいえ、わたくしだってそこに並び立つ存在なのだ。実際に政に関わらなくとも、それを見る目は養わなけばならない。将来の夫が道を過ちかけた時に、それを止められなくて、何が妻だ、何が王族だ。わたくしたちは民を守らなければならないのに。


「この国の王女として、そしてこの国の民として、国のあり方、民たちのことはよく見定めなければなりません。お父さまが玉座から動けず、お母さまのお身体が悪いのであれば、市井の者たちの事情を知るにはわたくししかおりません。それに、危ないことばかりではありませんわ。お友達ができましたもの」

「友達? お前に?」

「ええ、とても面白くて、優しい人ですわ。わたくし、そのお友達がいるから安全に街のことを見て回れるんですの。だから悪いことばかりではないのよ」

「…………」

 お父さまが、わたくしと同じようにシルバーを置く。

 そしてグラスに手を伸ばして、そこにもうぶどう酒が入っていないことに気づいた。傾けていたグラスをテーブルに戻す。おかわりを注ごうとした使用人を、片手で止めた。

「そのお友達の名前は?」

「レベッカよ。街のお花屋さんでアルバイトをしているの」

「……。…………。もう、外に出るなと言っても聞かないんだろうな」

「もちろんよ」

 ふう。

 お父さまが息を吐いて、胸元のナフキンをテーブルに置いた。それと一緒に立ち上がり、食事はもう終わりらしい。

「好きにしなさい」

「ありがとう」

 わたくしがにこりと笑うと、お父さまも困ったように笑った。そして部屋を出て行く。

 お母さまが、困惑げな顔でわたくしを見た。

「……大丈夫なの?」

「大丈夫よ。お母さまも心配なさらないで」

「そう。ならいいんだけれど」

 二人して、まったく心配性なんだから。

 苦笑して、最後の一口を口に放った。シェフの料理は毎日美味しいけれど、あのクレープもなかなか美味しかった。お父さまは食べたことがあるかしら?


    六

「あら?」

 今日は雨。

 しっかり着込んだ外套に手袋をしてもまだ寒く、頭上からは傘を叩く雨の音がポロンポロンとピアノに似ている。

 バザールは今日は悪天候につきお休みのようで、いつもは賑わうその道に少し寂しくなりながらレベッカと歩いている時だった。

 前方から、傘もささずに雨よけの外套をすっぽりとかぶった数人が、足並み揃えてゾロゾロとやってくる。どうやら街の外から来たようだが、全員が全員背負ったカバンをパンパンに膨らませて、一体その中に何が入っているのだろうか。傍で雑貨屋のお店を窓から覗いていたレベッカの手を引いて、通り過ぎたそのひとたちを指で示した。

「ねえ、あの方々は何?」

「え?」とレベッカは瞬いて、わたくしの指し示す人々を目で追う。「ああ」とそのあとに頷いた。

「行商ですね。外のいろんな都市や町を回って、商品を集めたり売ったりするんですよ。多分これから貴族のお家にでも商売に行くんじゃないかな」

「外……、この町の、王都の外ということ?」

「そうですよ」

「…………」

 レベッカが頷いて、行商の方々は彼女のが言う通り貴族たちの多い居住区の方へと去って行った。

 そういえば、ずいぶん昔にお母さまの具合がよろしい時、一緒に旅の物売りの商品を見ていた記憶がある。あれも行商だったのかしら。キラキラとした宝石の付いた首飾りが欲しくってねだってみたけど、まだわたくしには早いとお母さまに言われたのをおぼろげながらも覚えている。

 わたくしは頬に手を当てて、今しがた行商の方々がやってきた方向を見つめた。

「ねえ、レベッカ」

「はい?」

「わたくし、外へ行ってみたいわ」

「ここ外ですよ」

「違うわよ。町の外よ。王都の外」

「…………」

 ええっ!?

 一拍置いて、器用にその場で飛び上がった。

 レベッカはどこか間が抜けている。


「で、殿下、戻りましょうよお。外は危険ですってばあ」

 情けない声を聞かずわたくしは先を行った。腰の引けるらしいレベッカが何度も戻ろう戻ろうと声をかけてくるけれど、足はどんどん前へと進んだ。

「あら、大丈夫よ。先ほどの方たちだって、外から来たんでしょう?」

「それは道すがら傭兵を雇ったりしてるからですよ!」

「ちょっとだけだから大丈夫。すぐ戻るわ」

「そんなこと言って! 外に出たら楽しくなっちゃうのが目に見えてるじゃないですか! あー! 私の休憩時間終わる! 終わるから戻りましょう!?」

「何を言っているの。さっき出てきたばかりじゃない」

「危ないんですってば!」

「大丈夫よ!」

 何を根拠に!?、と、もういっそ悲鳴みたいな声で言う。根拠はないが、大丈夫なものは大丈夫だと信じている。なんだかんだ言いながらレベッカもついてきてくれているし、本当に少し外に出るだけだ。別の町に行きたいなんていうわがままは言わない。

 王都の入り口が見えてところで、ぐっと手を引かれた。

「殿下、本当。真面目に、戻りましょう。外はダメです」

「大丈夫よ」

「外には盗賊だっているかもしれないし、獣だって出るんですよ」

「逃げるわ」

「私では殿下のことを守れません」

「自分の身はどうにかする」

「……、…………。………………」

 大きなため息。

 わたくしは振り向いて、レベッカのことを見つめた。ヒールを履いているわたくしでは、レベッカを見下ろす形になるけれど、これを脱げばほとんど変わらないだろう。レベッカはいつだって踵がペタンコの靴を履いている。

「……近くの防風林までですよ」

「ありがとう!」

 満面の笑みを浮かべると、レベッカはますます息を吐いて眉を下げた。仕方がないと、彼女も諦めてくれたんだろう。

 そんな彼女の手をとって、わたくし達は町の入り口を出て行く。


「わあ……」

 近くの防風林まで、と、レベッカに案内されたそこは、冬の季節に葉を落とし裸の木肌を見せているけれど、とても清々しい空気に満ちていた。これが春の芽吹きによって若葉が萌えたなら、とても壮観な光景に違いない。想像するだけでワクワクしたし、その光景も見たいと思った。

「ここは何? あなたのお気に入りの場所?」

「そう……ですね。そうなるかもしれません。ここ、魔力が満ちてるので魔法使いからしてみたらパワースポットなんです」

「レベッカは魔法が使えるの?」

「ええまあ」

「まあ、すごい! 素敵! 見せてもらえる?」

「いやー、私へっぽこ魔法使いなんで、殿下に見せられるほどの腕前じゃないですよ」

 ははは、とレベッカが笑った。謙遜にしては明るかったが、食いさがるのを断固拒否する姿勢が見られて、わたくしはそれに従った。

 わたくしは魔法が使えない。お父さまは少し使えるようだけれど、今はもうほとんどその姿を見ていないから、使えるということもなんだか夢のように思われた。絵本に出てくる魔法使いは幼心にも格好がよくて、小さな時はなりたいなりたいとよく叫んだものだ。そして両親を困らせた。

 けれど今は、純粋に「すごい」と思えた。魔法が使える。その素養がある。魔力は先天的なものだから、後付けでどうにかなるものではない。選ばれた存在のようなものなのだ。心から敬意を払う。

 雨は止む気配もなくポロンポロンと鍵盤を弾いていた。

「でも、魔法が使えるってすごいことだわ。素養のない人は、皆どこかしらに魔法への憧れがある。『もしも自分が使えたら』『魔法を簡単に使うことができたなら』……。だから、あなたのそれも、腕前はどうあれ、魔法を使えることを誇るべきよ」

「……そうでしょうか」

「そうよ。魔法の素質は神さまからのプレゼントだわ」

「……神さま……、」

 と、レベッカは、なぜか少し暗くなる。

 わたくし妙なことを言ったかしら? 彼女をむしろ励まそうとしたはずなのに。

 不安になって、手を握った。両手で持っていた傘を片手で持つと、少し傾いて水が落ちる。そういえば、自分で傘をさすのって初めてだわ。レベッカといると、様々な「初めて」に出会える。

「神さまがあなたを愛してくれたのよ」

「…………」

 彼女の、暗い色の目が、わたくしを見つめた。それをじっと見つめ返すと、ややあって、困ったように閉ざされる。

「そうですね」

 しばらくしてから白い吐息でそう言った。

 ええ、と大きく頷いて、にっこりと笑う。

「わたくしはあなたが羨ましいわ。だって、あなたは昔わたくしが夢見た魔法使いなんだもの。魔法少女?」

「少女という年齢でもないですが」

「魔法女?」

「急にパンチが強くないましたね」

 ふふ、と笑う。彼女も笑う。

「そろそろ戻りましょう」、とレベッカが言った。わたくしもそれに頷いて、手を握ったまま、二人で防風林を後にした。

 ……が。


 手を握るレベッカの力が一瞬ぎくりとこわばった。立ち止まった身体に肩がぶつかり、水滴を落としながら傘をあげて前を見る。そしてぎくりと、わたくしまで同じく手がこわばった。

 朱色の肉体の大きな、まるでイノシシのようなものがぎょろりとわたくし達を見ていて、洞窟のような鼻から真っ白い息が煙のように吐き出されている。

「ベ、」

 ベ?

「ベヒモスッ!」

 ガツン、と、握っていた傘が地を跳ねた。


    七

「な、ど、ど、どういうことですのっ!?」

「知りません! 私が聞きたいぐらいです!」

「ベヒモスとはあのベヒモスですかっ!? 聖書に出てくる怪物だわ!? それにあれは湿原に住むとわたくしは本で読みました! それがなぜこんなところにっ!」

「私だって聞きたいですよ!!」

 二度目の叫び、手を引く足が速い速い。わたくしのヒールでは、雨でぬかるんだ地面を蹴るのにいささか手間取る。まろびそうになるのを何度も堪えた。二人して、傘は投げ捨て走っている。

 後ろから、怪物の大きな鳴き声が聞こえた。

「ヒッ! レ、レベッカ! あなたの魔法でどうにかできませんのっ!?」

「だからっ私の魔法はっ、へっぽこなんですって、ば!」

 グイ、と急に手を引かれる。それに「きゃあ!」と本気で転びそうになりながら引っ張られると、今しがた自分が走っていたところを怪物が突撃して抜けていった。体当たりだ。あんなもの、まともに受けたら死んでしまう。

 空中を突撃してたたらを踏んだ巨大な身体が、ぐるりとまたこちらを向いた。ギョロギョロといく目玉が、わたくしたちを「獲物」として捉えている。

 逃げるといっても、どうやって!?

 これを振り切れるとは思わないし、王都にこれを招くのもいけない。 そうであれば、ここで倒すしかないだろうに、わたくしは武器も何も持っていないし、レベッカだって同じだ。魔法だって彼女がそう言うのなら。

 どうするというの、どうするというの!

 わたくしたち、あれに食べられてしまうの!?

「殿下!」

「は、はいっ!」

「私があれを引きつけますからっ! その隙に殿下は逃げてくださいっ!」

「はいっ、……えっ、えっ!? 引きつけるって、どうやってっ!?」

「こうやって!!」と、レベッカが勢い良く振り返り、


「敵を穿つは無数の楔! アイス・レイン!!」


 ドドドドドッ!

 空中から、それこそ無数の氷柱がベヒモスへ一直線に落下した。咆哮が響き渡り、それが地響きを連れてくる。手を離されて、背を押された。

「殿下、早くっ!」

「でもっ!」

「ここで殿下にお怪我をさせるわけにはいきませんっ! 王都へ逃げて、できれば応援の衛兵さんたちでも呼んできてください!!」

「大丈夫なの!?」

「なんとかします!」

 だから早く!!

 レベッカがもう次の詠唱に入る。無数の氷柱に刺されたベヒモスは、その破片を背負いながら、よく見ると背に何本かの剣も突き立てられていた。それがあのベヒモスを狂わせているのだろうか? ベヒモスは湿原に住む比較的温厚な怪物で、こんな人里近くまでいるのも珍しければ、人を襲うなんていうのもありえない。

 い、いったいわたくしはどうすれば。ここでレベッカを置いていくのが本当に正しいの!?

「殿下!!」

 怒鳴りつけられ、わたくしの身体がびくりと跳ねる。泥の地面をなんとか蹴って、急いで王都へ向けて走った。ここからそう距離はない。一分でも、一秒でも一瞬でも早く王都へ戻って、応援を呼んでこなければ!


「! ネ、ネロッ!」

 王城へ戻って途端、誰かの身体にドンッと当たった。後ろにたたらを踏み、打った鼻をおさえながら顔を上げると、宮廷魔術師がそこにいる。名前を呼ぶと、ネロは一瞬怪訝な顔をした。格好が格好だから、まず一目ではわからなかったのだろう。わたくしがフードを外すと、「姫さまっ!?」と驚いたような声を上げ、急いで礼をとる。

「失礼いたしました。お姿がお姿とはいえ無礼を働き……」

「そんなことは良いのですっ! そんなことより今すぐ助けてっ! ベヒモスがっ! わたくしの友達が囮になっているのっ!」

「姫さま、落ち着いてください、いったいどういうことなのです」

「外にベヒモスが現れて、わたくしの友達が囮になっているのです! すぐに応援を派遣してください!」

「友達……? 失礼ですが、いったいどなたが……」

「レベッカよ! 三番通りの三本の樅という花屋でアルバイトをしている、わたくしの友達で、この王都の民ですっ!! いいからはやくっ!」

 レベッカ、と、その唇が囁いた。わたくしはそれに取り合わず、今すぐ兵を呼べとネロに命令するのだが、彼はそれに従うよりもはやく、肩口のマントを胸元に寄せた。わたくしの身体をうやうやしくも傍に追いやり、さっと大股で行ってしまう。

「ネロッ!?」

「私が行きます」

「え!?」

 ツカツカツカツカ、その足の速いこと! わけがわからずその背を追うと、わたくしの踵は天井の高いホールにキィンと響いた。

「どういうことですの!」

「言葉のとおりです。私が行きます。もちろん、衛兵の応援も願います」失礼、と彼は王城の門番へと声をかける。そしてその言葉どおり、事情を説明すると今すぐ動ける兵士を一個小隊かき集め、すぐに王都の外へ向かうようにと指示を出した。門番はサッと敬礼を取り、すぐその準備へと移る。ネロはそれすら見送らず、城の門をくぐってしまう。

「待って、ネロ!」

「姫さまはお部屋でお待ちください。危険です」

「そ、それはそうですけどっ! わたくしの友達が大変な目に遭っているのよ、これでわたくしが休むわけにはいきません!」

「ご友人が囮になって姫さまがここにいらっしゃるということは、姫さまは逃げるようにと言われたんでしょう。なら、姫さまは戻るべきではありません。お部屋で安全を確保してくださることが、そのご友人も、私も安心できます」

「で、でもっ!」

「姫さま」

 くるり。前を行っていたネロが振り返り、わたくしのことをその翡翠の双眸で見下ろす。瞳孔に淡い金の虹彩が入っているのだと、場違いにそこで気づいた。美しい。彼は彼を形成するあらゆるものに恵まれて美しかった。

「姫さま。どうかお願い申し上げます。お部屋でお待ちください。きっとご友人も助けてみせますから」

「……!……」

 そう言われると、それ以上のことは言えなくなる。むぐうとわたくしが押し黙るのを、是と捉えたネロはそのまま行ってしまった。その背中を見つめながら、そして準備の整った兵士たちがガチャガチャと鎧を鳴らせて通り過ぎるのを見つめながら、歯がゆい思いに唇を噛み締めた。


 部屋の中を行きつ戻りつウロウロとする。着替えは済ませたが、椅子に座っていられるほどの落ち着きはなく、また少しの時間でも仮眠が取れるほどの余裕もなかった。

 部屋の中をウロウロするわたくしに向けて、掃除やなんかをしてくれていた侍女が

「動物園の熊じゃないんですから」

 と呆れたような声を出したが、わたくしは動物園になど行ったことがないのでわからなかった。

 やはりわたくしも行くべきだった? けれど、足手まといなのは事実だ。多少魔法が使えると言ったレベッカでさえ手こずっていたのだから、武の心得のないわたくしが行ったところでどうもならない。それはわかっているが、わかっているが。

(しかしだからと言って、おとなしくしていられないわっ!)

 ぐっと手を握り、せめてと部屋を出ようとしたところ、

「殿下」

「っわ、侍女長!?」

「陛下がお呼びです。謁見の間までどうぞ」

「お父さまが……?」

 いったい何なのだろう。今しがた気合いを入れ直したばかりだというのに。

 出鼻をくじかれたような思いをしながら、ここでお父さまのことを蹴る訳にもいかないので、顔を見せるだけのつもりでわたくしは謁見の間へと向かった。


「お父さま、エレナです……」

「ん、ああ、来たか。こちらにおいで」

 手招く父に、はい、と答えようとしたところで、玉座に向けて跪き、首を垂れる二つの影に気がついた。どちらも覚えのある背中をしていて、それを見るなりわたくしは喜んだ。

「ま、まあ! レベッカ! それにネロもっ! 無事だったのですね!」

 よかった!と、手を叩いて笑う。レベッカもネロも、お父さまも何も言わず、謁見の間はしんとしていた。

 ……何なのかしら?

 てっきり、この二人がいるということは、その生存と、わたくしを守ってくれたことをお父さまが褒めるのだと思っていたのに……。なんだか室内は薄暗く重たい空気に満ちているように思われた。いったいなんだというのだろう。

「エレナ。こちらに来なさい」

「は、はい、お父さま」

 早口に頷いて、急いでお父さまの傍まで寄った。玉座からは、頭を下げたままの二人がなんだか小さく見えている。特にレベッカは、震えているようにさえ思われた。国王への謁見に一般市民がひれ伏している? ああでも何か、違うような気もする……

 お父さまが、ゴホンと咳払いをして仕切り直すようにすると、レベッカへと声をかけた。

「もう一度言う。君は、我が娘をかどわかしたわけではないのだろうね。レベッカ・ミシェル」

「っな、いったい何を!?」

 というかミシェルですって!?

 

 ミシェルと言えば、この国でも古い血を伝える中堅どころの貴族家だ。昔は王宮ともやりとりがあったのだが、当時の当主とその妻が相次いで亡くなり、今では落ちぶれて当主も空位となって長いと聞く。そのミシェル家がレベッカの家ということ!?

 驚いてお父さまを見ると、そんなわたくしを一瞥して、お父さまは深い息を吐き出された。

「……。家のことはエレナにも黙っていたか。本当にかどわかしたのではないのだろうね」

「陛下、決して、決してそのようなことは……」

 レベッカの声が震えている。身体を支える両手が、ガクガクと震えているのがここからでもよく見えた。

 それでもお父さまは声色を和らげない。

「ないと言えるのかね? 本当に? 君の家は落ちぶれて久しい。それに、まだ幼い妹もいるのだろう。ここで王女を使ってお家復興でもしようと企んだのではないのかね」

「お父さまっ!」

「エレナは黙っていなさい」

「黙ってなんかいられないわ! そんなこと、まるで名誉毀損じゃないっ! レベッカはわたくしの友達です! ミシェルの家を出さなかったことがあの子にそんな思惑がないことの証明ではありませんかっ!」

「本当にそうかな? お前を人質にとり、私に名を打ち明けてから、家の復興と引き換えにする。そういう手段だってあるんだよ」

「バカなっ!」

 バカな、バカなっ! そんなはずがない! だってわたくしたちは友達なのよ、わたくしの初めての友達なのよっ! そんな、そんな……

「……全く、考えなかったと言ったら、嘘になるかもしれません」

 目の前から血の気が引いた。


「考えなかったと言ったら嘘になるかもしれません。少なからず、どこかしらには、私の中には王家に対する怒りのようなものがあります。陛下のおっしゃるとおり、現在私の家は落ちぶれて久しくあり、妹の養育にも手一杯で、社交界への参加すらできません。家の維持をするのでせいいっぱいで、貴族の遊びも何一つできなけば、お金がないのでアルバイトをせずには暮らせません。働いて、働いて、やっとその日生きていけるというところまで落ちぶれています」

「なら……」

「しかし、しかし! 殿下を巻き込もうとは思っていません! 確かに最初、出会って数回のうちは、どう殿下を説得して陛下へ現状をお伝えし、助力を請えないかとも思いました。けれど、殿下と恐れ多くも親しくさせていただくうちに、そのような思いもなくなりました。殿下はあまりにも清廉で、美しく、何の泥にも染まっていない。そんな方に、どうして私の呪いのような言葉を聞かせられるでしょう。家の復興は確かに私の望むところです。しかしそれは、殿下や陛下の手ずからではなく、ミシェルの家の人間がするべきものです! そうでなければ意味がない!」

「…………。……………………」

 震える手、握り直して、正気を保つ。

 一語一句をしっかり言葉にしたレベッカは、言い終えるとほんの少し息を乱した。

 隣のネロが、「お言葉ですが」、と低い声で言う。

「恐れながら、陛下。私は個人的に彼女と接する機会が多く、それなりに親しいと思います。姫さまが出会う前よりこの娘のことを知っていますが、復興の野心は強くあっても、そこに姫さまや陛下を巻き込もうとは考えておりません。今回の事でも、彼女はまず第一に姫さまの御身を優先すべきと自分の身を投げ打って庇ったのです。陛下の懸念ももっともですが、そこまで深く考えていないのがこの娘です」

「ちょ、ちょっと、それどーいうことよっ!」と、小声でレベッカがネロに食ってかかった。ネロの言葉どおり、親しくあるんだろう。彼女の緊張をほぐすための言葉だったのかしれない。

 お父さまがううんと唸った。わたくしは、唇に微笑みを灯して、お父さまへ語りかける。

「お父さま、ネロもああ言っていますし、本人もまた、否定しておりますわ。それに、わたくし自身、お家復興について彼女から言われたことはございません。それは、彼女の言うとおりプライドによるものだったからだろうし、彼女が根っからの貴族だからです。それに、」

 それに、わたくしたち、友達だもの。…………

 お父さまが、また一つ、ううんと唸った。


    八

「ぷっは、」

 それから二つ三つ問答を経て、やっとお父さまはレベッカがわたくしを利用したのではないということをご理解くださった。お父さまが疑ったことを申し訳ないと謝るとレベッカは恐ろしく動揺し、「陛下に頭を下げられるだなんて私が不敬罪で処されます」とオロオロと早口にまくし立てて首を振った。

 何はともあれ無事に解決し、ベヒモスもどうやら撃退することができたらしい。さすがは我が宮廷魔術師、そして我が精鋭の兵士たち。

 あちこち泥だらけのレベッカは、引きつけて逃げている途中に何度も転んだかららしい。服を貸そうかと言ったのに、彼女はまた大げさなほど首を振ってそれを辞退した。わたくしの好意を無駄にすることこそ不敬罪に当たりそうなものを、彼女はよくわかっていないらしい。

「お店に早く戻らなくちゃ……休憩時間を、ヒ、ヒエ、二時間もオーバーしている……」

「わたくしも一緒に行きましょうか? 事情を説明しなければ」

「そ、そんなことさせられませんよっ! マダムも鬼じゃないですから、なんとかなるはずです。あと私有給がっつり残ってるんで、何ならそれ使いますから」

「そうなの?」

「そうです」

「フゥン」

 そういえば二人して傘をどこかへやってしまっている。まあいいか。空を見上げると厚い雲間に銀色の太陽の光が見えた。

 頭からずぶ濡れになっているレベッカは、本当に泥まみれになってしまっていて、これはやっぱり、お湯だけでも勧めるべきだろうかと迷っていると、隣に大きな人の気配がやってくる。見上げるとネロが隣まで来ていた。

「レベッカ。君は、またアルバイトか」

「えーえそうよ、花屋に戻って、夕方からはいつものとおり居酒屋に」

「そろそろ一本に絞ったらどうだ。裕福ではないといえ、そう数年もアルバイトを続けていれば、少しくらい余裕も出てきただろう」

「私はこの生活が気に入ってるの。宮廷魔術師さまにテコいれされる問題じゃないわ」

 それはそうだが思いやられる。

 そんなネロの声が聞こえた気がして、わたくしは首を傾げた。

「アルバイトは花屋だけじゃないの?」

「はい。早朝の新聞配達、朝のビル清掃、昼の花屋に、夜の居酒屋の四本立てです」

「ま、まあ! そんなにアルバイトをしていたの!? 身体は大丈夫なの?」

「獣並みの回復力が自慢なのです」

 フンム、と、力拳を作って見たレベッカの腕は、申し訳ないが頼りなく細いばかりだ。とてもそんな四連続のアルバイト生活を送っている人とは思えない。というか、アルバイトは花屋だけだと思っていたのに、まさかそんな早朝から働き出していたなんて驚きだ。そんな生活で身体を壊さないかが心配になる。

「でも、ネロの言うとおりどれか一本に絞るべきではないの? そんなんじゃあ、まともな休息もとれないでしょう」

「なんとかやれているから大丈夫です」

「妹さんだって心配するわ」

「そ、それを言われると……」

 むぐう、と今度はだまりこむ。どうやら妹へは少なからず申し訳なさがあるらしい。それはそうだ、早朝から夜遅くまで働いていたら、家族との時間なんて少しも取れない。それにまだ幼いらしいから、妹の方だってきっと彼女とのコミュニケーションを少なからず望んでいるだろう。仮に自分が妹の立場だったら、そんなに働かないで、と思うに決まってる。

 わたくしは、妹を切り口に言ってみた。

「ねえ、本当に、そんな生活では身体が心配だし、妹さんだって寂しいと思うわ。だからせめて、もう少しアルバイトを減らしなさいな」

「そ、そう言われても……お金は多いに越したことはありませんし……」

「それなら」と、わたくしが言う。

「あなた、友人というコネを使ってわたくしの家庭教師になればいいのよ」

「…………………………」


 はあ?


 レベッカが、間抜けな顔を晒してそんな声をあげていた。

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