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落ちぶれ貴族の言うことには

一、落ちぶれ貴族の言うことには


    一

 私の名前はレベッカ・ミシェル。王国の貴族院に名を連ねる貴族家ミシェル家の長女として生まれて二十一年が経っている。

 そんな私は、今ーー


「レベッカ! 五番テーブルのつまみ上がった!」

「はい!」

「お姉ちゃん、追加でレモンサワーと手羽先!」

「かしこまりました!」

「お会計お願いしまーす」

「ただいま参ります!」


 ーー今、アルバイトの真っ最中である。


 我がミシェル家はこのオーエンツハイド王国の貴族院に名を連ねる貴族家のひとつである。貴族の中でも由緒正しく古くから脈々と続いた血は王国でも中堅どころとして確固たる地位を築いており、そこに長女として生まれた私は蝶よ花よと育てられ深窓の令嬢よろしくたおやかに育ち将来の婿の心配だけをしていれば良い、衣食住に困らぬ裕福な生活を送る……かに思われた。

 だが悲しいかな、我がミシェル家は現在「落ちぶれ貴族」として王国からも他貴族からも扱われている。

 現状を説明しよう。


 先ほども言ったが私は二十一年前にミシェル家に生を受けた長女である。家族構成は父母に七つ違いの妹ベティ、つまり典型的な核家族である。だが典型的な核家族とちょっと違うのは、父母両方既に亡くなっているというところだろうか。

 母はベティを産んでから三ヶ月後に病で、父は六年前に事故で死んだ。私が十五歳、ベティが八歳の時の話である。

 生憎父母には遺産と呼べるものがなかったので、親を喪った私たちは暫く祖父の遺産でどうにか生活していたのだけれども、亡くなってから数ヶ月後に発覚した父の借金によりそのなけなしの遺産も取り上げられ、まだ足りんとばかりにあの家具もその家具も差し押さえ差し押さえ差し押さえ。なんとか家だけは守ってがらんどうの屋敷に二人だけが取り残された。

 生きるためには働くしかなかった。

 十五歳にして庇護者を喪い、自分で稼いで食べていくしか他はなかった。なによりベティはまだ幼い。これまでだって母親代わりのようなことはしてきたけれど、今後は母親「代わり」ではなく、「母親」にならなければならないのだ。私たちには親戚がいない。

 日々の生活費、屋敷の維持費、そしてベティや私の進学費用にはどうしても働いてお金を捻出しなければならず、「貴族」とは名ばかりの貧乏生活が始まった。それでもベティにだけはジリ貧さを味わわせたくなくて、ベティの食事や衣服、身辺を整えるための必要経費にはケチらずお金を使って不自由さを必死で隠した。


 早朝の新聞配達、朝のビル清掃、昼の花屋、夜の居酒屋。


 アルバイト四本立て、合間合間に内職でまたお金を稼いで、日々は矢のように過ぎていく。私が私のために使うお金も時間も必要最低限以下に留めていた。まずはベティを優先し、自分のことは後回し。それが私の意地だった。


 そうしてその日暮らしのような一日をひとつひとつ積み上げていくと、自然夢は広がっていく。

 新聞配達をしている最中にも、清掃の雑巾がけをしている時にも、花屋でオーダーのブーケを作っている隙にも、居酒屋であっちこっち駆け回るその合間にも。

 まるで夢は走馬灯のようにかけていく。


 将来は、絶対裕福になってやろう。

 もうお金に困らなくていい生活をしてやろう。

 ベティに思いっきり可愛いドレスをプレゼントしたい。

 自分のことにも今まで構えなかった分盛大にお金を使って贅沢したい。

 明日のことに困らなくていい生活を、誰にも意地を張らなくていい生活を、ゆったりのんびりとした時間を過ごせる生活を。

 できますように。

 いやするのだ。

 私がそれを、現実にするのだ。

 夢と言ってはあまりに遠すぎる。これは願望だ。願うなら手を伸ばして掴まなければ。そうすれば、私たちはきっとそれを現実のものにできるから。


 幸い私には魔力というのが備わっていた。物を浮かしたり動かしたりすることができるアレだ。早朝の新聞配達で折り込みチラシが間に合わないとちょちょっとイカサマをしたりしているコレだ。

 無論使わない手はあるまい。お家復興や生活のために貴族の坊ちゃんを籠絡するよりずっと簡単な手段だ。

 今はこんなアルバイトまみれの生活だけど、いずれ落ち着けば王国の魔法兵団に志願して……いや、もっと大きくいこう。

 そう、私はこの国の魔法使いの誉れである宮廷魔術師となって大活躍し、王からも民からもその能力を請われ、渇望され、人気大絶頂のところで同じく宮廷魔術師の誰かと大恋愛の末結婚し寿退社、その将来を惜しまれながら城を離れ、純血の魔法使いを生むとともに安定した生活とお金を得てお家復興に勤しみ、我がミシェル家を「落ちぶれ貴族」と揶揄し軽んじたこの国と他貴族家に対して最大の復讐をするのである!


 アッハハハハハハ! なんたる完璧な将来設計! 我ながら惚れ惚れするような絶景である!

 そのためにはまず進学した高等学校で魔力適性A以上を獲得し、お墨付きを貰わなければ……

 

 だがしかし、神は更なる試練を私に課せられた。


「レベッカ・ミシェル、魔力適性C!」


 っなんたる屈辱!

 なんたる汚辱っ!!

 私はバンと机を叩き、入学したての高等学校で魔法学を教えている教師に詰め寄った。

「それはなにかの間違いです、ミス・バレッタ!」

「なにが間違いだというのですか、ミス・ミシェル」

「私の魔力適性がCであるはずがありません! だってそうでしょう、そんな、Cって……」

 すなわち、「一般人よりちょっと魔法が使える」程度のことである。


 そんな馬鹿なっ! 私は信じない! 信じてなるものか!


 しかしミス・バレッタの無表情は崩れない。鉄壁か。鉄仮面か。


「この測定に間違いはありません。あなたの魔力適性はC。それ以上でも以下でもありません。おわかりいただけましたら、どうぞ横へ避けていただけますか? 後ろが詰まっておりますので」

「ミ、ミス・バレッタ!」

「次! 前へ出なさい!」

「ミス・バレッタ~~!」

 あーん! と大声を上げて泣いても、十五の歳になれば恥ずかしいだけで誰も慰めちゃくれない。

 私の未来は絶たれた。

 絶望しかない。


「レベッカ! これ八番テーブルに!」

「かしこまりましたーっ!」

 ……そんなこんなで今に至る。

 説明おわり。


「はい、お疲れさま。レベッカ上がっていいわよ」

「お疲れさまでした」

 頭を下げて、今日の仕事は終了である。時刻は午前一時を回っていて、店を出ればしんとした街並みが藍色の夜空に濡れて出迎える。

「ふう」

 十五歳の頃から始まったこのアルバイト生活も、節々でアルバイト先を変えたり辞めたりして今の四本立てを完成していた。慣れたと言えば慣れたが、こうしてひとり夜闇の中歩いていると、なんだか不安な気持ちにもなるものだ。

(私は何をしているのだろう?)

(家まであと三十分、帰ったらすぐにシャワーを浴びて寝なければ)

(宮廷魔術師への道は断たれて久しい)

(新聞配達は四時からだから、三時間眠れるか眠れないかというところ)

(でもお金は稼がなくちゃ)

 …………。

 息をふっと針のように吹き出せば、冬の空にそれは白く膨張して消える。マフラーを口元まで引き上げて、ブンブン頭を横に振った。こういう気分の時は、思考まで底辺を這いそうになる。一人だからなおさら。


 別に今の生活に不満はない。

 嘘。

 ある。

 自分が宮廷魔術師になれなかったことは大いに不満だ。

 結局私は高等学校卒業に至るまで魔力適性はCから上に変わることはなかった。そりゃそうだ、魔力適性とは生まれ持ったものなので、後天的にどうにかなるというものでもない。魔法大学まで進んで意地を見せる手段もあったが、高等学校までと違って大学の学費はケタ違いになるのでやめた。これじゃあお金をドブに捨ててるのと変わらない。

 宮廷魔術師になってうんたらかんたらという願望は呆気なく敗れ去り、私はとぼとぼとアルバイト生活に戻るしかなかった。まだベティも十四歳だ。あの子に今のところ魔力の素質はないが不自由ない暮らしをさせてやりたい。将来がフリーターで決定してしまった私より、前途有望なベティのことを優先すべきだ。


 息を吐いて、顔を上げ……

「ぐえ」

「……ん、」

 なぜここに現れたネロ・ユングフラウーー!

 私は思いっきり窒息して、吸い込んだはずの息が肺の中で絡まった。


 ネロ・ユングフラウ。

 歳は知らない。だが年上だ。上背がある。宮廷魔術師の一人。

 長い赤髪と緑の目、色白な肌を持つ彼は、宮廷魔術師として王城に侍る史上最年少を叩き出した。魔法使いと魔法使いの間に生まれた純血で、噂によれば火魔法や水魔法という攻撃魔法に回復魔法とすべての属性に通じ、かつその能力はオールSランクを誇るというおっそろしい魔法使いだ。そして何よりその美貌から女性人気が圧倒的に高く、バレンタインなんぞは相当な数のチョコレートが王城に我先にと運びこまれるらしい。全部トントラックで。


「何でアンタこんなところに居るのよ」

「夜の散歩について君に許可を取らなければいけないのか」

 そりゃあそうだが癪にさわる。

 とは言えずに黙りこむ。

「君は今日もアルバイトか?」

「そうだけどそれが何?」

「いつも遅くまでご苦労なことだな」

なにその上から目線!

「だが女性がこんな時間に歩くのはいただけないと思う」

なにその急な意見!

「仕方ないじゃない、アルバイトの上がり時間がこの時間なんだから」

「居酒屋をやるにしてももっと別の時間とかあるだろう」

「午後五時からオープンのお店で実働七時間とるなら一時上がりしかないのよ。根っからの宮廷魔術師さまはご存じないでしょうが、ねっ!」

「ぅお……っ!?」

 フハハ油断大敵! 膝カックン!

 見事に引っかかった相手にベッと遠目からでもわかるように舌を出して、走ってその場を後にした。


「あら! ベティ! こんな時間にどうしたの?」

 薬屋の角を曲がって屋敷の扉を開けると、エントランスホールの脇にしつらえたソファーに私の可愛い妹が眠気まなこで座っていた。家具家電は差し押さえられた後、生活が落ち着いた頃を見計らって買い直し、私の趣味で揃えたそれは、最初の頃よりずっと質素で味気ない。だがそこがいいのだ。思い返せばもともとあった家具家電調度品といった数々は貴族趣味でやたらと豪勢だったから、差し押さえはある意味デトックスみたいなものだったのかもしれない。

 ベティは眠そうな目をやっぱり眠そうに擦りながら言った。

「ん~~。お姉ちゃん、帰ってくると思ったから、お風呂あっためなおしておいたの」

「まあ、ありがとう。でも、こんな時間まで起きているのは身体に悪いわ」

「お姉ちゃんだって起きて働いてるじゃない」

「成長期のあなたと私じゃ違うのよ。お風呂ありがとう、入ってくるからあなたはもう一度寝なさいな。明日も学校でしょう」

「うん」

 頷いて、ゆっくりとベティが立ち上がる。

 ああなんて可愛い私の妹! いじらしく健気で思いやりのある可愛い妹!

 打ち震えていると、ふとそこで思い出したようにベティが言った。

「あ、そうだ。あのね、最近夜になると不審者が出るんだって。お姉ちゃんも気をつけてね」

「ありがとう、気をつけるわ。おやすみ、ベティ」

「おやすみ、お姉ちゃん」

 私の妹が最高に可愛い。


    二

 魔力を込めて、指をひとつくるりと回す。

 そうすると、内職として承ったミサンガ作りの道具たちが、くるくるとひとりでに立ち上がり、回り始めて、あちこちでチクチクと針を縫っていく。それを背後にしながらお客さまの「ふんわり優しいテイストで」という実にふんわりとしたオーダーでもってとおされたとおりの花を選び、一本一本挿していった。

 ここは王都三番街の花屋、「三本の樅」。私のアルバイト先のひとつである。

「レベッカちゃん、終わった?」

「できました」

「わお、今日も傑作ね。ねえ、真剣にうち一本にしない?」

「お給金が今の倍になったら考えます」

「つれないわねー、もー」

 ぶう、と年甲斐もなく唇を突き出して、ここのマダムが私から「ふんわり優しいテイスト」で作り上げたブーケを受け取り、作業部屋から去っていく。

 今のところ受けているオーダーは今ので最後だ。ふうっと息を吐いて伸びをする。椅子の背もたれにぐったりと体重を寄せると、ギシリと軋んだ音を立てた。


「レベッカー、私配達してくるからー」

「はーい」

軋む椅子から立ち上がって、もう目標数にも達した頃かと「もの動かしの魔法」を解いてやる。そうすると、一緒にかけていた「浮遊魔法」も解けていって、宙をダンスしていたかぎ針や紐、ビーズたちがぱったりと作業台の上に倒れる。ブーケを作るために使っていた鉄鋏や作業中に出てしまったゴミをぱっぱと軽く片付けて、店頭に出るときには既にマダムは店の外でバイクのヘルメットをかぶっているところだった。足が速い。「三本の樅」とでかでか書かれたバックの商品入れに、先ほど私が作ったブーケと他幾つかの苗鉢やらカゴを入れて、ブルンとひとつアクセルを捻る。

「じゃ、頼んだわよ。一、二時間で戻れると思うから」

「いってらっしゃーい」

「いってきまーす」

 ブルン、ともう一度アクセルを捻って、樅の木号(私が勝手に名付けた)は一拍の間に行ってしまった。それを最後まで見送らず、私は壁に吊るされたジョウロを手に取る。店の外の脇にある水道の蛇口からいっぱいに水を貰って、今日も元気に花を咲かせた花壇へと注いでやった。やや後ろにある花に水をやろうと前の花をかき分けると、水を弾いた葉っぱからピンとそれが目に入る。なんだか笑えてしまって、くすくす笑いながら水をやっていた。

 そんなところへ、

「あ、レベッカ」

「まあ、ケビン」

 名前を呼ばれて振り向くと、ご近所の悪ガキがだいぶ色あせたランドセルを背負ってトコトコとやってきた。

「こんな時間にどうしたの。学校は?」

 ガラス窓越しに店内の時計を見れば、まだケビンのような年頃の子供は学業に勤しんでいる頃のはずだ。商店街をのこのこと歩いていていい時間ではない。

「今日は校長先生の誕生日だから、半日授業なんだぜ」

「あら……今の小学校にはそんな制度があるの。あとの半日お祝いとかではなくて?」

「うん、ちゃんとオツトメ果てしてきたんだぜ!」

「それはちょっと意味が違うかな……」

 へへん! と胸を張った子供がなんの影響を受けたのかは知らない。今やってる再放送は任侠ドラマだったかしら。

「で、そのオツトメご苦労なケビンくんはどうしたの」

「レベッカに会いに来たんだ!」

 魔法について教えて! 

 ……と、私の腰にやっと届くような背丈をした少年が満面の笑みで言うのだった。


    三

 魔法には小魔法・中魔法・大魔法と種類があって、それぞれ火、水、雷、土、風……といったように属性がある。私が使えるのはさっきまでミサンガを作るべくチクチクとひとりでに針を縫っていた基礎中の基礎「もの動かしの魔法」と、大きいものなら無理だが小さいものならできる「浮遊魔法」、あと小魔法の攻撃・回復魔法が少々と、中魔法ひとつだ。知識としてなら中魔法と大魔法、さらにその上をいく七つの古代魔法も知っているが、私の魔力の絶対数では扱うことができない。「一般人のよりちょっと魔法が使える」程度の力では、その威力もしれたことだ。


「……以上が大魔法の五つの魔法。魔法形態で言えばさらにその上に七つの古代魔法があるけど、扱えるのはほんの数人、大魔法使いくらいでもなければ手も届かない夢の魔法ね」

「ふーん……レベッカはそれ使えるのか?」

「あんた今の話聞いてた? もし私に古代魔法を扱えるだけの技量があれば、花屋のアルバイトやってないで宮廷勤めしてるわよ」

「でも物浮かせるし、動かせるじゃない」

「そんなの魔法の基礎中の基礎だわ。魔法の素養があれば誰にでもできるものだし、もしあんたに魔力の素養があればあんたにもできるわよ」

 フゥン、とそんな声、納得したのかしていないのか。

 作業部屋から持ってきた椅子に腰掛けて、レジ台に顎だけ載せたケビンは、まだ床につかない足を前後に揺らしながら私の説明を聞いていた。そして不意に指先を振ってみながら、

「浮け!」だの、「動け!」だの。

 言ってみるが、店内はしんとして何も浮かないし動かない。ついでにお客さまもこない。マダムもまだ帰ってこなさそうだ。

「俺、素養ないのかなあ」

「決め付けるには早いわね。だいたいにして魔力の顕現は十五歳前後だから、もうちょっと待ってみなさいな。ケビンは魔法使いになりたいの?」

「ううん、家の工場の仕事継ぐ」

「あら素敵。なら魔法使えなくてもいいじゃない」

「いやー、魔法使えたら工場ももっと楽になるんじゃないかなあって。まず不必要なコスト削減に役立つし工場員の負担軽減、それから……」

「あっちょっと待って思ったより真面目だったごめんなさい」

 小学生だと思って舐めてちゃいけない、すごい立派な将来設計を立てていた。私の「宮廷魔術師に私はなる!」よりよっぽどだ。本当に小学生なのだろうか。


 ケビンは大真面目に言った後の私の反応にきょとんとして見せたが特に追求する気はなさそうで、ブラブラと行き場なく彷徨わせていた両足をペタンと地面につけている。立ち上がるとランドセルの中身がごろりと音を立てて転がった。

「けど、何回聞いてもレベッカの説明はわかりやすいなあ。先生にでもなればいいのに」

「魔法の先生? そうねえ、教員はねー……仕事の割にお給金少ないから……。モンスターペアレントにでも当たったら最悪だし」

「もんすた?」

「厄介ごとがごめんなのは誰でも同じよね」

「フゥン?」

 とまた、納得してるんだかしていないんだか。わざとわからないような言葉を選んで言ったのだから当然か。教員免許を今から取ろうというのも骨が折れる。

「でも、いっつもアルバイトで忙しい毎日よりか、安定するんじゃない?」

 ……この子は本当に小学生なのだろうか。


 そんなところへ、遠くからバイクのエンジン音が聴こえてきたかと思うと、マダムが帰ってきた。

「あらケビン、いらっしゃい。二人でなんのお話をしていたの?」

「レベッカが転職する話」

「えっ」

「違いますマダム! ケビン適当なこと言わないの!」

「いって!」

 ゴスッと落としたげんこつが私も痛い。この石頭!

 ケビンは、げんこつの落ちたところを大げさに両手でかばいながら、

「またねー」

 と呑気に店を後にした。


「レベッカちゃん……転職するの?」

「誤解ですマダム……」


    四

 王都近くの防風林。一週間前に積もった雪が梢にまだ残っている。

 ここは魔法使いにとってのパワースポットのひとつで、清浄な空気の中に質の良い魔力が含まれているようだった。本当は春とか夏とか、木々の葉が生い茂ってるときのほうがいいのだけれど、冬でもじゅうぶん魔力が満ちている。

 深く息を吸う。

 深く息を吐く。

 その繰り返しで、肺の底から身体が綺麗になるようだし、魔力もみなぎってくるようだ。

 手のひらを差し伸べる。

「……其は怒れる炎の光の一部。弱くも強く、しなやかでいて激しく、凍るように燃える襞。具現せよーー火の十四番、アシェッドノーツ」

 ビリ、とが痛む。そして瞬きのあとには中くらいの火玉が手の上にちょこんとあらわれていた。

「うーん……やっぱりこの程度かあ」

 本当はもう少し大きくて、もう少しぼうぼうと燃えるものだけども。

(やっぱり素質ないのかなあ……)

 ーーと。眉を寄せていると、

「また魔法の特訓か?」

 こ、この声は!!

 ガバリと振り向く。ああやはり、声どおりの人物、赤毛緑目長身野郎、一瞬で身体に鳥肌がほとばしった。

「あああ、あ、ネロ・ユングフラウ! じゃないの奇遇ね、ごきげんよう、天下の宮廷魔術師さまがこんなところで何してるのかしらっ!?」

「今日は非番だ」

 誰も聞いてないし!

 このマイペース……と小さなわななきを感じていると、ネロ・ユングフラウが言った。葉を落とし、今は雪を微かにかぶった丸裸の木を見上げながらの一言だった。

「……確か、君と出会った時も、そうやって君が魔法の特訓をしていたんだったか」

(よく、)

 覚えている。

 そして忘れてほしい。つと大きな石が転がっているのが足元に見えて、これを振りかぶったなら記憶ごとなかったことにできるかと、割と本気で考えた。お別れはブロック(塀でドカンと一発ぶっ放す)で。


 ーー時は六年前に遡る。

 私が十五歳、魔法高等学校に進学し、そして最初の授業で「魔力適性C」と言い渡され最高に機嫌が悪くなっていた時の話だ。

 その時も今のようにアルバイトの間を縫ってこの防風林にやってきて、八つ当たりのように火玉を出している時だった。

「待ちたまえ」

 そんな声、きっと「玲瓏な」と表すに相応しいんだろう。知らない声がして、振り向くまで私は怒り心頭だったのに、振り向いたらそれを一瞬忘れてしまった。

 流れるような赤い髪、それにけぶるような翡翠の双眸、春夏秋冬の春夏秋冬を過ごしながらもなお白い肌、首いっぱい傾けてようやく顔が見えるほどのその長身。

 今ならばその時の「ときめき」とやらを罵倒してぶん殴る、それこそブロック塀でドカンと一発ぶん回したいところだが、いたいけな十五歳の少女の目に、大変呪わしく遺憾なことだがその男性は綺麗に見えた。この世の「美しさ」をかき集めて縫いこんで具現化したものだと、一瞬ちらっとさえ思えてしまった。

「魔力の使い方が荒すぎる。まるで八つ当たりでもするようだ」

「・あ……」

「そんな使い方では身を滅ぼしかねない。やめておきなさい」

「は、はい。すみません」

 しゅんと手の中の火玉と、周辺に浮かせていたそれらが消える。ぺこりと頭をさげると、「うん」とその赤髪緑目高身長の男性は喉を鳴らした。

 離れたところからだったのを、距離を詰めて傍まで来る。それなりに距離があったような気がしたのに、足が長いからたった三歩で埋められてしまった。

 美形の男性が私のすぐ傍までやってきて、この手首を掴む。大きな手にはあっという間に一周されて、なお余るくらいだ。指も長い。

「もう少し力を抜いて……。ん? なぜ力む?」

 そりゃあ力むでしょこんなに近くに美形がきたらッ!

「肩に力も入れないで」

 と、美形は右手に私の手首を、左手で私の肩を抱き、

「身のうちにある魔力と、ここにある魔力を混ぜ合わせるような感覚で……。ああ、そう。できている」

「(離れてくれ離れてくれ離れてくれ離れてくれ)」

「よく集中して。そして詠唱するんだ。ーー其は、」

 其は怒れる炎の光の一部。弱くも強く、しなやかでいて激しく、凍るように燃える襞。具現せよーー火の十四番、アシェッドノーツ……


「っわ、わ、わ」

「そうだ、それでいい」

 手のひらの上、ぼうぼうと燃える火玉がこれまでに見たことのない威力と色で身じろいでいる。驚いてこけそうになるのを、肩を抱く手が支えてくれた。背中に見知らぬ男性(しかも美形)の気配を感じながら、よく集中できたものだ。できていたのか? もしかしてこの魔法は背後の方のおかげではなく? けれども、

「よくできました」

 ……と、耳元で微笑とともに囁かれては、さすがの私も赤面した。これで赤面しない方がおかしいだろう。声、すごいいい声してるし。顔ものすごく整ってるし。背も高くて、魔法も使えて、パーフェクトか。

 美形がそっと離れて、私はやっとそこで息ができる心地がした。

「君は魔術師志望か?」

「は、はい」

「そうか」

 美形が頷き、そしてふと口元を気にしたように指をやる。私はもじもじと彼が次に何を言うのか待っていたわけなのだけれど、次の一言で私は凍ることになるのだった。

「君は魔術師には向いていない」

「……………………………はい?」

「君に、魔術師は向いていない」

まさかの二度目にして、まるで私に言い聞かせるようなものだった。

「………………………………………………………はいいいいい??」

 驚異的な三点リーダーの消費の仕方で、軽くこれは来世分まで使ってしまったに違いない。ガッタンギッタンと首を傾げて瞬く私に、しかし気づいているのか気づいていて無視をしているのか、美形……(と言うのも腹立たしい! だが実際この男は美形である!)……は、言うのだった。私に魔術師は向いていないと。

 頭に血が上るというのは、きっとこの時のことを言うんだろう。

「ど、どーいうことよっ! それっ!!」

「言葉のままだ。君に魔術師は向いていない」

「四度目ですって!? 一体何度言うつもりよっ!!」

「何度でも言う。君は魔術師に、」

「あー! あー! あー! あー! 聞こえません聞こえません! 持病の難聴がっ!」

 あーあーと大声上げて、両耳を手のひらで隠しながらその場を去る。走るのは癪だったから、できるだけ早い早足で。なんなら競歩で。しかし相手は諦めず(諦めろ!)私の肩を後ろからガッと掴んで引き留めた。もう美形とか言ってる場合じゃない。

「おい、待て」

「待ちません! さようなら!」

 止めようとする手を追っ払い、そしてまた早歩きでその場を去ろう、と、ガツンッ!

「ぃっ、だあ……!」

「だから待てと言ったろう」

 はあ、とそんなため息をして、お、おのれおのれおのれおのれっ!

 私はいましがた顔面からぶつかった木からよろよろと後ずさり、鼻をおさえた。これで鼻血まで出していたら、もう立ち直れない。本当に立ち直れないが、なんとかメンツは保ったらしい。それでも痛む鼻のあたりをおさえながら、下唇を思いっきり噛み、ギロリと長身野郎のことを振り返った。

「私に構わないでください! さようならっ!!」

 二度目に叫んで、今度こそ私はきちんと前を見て今度は木にぶつかることもなくその防風林を後にした。いつかの名作映画のように、「ヤな奴ヤな奴ヤな奴ッ!!」の言葉で脳内はパレードを開いている。


 防風林を後にして、街に戻る。喧騒にざわめく大通りを誰にもぶつからないように歩いていって、薬屋の角を曲がり、商業区から居住区に入ると脇目も振らず屋敷に戻った。一旦頭を冷やしてからバイトに行こう。幸い時間はまだあることだし。

 屋敷の扉を開けると、キッチンから出てきた妹と出くわした。その手には不似合いな新聞(私が朝自宅含めて届けたやつ)を持っている。

「あれ、お姉ちゃん? アルバイトは?」

「まだ時間あるから平気よ。それより嫌な奴に出会ったわ……ちょっとカッコいいからって調子に乗って、赤髪に緑目の」

「……色白に長身の……?」

「無駄にいい声した男の……?」

「魔法使い…………?…………」

 バササササッッ!!

 ベティが勢い良く新聞を散らばし、私はそれに体当たりの勢いで突っ込んだ。隣のベティも同じことだ、そしてその新聞の中から探していたものひとつ見つけて、私は更に戦慄することとなる。


 ーー宮廷魔術師ネロ・ユングフラウ(21)、国境防衛戦線での働きにより栄誉勲章受賞。これで通算五つ目の受賞となる。なお、ネロ氏は宮廷魔術師の最年少記録を保持しており……


 きゅ、宮廷魔術師ーー!?

 気づいた時には新聞を引き裂いていた。

 思いっきり引き裂いて、ビリッビリのギッタギタにしていた。隣でベティが涙目を浮かべているがどうしようもない。


「お、お、おのれネロ・ユングフラウ!! ネロ・ユングフラウ滅! ネロ・ユングフラウ滅っ!!」


 新聞だったものを踏みつけて、私は何度も「ネロ・ユングフラウ滅!」と叫んでいた。身体中がカーッと熱くてたまらなくて、屈辱が顔に浮かんでいるに違いない。だってこんなに屈辱だ! そして恥辱、汚辱侮辱に名誉毀損っ!

 あんなちょっと見た目のいい男なんかに、一瞬でもときめいた過去の自分が恥ずかしいっ!!


 ……そこから私のネロ・ユングフラウとの(への?)対立は始まったのだった。

 説明おわり。


 そして今、あの時と同じように……季節こそ違うが、またこの防風林で奴と対峙している。寒風に吹きさらされる髪はいつの間にか長くなり、長身は更に成長したのかあの頃より背が高くなったようだ。どうでもいいが。

「あの時君が顔をぶつけた木はどれだったかな」

「忘れろ!!」

 やはりここは一発足元の大きな石でガツンとやらねばならないだろうか……と本気で考えているところ、ネロ・ユングフラウが、なんでもないようなそんな声で、そんな声色で、こんなことを言うのだった。


「君は、魔術師には向いていないよ」


 ……六年掛けの、まさかの五度目。

 これはもう、人生のお別れはブロックでしても誰にも怒られないはずだ。


    五

「最近増えてるわよぉ」

 朝のビル清掃、野暮ったい制服と真っ白い頭巾をかぶりながら大きな窓に薬を吹き付けた。それを雑巾で拭いながら、今朝の新聞に釘付けになっている同僚のおばさんに返事をする。

「何がですか。マダム・ティニーの体重がですか」

「違うわよ! 通り魔よ、と、お、り、まっ!」

「通り魔あ?」

 ほら、と新聞をよこされるので、渋々受け取って広げられた紙面に目を落とす。これも朝方私がいろんな家のポストに突っ込んできたものであるが、中身については関与していないので、どんな記事があるのかまでは把握していなかった。早朝に私が考えることは、折り込みチラシを入れる時短と無駄の削減、配達の効率化、一分一秒を惜しむ行動の数々であって、隙間時間に記事を読むことではない。

 目を落としたところには確かに、

 「王都の通り魔、被害十件目! 衛兵は何をやっているのか? 夜道には特にお気をつけください!」

 ……の記事である。 

 ああそういえば、ベティも不審者が出るって言っていたっけ。これのことだろうか。

「ただのひったくりみたいなもんかと思ってたら、傷害事件にまでなってるんですね。知らなかった」

「しかも夜な夜なのことですって。あなたいつも帰り遅いんでしょう? 気をつけなさいな」

「ありがとうございます。でも大丈夫ですよ。私、魔法使えるんで。いざとなったら攻撃魔法でどうとでもできます」

「あら! そうだったの! それこそ知らなかったわ、今回の通り魔もレベッカちゃんが捕まえて、衛兵から感謝状送られたりしてね」

「フハハ、そんなことになったら、私の能力に目をつけた王宮が私を宮廷魔術師として召し抱えて、もうこのアルバイトも辞めることになりますね」

「それは困るわね……」

 真剣に言ったマダムに、笑ってしまいながら新聞をたたんで返す。

「まあ、関係ないでしょう」

 言いながら、掃除に戻った。キュ、と鳴る窓の向こうに、太陽はもうすっかり目を覚まして街のざわめきを見下ろしている。


 夜。というか深夜一時。

 居酒屋の仕事を終えて、今日一日終わりである。バックルームでエプロンを外しながら酔っ払いたちの笑い声やら騒ぎ声を聞いていると、中の人間に全く配慮しないノックひとつ、顔を出したのは店長だ。この店は夫婦で切り盛りしている。

「お疲れレベッカ」

「お疲れ様です店長。どうしたんですか。お給金の前払いですか」

「最近物騒だからさ、騒ぎが収まるまでは深夜までのシフトよした方がいいんじゃないか?」

「滅多に味わえないくらいの完膚なきまでの総スルーさすがです。私なら大丈夫ですよ」

「大丈夫ったって、君家まで帰りは一人だろう? うちの若いのを連れていけたら本当はいいんだけど……」

「業務上それは無理でしょう。だから大丈夫ですって。ご心配ありがとうございます、そのお気持ちだけもらっておきます」

 それじゃあ、ともう身支度も済ませ、カバンを持って店長の脇をすり抜けた。レベッカ、と名前を呼ぶ声は聞こえたが、小さかったので聞こえなかったふりをする。酔っ払いたちに曜日の感覚はどこにもない。そんな店内の様子にちょっと笑ってしまいながら、私は店の外に出た。息を吐けば瞬く間に白く染まる。今日も藍色の夜空にとっぷりと浸かる帰路だった。


「はあ、疲れた……」

 呟きながら寒風に身を震わせて、マフラーを首の後ろでしっかりと結んで留める。影も何も映さない石畳を低い踵でカツンと跳ねて、疲労もたまる身体では歩く速度も遅くなる。早く帰って、シャワー浴びて、乾かしながらあくびをかみ殺して。ふかふかのベッドに落ちてしまえばまた次の日の繰り返し。そうして数年経過した。この生活にももう随分慣れたものだ。

 カツン、と夜に濡れる石畳を弾く。もう真夜中のことだから、できる限り近隣の迷惑にならないように努めてそっと。

 カツン。カツン。カツ、カツン。

 そこにふと、音が混じった。

 カツン。ガロ。カツン、ガロロ。カツ、ガッ、カツン。ゴツン。

 立ち止まる。そうすると、後ろから聞こえる音も止まった。ピタリ。

「………………………………」

 どんなにグルグル巻きにしてもマフラーの間から寒風が入り込む。そうだだから、この寒気は寒さからに違いない。私はもう一度歩みを再開した。後ろからの靴音も、それにならうかのように再開する。

 カツ、ゴツ、カツン、ゴツン、カツカツカツ、ゴツンゴツンゴツン。


 ーー最近夜になると不審者が出るんだって。

 ーー最近多いらしいわよお、通り魔。

 ーー最近物騒だからさ、騒ぎが収まるまでは深夜のシフトよしたほうが……


 ぶわと、寒い夜のはずなのに冷や汗が吹き出した。一瞬にして目が回る。

(嘘、嘘、嘘、嘘。何かの間違いだわ。きっとそうよ、きっと進行方向が同じなだけなんだわ、きっとそうよ)

 心臓がうるさい。まだそうと決まったわけじゃない。立ち止まったのも、歩き出したのも、そのタイミングがかぶるのはきっと偶然、なんてことはないのだ。だってもしかしたら、私が止まったタイミングで靴紐がほどけているのに気付いたのかもしれない。私が歩きを再開するときに、靴紐を結び直すのが終わったのかもしれない。だからそう、これはそんな大げさなことじゃなくて、そう、だから…………

「…………っ、」

 息が詰まって、顔の産毛まで総毛立つ。ビクビクと震える指先を握りしめることでなんとか黙らせ、下唇を噛み締めながら、煩わしい心臓をどうすれば黙らせることができるのか、考えても考えても見つからない。

 立ち止まった。背後からの音も、それに合わせてピタリと止まる。また靴紐がほどけたのかしら。よっぽど結ぶのが下手なのかしら。

 心臓がやかましい。額にうっすらと浮かぶ汗が、冬の空気にさらされて冷えていく。

 息を呑み、ぎこちなく、振り向いてーー

「ーーッ!!」

 直後、私は駆け出した。

 暗がりに、ニタリと笑みに光る猟奇的な眼球と、その手に持った刃物がぬらりと光る。一瞬で髪の毛が逆立つほどの恐怖だった。駈け出す。走る。もうよその迷惑とか言ってられない、どんなに踵が甲高く地面を叩いても、配慮なんかできやしなかった。

 逃げなければ。

 本能、直感、表すならそんなところ。

 あれに近づいてはいけない、近づかれてもいけない、はやく逃げろ、はやく逃げろ、何をおいてもさっさと逃げろ!

 頭の中で警鐘のような言葉が頭痛となって傷つける。はくはく息が上がっても走り続けた。後ろの足音は張り付いたように離れてくれない。

(振り切れる!? わからない! まっすぐ家に帰っちゃダメだ! 撒いていかないと! でも私の足の速さじゃ長くは持たない、ええい!)

 走りながら振り向いた。凶器を持った男がぐんと加速して、ヒッと喉に息が絡む。震える指先を叱咤して、なんとかくるりとそれを回した。

「か、壁になって!」

 ガツン!

 不可視の壁に通り魔男が顔面からぶつかり転ぶ。その隙に加速して、肺が悲鳴をあげていた。「待てこの女!」とそんな怒号が後ろから聞こえてくる。待ってたまるか、待つものか、ああでも怖い、恐ろしい、あの壁の効力は一度だけだ。すぐに追いつかれてしまう。

(魔法、魔法、魔法を使って攻撃すれば、っああなんでこんな時に詠唱がひとつも出てこないっ!!)

「ーーっっ!!」

 足がもつれて、その場に転んだ。両膝にビリリと痛みが走る。早く立ち上がらなくちゃ、早く逃げなくちゃ、早く、早く早く!

「ぃ、ッだ!」

 立ち上がろうとして、失敗した頭をガッと掴まれ引っ張られる。そのまま背中から石畳に転んでしまって、打ちつけた身体に肺が震えた。息ができずに咳き込むのに、馬乗りになられた重みに意識が戻る。振り上げられたナイフが月の光をギラリと弾いた。

「ヤ、ヤダ! ヤダヤダヤダッ!」

 暴れる身体、頤を掴まれて、それを一気に地面に打ちつけられる。筆舌に尽くしがたい痛みが脳に回って、ガクンとそれが揺れた気がした。目が回る。目の奥がチカチカする。一気に身体から力が抜けてしまって、それに気を良くした吐息の音を聞いていた。

(魔法、魔法、魔法、魔法っ! 魔法を唱えなくちゃ、詠唱を、ああ、どうしようどうしようどうしよう、怖い、怖い、怖い、怖い!!! 怖いっ!!)

 「ンー!! ンンンンーー!!」

 頤を、掴む手に爪を立てる。歯を立てる。頭をブンブン振ってみても、男の大きくて生ぬるい手は離れなかった。いよいよ恐怖が振り切れて、身体のあちこち震えているのがよくわかる。そしてそれがこんなにも情けない!

 震える身体を宥めもできず、瞬きも忘れた視界の中で、男が夜目にもわかるほどニヤリと笑った。そしてその手の凶器を振り上げてーー


「ーー雷の五番、グランディオール・バトレー」


 バチバチバチバチッ !!

 弾けるような音と、それと一緒に悲鳴で重みから解放される。ガランと何かが落ちる音がした。きっとナイフだ。私は動けないまま目だけが現実を脳に語りかけ、止めた息はまだ戻らない。全身にかいていた冷や汗がドッと熱を持ち、こんな季節にそれは冷たく身に沁みた。

 こんな、雷の大魔法をいともたやすく詠唱破棄で発動できるのはーー、

「……無事か、レベッカ」

 やっぱりお前か、ネロ・ユングフラウ……!


 突然現れたネロ・ユングフラウは、落ちたナイフを遠くへと蹴り飛ばし、落雷の直撃を喰らって悶絶する男の襟首を掴んで地面へと叩きつける。その腹を踏みつけながら、かざした右手に魔法でロープを呼び出し、素早く縛りつけた。男が暴れているが踏まれてかつ縛られてしまってはどうにもならず、ネロ・ユグフラウがピィ、と指笛を鳴らせば、ガチャガチャと鎧の音がやってきた。衛兵だ。

「はっ! ネロ閣下、如何なさいましたか!」

「これまでの連続通り魔犯かはわからないが、婦女暴行・傷害未遂でこの男を捕縛した。あとはあなたがたの仕事だ」

「なんと! 承知いたしました。それでは我々が引き取ります。閣下のご協力感謝いたします」

「いい。連れていけ」

「はっ!」

 ガッチャガチャ、無粋な鎧の音を響かせて、衛兵が数人がかりで暴れる男の身体を持ち上げて連れて行く。口汚ない罵倒の声もそれと一緒に遠ざかった。その有様を目だけで見送って、いまだ起き上がれない私は、ようやく絡んだ息を吐き出せた。ひっきりなしに胸が動いて、何度か咳き込む。

 ネロ・ユングフラウは、てっきり衛兵たちと一緒に行くかと思ったのに、思いがけずまだここに居た。

「起きれるか」

 手を差し伸べられながら、そう言われる。

 咳き込みそうになるのを飲み込んで、その手を取らずに起き上がった。肺が軋むようだ。ゲホ、と、我慢したはずの咳が出る。

「宮廷魔術師さまが、こんなところで衛兵の真似事でもしているの?」

「手伝いだ。どうせ夜は時間を持て余している。それより怪我はないか」

「ないわ」

 言いながら、ぶっ飛ばしていたカバンを拾って土を払った。肩にかけながら、燻る鳩尾の熱を持て余す。イライラするのだ、どうしようもなく。無性に嫌になってくる。

 魔法の詠唱破棄なんて、そうそうできるものじゃない。それこそ大魔法使いでもなければ。よほどの使い手でなければ。

「レベッカ」

 名を呼ばれ、顔を上げる。本当は見られたくなかったけれど、これで顔を逸らしたままというのもなんだか屈辱に思えてならなかった。

「君は、魔術師には向いていない」

「………………は?」

「魔術師に必要なのは、冷静さと、酷薄さだ。そして何より合理的な思考。君にはそれが欠けている。だから魔術師には向いていない」

「ッなに、それ。それ、今言わなきゃいけないことなの? 今、それのなにが大事なの?」

「君はまず助けを呼ぶべきだった」

「はあ!?」

「自分の魔力を、魔法を過信せず、何よりも声をあげて助けを求めるべきだった。君の魔力や魔法の威力では、こういった危機的状況で役に立つものではない。だから君は魔術師には向かない。何度も言ってきたことだ」

「な、……」

 なにそれ。

 ……なにそれ。


 パタ、と、カバンを握る手の甲に、熱くて冷たい雫が落ちた。瞬きするたび、それが星のように散っていく。わななく唇を噛み締めて、ガチガチと鳴りそうになる歯をどうにか堪えて、否応なしに滲む視界でそれでも強く睨みつけた。相手はいくらか狼狽したのか、困惑げな表情を浮かべている。

「こ、こ、怖くて、声も出ないことに、そんなこと言われなきゃいけないの? そりゃあ、確かに、私の魔法なんて威力がたかが知れてるし、あんたみたいに詠唱破棄だの、大魔法だの、使えないわよ。それでも、今もしかして自分が殺されるかもしれないっていうときに、襲われるっていうときに、どうしようもなく萎縮してしまうのを、そう言われなきゃいけないの? いくら魔法使いに冷静さが必要でも、取り乱すだけでその価値はないと言われなきゃならないの?」

「……」

「どんなにっ、魔法を唱えようとしてもっ、喉でつっかえて、何も詠唱できなくてっ! 恐ろしいと思う気持ちさえ認められないっていうのっ!? そういう人間的な感情さえ、不要なものだとされなきゃいけないの!?」

「不要なんだ。魔術師には。そうありたいと願うなら、まず切り離さなければならないことだ」

「そんなのただの人形と一緒じゃないっ!!」

「…………………………」

「あんたに、あんたなんかにわかるもんですかっ! 私がどれだけ怖かったかっ! 私がどれだけ魔法に憧れて、欲しくて手を伸ばして、でも現実に打ちのめされる絶望が! わかってたまるもんですか、根っからの苦労知らずの宮廷魔術師さまなんかに! わかるか、わかってたまるか、あんたには絶対わからない!!」

 私の希望も! 絶望も! わかるものかわかるものか!

 父の借金返済という名目で、いろんな思い出の詰まった家具家財の一切奪われて、今までいい父だと思っていた人に、他に囲った女がいるとわかったときの私の気持ちが! その女との間に子供まで作っていたのを知ったときの、世界がこのまま終わる気さえしたあの泥のような気持ちが!!

 宮廷魔術師と宮廷魔術師の間に生まれて、その将来を約束されて育って、暖かで安寧な日々を送ってきたお前なんかに!

 わかるものかわかるものか! わかってたまるか!

 何不自由なく育てられ、あらゆる魔法に精通して、生きることに何の苦労も知らないお前なんかにっ!!

「レベッカ、」

 近づこうとした男の頬に、バシン、と加減もしない手を振り抜いた。食いしばる唇に抵抗して、涙はあとからあとから落ちてくる。それがまたこんなに悔しい。

「気安く私の名前を呼ばないでよっ!!」

 ほとんど悲鳴、泣き声にも。

 そのまま走って奴の傍を駆け抜けた。

 いまだに溢れる涙が邪魔で、何度も拭いながら屋敷に飛び込む。バタンと扉を閉じてから、ずるずるその場にへたり込んだ。

「ぅ、うっ、……うううぅぅぅうう~~~…………!」

 悔し涙は目が焼け落ちるんじゃないかというほど熱くって、同じだけ、叩いた左手も痛かった。


    六

「生ビールお待たせいたしましたあっ!」

 ガツン!と生ビール六つをテーブルに置く。いつもならもう少しゆっくり置くのだが、初めましての六人組はそんなことに気づかずビールを分けて乾杯の音頭を取り始めた。聞かずに次のオーダーの配膳に移るためにデシャップ台まで戻っていく。まだ次の料理はできていないようだった。新規のオーダーもきそうにないので、隙間時間にやるおしぼり作りをすることにした。

「レベッカ、レベッカ、おしぼり千切れる」

「えっ?」

 手を離すと、今まで手の中でギュウギュウに捻っていたおしぼりが足元にぽっとりと落ちた。よく思い出すと、確かに私はおしぼりを丸め直すどころか右に左に捻ってギシギシとおしぼりをいじめていたのだ。マダムを振り向くと、呆れたような、心配そうな顔をしてそこに居る。

「どうしたの? なんだか今日は提供も雑だし、いつもと違うわね」

「そんなことは……」

「何か心配ごとでもあるの?」

「……………………」

 心配事というか、何というか。

 己の恥にどうしようもなくなってるというか。

「なんでもありません。すみません。料理提供についても気をつけます」

「……なんでもないならいいんだけど」

 マダムは、まだ何か言いたげだったが、私が口を割らないことを察知したのか、厨房の方に戻っていった。私は落としたおしぼりを拾って、それをゴミ箱に投げ入れる。次はきちんと丸めよう、と、思いながら手を伸ばして、ため息をついた。


 あれじゃあただのヒステリーだ。

 せっかく助けてくれたのに、そのお礼も言わずぶっ叩いて泣きわめくなんて。それも奴の目の前でだ。恥ずかしい。これ以上の恥なんて多分ない。

 そして謝る気もない。

 なにはともあれ腹の立つことを言ったのはあいつだし、あのタイミングで

「君は魔術師には向いていない」

 はないだろう。いくら振り向いても「ない」としか出てこない。宮廷魔術師さまは空気を読むのにも欠けている。

 ああ、思い出せば思い出すほど恥と怒りでどうにかなってしまいそう!

 また引きちぎりそうになったおしぼりを高速で丸めてボックスに突っ込んだ。次のおしぼりを手に取りながら、「くそっ」と小声で悪態をつく。


 そんな時、カランと店のドアが鳴った。ご新規さんのお出ましだ。私は持っていたおしぼりを一旦横によけて、すぐにデシャップ台から扉に向かう。

「いらっしゃいま、ーーぐえ」

「一人だ」

 聞いてもないのに答えるそいつ、まごう事なきネロ・ユングフラウ!

 なんだってこいつがこんな個人経営のちんまりとした大衆居酒屋にやってくるのだ! 宮廷魔術師は宮廷魔術師らしくお城でたっかいワインでも傾けていろっ!!

「な、な、何しに来たのよ、あんたあっ」

「居酒屋に来たんだから酒を飲みに来たに決まっているだろう」

 それはそうだが癪にさわる!

 とは言えずに口を噤む。

「あと、君に会いたくて」

 ドカンと頭が爆発した。そんな気がした。


「ご注文は」

 あのまま扉の前で問答を繰り広げたらまたマダムに声をかけられそうだったので、適当に開いている席に奴を通した。ちんまりとした椅子にちんまりと腰掛ける宮廷魔術師のでかい身体はちぐはぐすぎてなんとも笑えるところだったが、今の私にはそれを笑えるだけの気力もない。

 目の前に恥と怒りが体現したらそりゃあ笑えもしないだろう。接客業にはあるまじき仏頂面のつっけんどんになってしまうのも、相手が相手だから許してほしい。本当はこんな公私混同しちゃいけないのもわかっているが。

「君は今日何時上がりだ?」

「生ひとつでよろしいですか」

「ぶどう酒で頼む」

「かしこまりました」

「それで、君は何時上がりだ」

「スタッフの個人情報はお教えできません」

「これは個人情報か?」

 いや知らんけど、多分きっとそうだと思う。

 メモにぶどう酒と書きつけて、さっさとその場を離れようと身を翻し、

「待て。本当に君に会いたかったんだ。上がり時間を教えるのがダメなら少し話がしたい」

「業務に差し支えますのでお断りします」

「……食事メニューの端から端まで全部頼む」

 ファミリーレストランで夢見る子供か! あと掴んだエプロンを離さんか!

 なんだかバカらしくなってきて、呆れの大ため息を肺から吐いた。

「……いつものとおり一時上がりよ。あんた、まさかそれまでいるつもり?」

「いる」

「あと三時間もあるじゃない……」

「構わない。君を待つ」

 私が構うんだよ。とは言えないまま、掴まれたままの手を払い、オーダーを通すためにデシャップに戻る。

 ぶどう酒と、あと料理メニューの端から端まで。まあ素敵、今日の売上が見れないことが残念だ。

「ちょっとちょっとレベッカちゃん! あれ誰? 恋人?」

「誰が恋人ですか!!」

 好奇心旺盛で顔をのぞかせたマダムに、思わずおしぼりを投げてしまった。


    七

 午前1時。

 今日も予定どおり仕事が終わり、私はエプロンを外す。奴は本気でテーブルに出された料理メニューの端から端までに若干おののいていたようだったが、意地でかそれとももともとよく食べるのかきちんと全部食べていた。驚異的な胃袋をしている。だっておつまみから締めまでデザートも含めばメニューの数はそれなりにあるというのに。

 着替え終わって店を出ようとすると、待ち構えていたようにネロ・ユングフラウがマダムにお会計をお願いしていた。量が量なのでお会計も手間取るに違いない。なんたってオーダーを通した時、マダムも店長も嬉しいながら青ざめていたものだから。

 お会計がうん万となっているキャッシャーを横目に見ながら後ろを通って外に出る。いつもこの瞬間の、火照った身体に寒さが沁みる瞬間に慣れなくて、うっと首を竦めてしまうものだ。

「レベッカ」

 店を出て、階段を下り、石畳に落ちる。踵は音を立てないで、こないだのことがあってから、少しでもヒールのある靴はやめようと思った。音の高さで見つかってしまう。もちろん、そんなこと関係ないのかもしれないが、自己防衛はできる限りで取るべきだ。

「レベッカ!」

 二度目に呼ばれ、肩まで掴まれては立ち止まらないわけにもいかない。引かれるまま振り向かされて、顔を上げれば当然の顔がある。

「なによ。言っておくけど、こないだビンタしたことは謝らないからね」

「それはいい。私も、タイミングが悪かった。あの時君は、相当恐ろしい思いをしていたはずなのに」

「…………」

「すまなかった。考えが足りなかった」

「……………………」

 夜目にもわかる赤い髪が、さらりと溢れて頭を下げる。そうされても比べて身長の低い私ではその顔が見れるわけだが、確かにその表情は苦悩というか申し訳なさそうな色をしていた。演技ではないんだろう。そもそも、こいつに演技ができるかどうかが謎だが。(見るからに下手そうだし)

 謝罪をする相手に、私はどう答えればいいのかわかりかね、結局何も言えないでいる。だって、許すとも許さないとも言えないんだもの。そりゃあヒステリーを起こしたのは私だけれど、カチンときたのは事実だったし、それ今今わなきゃいけない話?と思ったのも本当だ。それを相手が自覚したことは少なからず嬉しいが。

 白い息を吐き出してから、首を振った。

「宮廷魔術師さまもご苦労様ね。通り魔の捜索にまで参加するなんて」

「個人的に志願したことだ。通常業務ではない」

「ならわざわざ何でそんなこと……。よっぽど愛国心が強いのね。こないだも夜中にこの辺りで出会ったし」

「それは、」

 決まっているだろう、と、続けて言って、私の手が取られた。何が決まっていることだって? というかなぜ急に私の手を取る?

 何を、と、言おうとした私の言葉は、しかし言えずに終わってしまった。


「君が好きだからだ」


 …………………………………………

 はい?

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